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第一章

 うららかな陽の光が我が家を照らしていた。窓からは涼しげな風が入り込み、さわやかな空気にしてくれていた。小鳥のちゅんちゅんという鳴き声も響き渡っていた。ひとことで言えば春にふさわしい天気をしていた。

 そんな中テレビのニュースでは、

『人気音楽グループの〇〇氏がマネージャーに対してセクシャルハラスメントをした件について、本日裁判所に訴えが提起されました。氏は業務の斡旋を引き換えに、性的関係を持ち込んだ疑いを持たれれております。インタビューに対して○○氏は、』

 ぷつんと電源が落とされた。向かいにいる父さんを見ると、ちょうどテーブルにリモコンを置いているところだった。

「朝から気分の悪いニュースだな」

 そう言いつつ味噌汁を口に注いだ。隣では母さんが鮭を細かくほぐしつつ、

「そうねえ。私あの人の曲よく聴いていたから残念ねえ」

 と、相槌を打っていた。僕は黙々とご飯を食べていた。食卓には他にもほうれん草のおひたしと卵焼きが載っていた。母さんは僕の方を向いて、

「蓮。学校は間に合う?」

「うん。まだ余裕だよ」

 時計を見ると七時四十五分を指していた。とはいえ、これ以上ダラダラしていると怪しくなってくる。少しかきこむような形でご飯を食べた。

「ごちそうさまでした」

 自分の使った箸・ご飯茶碗・味噌汁茶碗を台所に置いておいた。素早くリビングに戻り通学用のデイバックを肩にかけた。絵の具のジャラジャラした音を響かせながら玄関に向かい、

「いってきまーす」

 と、挨拶をした。ドアを開けると雲ひとつない空が広がっていた。

「いってらっしゃい」

 母さんの声を背にしながら外に出た。大きく背伸びをして、空気を肺の中に持って行った。

 気を入れたら自分用の自転車をとって、家の前の道路に出た。道には通勤・通学に行く人たちがポツリポツリと見えていた。道ゆく人を横目にして、僕は海岸線の方へと自転車を漕いで行った。遠くに見える海原は朝の光できらきらしていた。

 坂道をゆっくりと下っていき、海沿いのT字路につくと、すでに友人は着いていた。ガードレールに寄りかかっている姿はどっかのアイドルを思わせ、近くを通り過ぎていった女子高生たちにキャッキャと言われていた。

「よう」

「早いな」

 春樹は気だるげにやや長めの髪をかきあげた。ブリーチをかけてまた少し明るくなったみたいだ。公立高校だから特に規則はないとはいえ、

「そんなに痛みつけているとハゲるんじゃないのか?」

 軽口を叩いてみると、彼は目をこすりながらニヤリと笑い、

「そんな先のこと考えてもしょうがねえだろ。今が良ければそれでいいだろ」

 軽く受け流していた。

 どちらともなく学校の方へと自転車を走らせ始めた。休日になると観光客で混むこの道も、平日の朝はすいすいと進んでいけた。砂浜の方を見ると、ウェットスーツを着た人々がサーフボードを持って歩いていた。一足早い海開きが始まっているようだ。海水浴場ではちらりほらり揺れている人々が見えた。

 通学中ずっと黙っているのも落ち着かないので、

「春樹。単語テストの勉強した?」

 当たり障りのない、正直答えを期待していない質問をした。案の定先方も、

「フツー。なんとかなるんじゃない?」

 いかにも適当な返しをしてきた。

「そっかー」

 会話終了。途中の駅の表札を見るとちょうど中間地点。さて次はどうやって場をもたそうかと考えていると、

「蓮さあ。志保になんか言った?」

 よく春樹がつるんでいる女の子のことを聞いてきた。意図がわからないが、

「ああ。そう言えばちょっと話をしたな。先週の金曜に春樹がその日どうしてるかって玄関で聞かれたっけな。んで? それがどうかした?」

「お前、そっくりそのまま本当のこと答えたか?」

「はあ。そりゃもちろんだけれど。なんかまずかった?」

「いんや。ただ面倒なことになりそうだなと思っただけだ」

 いつの間にかS高についた。生徒たちの波に乗りつつ、自転車置き場の方に向かった。途中、同級生とすれ違ったので、軽く朝の挨拶をした。そこそこいい時間になっていたので、手前のスペースは空いていなかった。僕たちは少し入り区待ったエリアのところに自転車を置いた。

「さて。教室に向かうか」

「そうだな。おっと」

 春樹は玄関の方に顔を向けた。釣られて僕も視線を動かすと、一人の女の子が仁王立ちになって行く手を塞いでいた。さっき話題に上がった志保さんだ。

 目はつりあがっていて、頬はピクピクと震えていた。後ろから蒸気が湧き上がっている気配すらあった。遠目からでも解るくらい怒っている。

 春樹はさっきまでの気だるさとは打って変わって、

「あ、志保ちゃん。おはよう」

 少し高めのトーンで、少し抑揚をつけた爽やかな声で挨拶をしていた。よくこんな分かりやすい猫かぶりできるな。

「……」

 相手からは反応なし。それでもさして気にした風もなく、

「どうしたの? 怖い顔をして」

 女の子に声をかけ続けた。相手は目をわずかにあげて、

「春樹さあ、先週の金曜日に何してたの?」

 さっき言ってたのはこのことだったのか。確か春樹は桃子ちゃんとY浜球場で野球を見に行くって言ってたっけ。

「桃子と野球を見に行ってたなあ」

 彼女の頬の色がわずかに薄くなってきた。心なしか目も細くなってきた。

「へえ。他の女と行ったんだ」

 何か問題があったっけ。春樹とこの子って付き合ってたっけな?

「えっと、よくなかったかな。君と付き合ってたっけな?」

 さらに顔の色が薄くなった。ブラウスの袖が寄るほど強く手を握りしめていた。

「ふーん。前に『俺は君に夢中だ!』って言ってなかったっけ?」

 あー。コイツのことだから口にしただろうな。でも、コイツのことだから色んな子に伝えているからなあ。

「その気持ちに嘘はないよ。でも俺はどの子にも夢中になるんだよ」

 志保さんの顔は能面のような色になった。反比例して身体中から殺気を撒き散らしていた。目は狐のような薄さになっていた。これはあれかな。青い炎ほど高温というのと一緒かな。

「春樹。ちょっとこっちの方を向いてくれる?」

 目の前の子は右側の自転車置き場を指差した。春樹はそっちの方を向いた。僕も気になって首をうごした。

『パチーン!』

 甲高い音が朝の玄関に響き渡った。友人を見ると体をふらつかせながら、左頬を押さえていた。結構痛そうだ。春樹の首もげたんじゃないか?

「二度とそのツラ見せんじゃねえ」

 今時ヤクザ映画でも言わないような台詞を口にして、志保さんは立ち去って行った。後には残された男二人と、野次馬のみなさまがいた。

『見た? あれ?』

『修羅場だったねえ。痴情のもつれ?』

『ドラマみたいだったねー』

 僕も同じこと思ったよ。朝からダイナミックなネタを提供しているな。もう少し様子を見ていたいものの、あまり目立つのも具合が悪いので主役の方に近づいて、

「そろそろ教室に戻ろうぜ」

 暗に移動を促した。

「ああ。そうだな」

 友人はまた気だるげな声でうなづいた。そのまま周りの生徒たちを無視して、玄関の方に向かった。背後からは未だにヒソヒソ声が耳に入ってきた。

「君って目立つの好きだよね?」

「別に。ただ巻き込まれているだけだ」

 かったるそうに春樹は言った。

「今年に入って三度目だっけ。さっきの人を含めて」

 一人は末代まで呪い続けてやると喚いていたっけ。長い髪を振り乱して恐ろしい形相だった。一人はあなたも殺して私も死ぬって言ってたっけ。今にも首しめようと飛びかかりそうな人を、周囲の人で取り押さえたっけ。それと比べると今日はマイルドな方だった。

「君って罪づくりな男だね」

 からかいのトーンで言うと、

「まあな。ほら俺ってイイオトコだから」

 軽く口角を上げた。残念ながら男の僕からさえ見てもサマになっていた。まして女の子からは魅力的に見えるだろう。その証拠に群衆の中から小柄な子がちょこちょこと駆け寄ってきた。

「先輩!? 大丈夫でしょうか?」

 たしか春樹と同じサッカー部の人だっけ。

「血がついてますよ」

 よく見るとわずかに赤い線が見えていた。その子はすかさず自分のハンカチで先輩の頬をぬぐっていた。修羅場女さんはいったいどれだけ強く叩いたんだ。後輩のされるがままになっていた春樹は一息ついたら、

「ありがとう。助かったよ。こういうときに理子ちゃんの優しさがしみわたるよ」

 寂しげに笑って後輩ちゃんの頭をポンポンと叩いた。僕からすると演技くさく感じることも、人が変わると見方も変わるようだ。後輩ちゃんは顔をぽーっと赤くして慌てた後、

「それじゃ先輩! また部活で!」

 逃げるように玄関の方に向かっていった。その頃になると生徒たちも飽きたようで、散り散りになって普段の生活に戻っていった。それにしてもまたコイツに泣かされる子ができたみたいだな。心の中でため息をついていると、

「蓮。そろそろ行かねえとまずくね」

 さっきまでの出来事が嘘のようにしゃんとした友人がいた。周囲の人々は気持ち早足になっており、時計もいい時刻を指していたので、朝の学校に向かった。


 玄関は大変に混雑していた。一年から三年が行き来していて、それぞれ挨拶が繰り広げられていた。一年生の下駄箱にいって、自分の上履きを床に置いた。何気なく春樹の方を見ると、靴だけでなく小さな封筒を持っていた。丁寧にもハート形のシールで封をしていることから、何か想像はついた。

 S高生になってから何度も受け取ってきたのか、特に驚かなくなったようだ。春樹はカバンの中に封筒を入れ、さっさと教室の方に向かった。慌てて僕も自分のに履き替えて、クラスメイトを追いかけた。

 薄情にも僕を待つわけでもなく、スタスタとだいぶ遠くの方に進んでいた。心の中で悪態をつきつつ早足であるいていると、春樹はふと壁の方に目を向けて足を止めた。そのおかげで僕は彼に追いつくことができた。

「何かあった?」

 友人は肩をびくっとさせて僕の方に振り向いた。

「ああ。別に」

 ぶっきらぼうの返事が来た。僕も壁に顔を向けると多くの絵が飾られていた。テーマは『名画と私』。知名度の高い人物画の顔を自分のに描き換えようというやつだっけ。

 僕たちの学年がこの前取り組んだやつだ。ゴッホにルノアールに写楽。生徒たちが思い思いに描いてあった。春樹の視線を追うと明らかに他のよりも抜きん出た作品があった。

 ルネ・マグリットの『人の子』をベースにした絵だった。曇天と薄暗い海を背景にして、男の人の顔がりんごで隠されているもので、僕も前に展覧会でみたとき不気味で不思議な印象を持っていた。

 とはいえ、この絵はだいぶ変わっていた。空は雷雨と思わせるような黒さをし、海は荒ぶように波打っていた。りんごで隠れている人物も髪の長い女の人で、強く刺すような視線をしていた。

 突如、身体中に電撃が走るような感覚を抱いた。あの人だ。この前、美術室で一人絵を描いていた人だ。あの絵と同じような激しさがある。この絵は僕たちの代ではなく二個上の先輩のみたいだ。名前の欄に目をやると『本庄翼』と書かれていた。僕は隣にいる友人に、

「春樹。この本庄翼って人知ってる?」

「ああ。翼先輩だろ。うちの部の先輩たちの間でむちゃくちゃ美人だって話がよく出ているな。おまけにノリが良くて気さくですごい人気が高いみたいだな。っと。噂をすれば」

 僕にだけわかるように軽くあごをしゃくった。そちらの方に目を向けると、心臓がドクンと大きくなった。

 この絵と同じ人が立っていた。春の日差しに照らされた本人は絵よりもさらに綺麗で、まるでそこだけ輝いているように見えた。ちょうど友人の方と話しながら歩いており、僕たちには気づかずに通り過ぎていった。自分の顔がうっすらと上気していると思ったので、見られずにホッとしていた。

 春樹はニヤニヤ笑いながら、

「おいおい蓮ちゃん。お前には無理だよ。諦めな」

 彼の口調にイラっとしつつ、

「そんなんじゃないよ」

 と言った。もう一度この人の絵を見た。マグリットの空気感とは全く異なるタッチに強く惹かれていた。一体どうやってこんな荒々しさを描いているのだろうか。一体どんな気持ちをこめて描いているのだろうか。翼先輩と翼先輩の絵についてもっと知りたくなっていた。

『キーンコーンカーンコーン』

 HR前のチャイムが鳴り響き、周りの生徒たちはかけ足になってきた。

「おい。早くしねえと遅れるぞ」

 友人も流れに従って歩き出した。僕も歩を進めようとしたところ、隅にある一枚の絵を見かけた。エドゥアール・マネの『笛を吹く少年』をモチーフに選んでいた。作者は『辻村蓮』と書かれていた。僕が描いた絵だ。

 人物の体格が少しバランスを崩しており、背景の色も単調に塗られていた。翼先輩の絵には天と地もの差がついていて自己嫌悪を抱いた。内心の曇りを振り払うように、僕は教室の方へと急いだ。



 朝のクラスはガヤガヤと騒がしかった。昨日のドラマの話、授業の話、彼氏彼女の話が飛び変わっていた。本鈴が鳴ると同時に先生が入ってくると、周りは慌てて座り始めた。全体が静まり返った頃に、

「起立」

 次々に椅子を引きずる音が響いた。

「礼」

 全員が一堂に教師に向かって頭を下げた。

「着席」

 また、椅子を引きずる音が響いた。先生は一旦自分に注目が集まるのを待ったのち、

「はい。おはようございます。今日はまずみなさんにお渡しするものがあります」

 そういって、手に持っているプリントの束をトントンと叩き、列の先頭の人に手渡した。生徒たちは配布物をどんどんと後ろに流していき、全員に行き渡った頃に先生はまた口を開いた。

「みなさん、一年生になって間もないですが、まずは進路について参考までに考えてもらいたく思います。国立か私立か、文系か理系か。どの大学に進みたいか。来週の頭までに提出していただくようお願いします」

 そのあと細々とした連絡をして、次の授業のために出ていった。先生が出て行った後、口々に進路について話ていた。

「今から考えるのかったりーなー」

「俺は私立だわー。国立で五科目なんて受けられっか」

「親は国立に入ってほしそうなんだよね」

「授業が全然違うからねー」

 そういって、各々が自分の希望を述べていた。

「蓮は?」

 正直に言うと僕は何も具体的なことを何もイメージできていなかったから、焦燥感を持っていた。しどろもどろになりつつ、

「国立の文系かな。国語とか社会とか好きだから」

「ああ。っぽいっぽい」

「なんかそんな感じするー」

 どんな感じだよ。内心のモヤモヤを悟られないように、

「春樹はなんかいきたいところある?」

「俺も文系かなー。理系なんて実験ばっかで合コン行けなさそうじゃん」

 コイツらしい回答だな。女第一に動くことがすごくわかりやすい。僕もきっぱり決められればいいんだけれど。

 一緒に配られた大学一覧をなりゆきでぼんやりと眺めた。日本全国で見ると、意外とたくさんの名前が書かれていた。よくテレビでみる有名大学や、聞いたこともない大学が入り混じっていて興味深かった。

 ふと美術系の大学が記載されているスペースに目がいった。G大・M大・T大。よく耳にする名前が並んでいた。自分が美大に入って絵を描いている姿を想像したら無性にワクワクして来た。どんなに楽しいだろうか。

 すぐに現実をみた。自分の絵で受験に耐えれるとは到底思えない。どう考えても自分に才能があるようには見れない。無駄なことを考えていないで、しっかり受験のことを意識しなくちゃ。ちょうど一限の担当教諭が入って来たので、思考はそこで途切れた。



 窓からは西日が差し込んで来た。ポカポカした陽気の中、僕はこっくりこっくりと船をこぎかけていた。先生が話す英語の文章はさながら子守唄のように聞こえた。眠気を覚ますようにシャーペンで手をつついて必死に抵抗していた。

『キーンコーンカーンコーン』

 授業終了のチャイムがなって、解放された空気が一気に充満した。僕も大きく伸びをして、すっきりした気分を味わった。先生も説明を続けようと思ったが本人も疲れていたのか、

「はーい。残りのところは来週やるから。ちゃんと予習しといてー」

 若干投げやりな口調で授業を切り上げた。先生がさった後、一気に賑やかな雰囲気になった。あんなにあった眠気が嘘のようだ。

 担任の先生が戻って来て、諸連絡について何点か伝えた。これでやっと学校も終わりだと思っていたら、

「そうそう。朝配布した進路希望、早めの提出をお願いします」

 放課後気分に水を差された気分になった。どこの大学に行きたいか決まっていない身としては、荷の重い仕事だった。

 とはいえ、そんなのは僕ぐらいのようで、クラスメイトたちは部活やらバイトやらの支度で慌ただしかった。となりの春樹も大きめのスポーツバッグを持って立ち上がっていた。

「どう? レギュラー取れそう?」

 コイツは見た目の印象通り運動神経よかったっけ。

「ああ。全然余裕だったな。ぶっちゃけ俺たちの代あまり上手いやついねーしな」

 本当にぶっちゃけるな。同期の人たちに聞かれるんじゃないのか。あきれて何か言おうとすると、

「ハルキー。さっさと部活行くわよー」

 廊下から友人を呼ぶ声が聞こえて来た。あの子は隣のクラスの人だっけ。

「すぐいくよ。じゃあな」

 僕に軽く手を上げ、そそくさと教室を出て行った。

「あたし、なんか練習だるいわー。サボっちゃおうかな」

「最近すごく綾子がんばってるじゃん。ちゃんと知ってるんだぜ。そんな寂しいこというなよ」

「っ。バーカ」

 待っていた女の子は春樹の方をバシバシと叩きながら、楽しそうに歩いて行った。にしても本当にモテるな。

 僕も荷物を背負って教室を出た。階段のところまでは他の生徒たちと一緒の流れにいたが、途中から一人外れて上の階へと登って行った。


 美術室には今日は誰もいなかった。入部届を出したときにS高の美術部はほとんど活動していないと訊いたがどうやら本当みたいだ。この教室で絵を描いているが、僕以外の人はあの人以外まったく見かけなかった。

 石膏やツボには埃がかぶっていたが、所々誰かが動いた形跡があった。あの人が動かしたのかな。たいしてとりとめのないことを考えつつ椅子やテーブルの位置を整えていた。

 外にはどこまでも海が広がり、カモメたちが飛び回っていた。たまにトコトコと小さな緑色の列車が発して、ゆったりとした時間を感じさせた。少し窓を開けると、涼しい風が部屋の埃を飛ばしていった。ひょっとしたらこの学校で一番の景色を提供してくれているのではと思った。

 僕は教室の隅に置いた油絵を引っ張り出した。改めて見てもしっくりこない出来だった。いいロケーションに美術室があったので、ここならいい絵を描けると思ったが、技術がなければ難しいのかもしれない。

 暗澹たる気持ちにならないようにブラウンのエプロンを身につけ、F6号のキャンバスに絵の具を塗り始めた。あの海の青さを表せるように、じっくりと色を選んだ。ぶれないように。ずれないように。そっとそっと筆を走らせた。ときどき絵の具を伸ばすためにペインティングナイフを使ったりもした。

 こうしてキャンパスを彩っているうちに、余計なことは何も考えなくなって来た。進路のことも、友人のことも、あの人のことも。何も意識せず、ただひたすら海辺の風景を写すことだけに集中した。時間をかければかけるほど、海はより深みを増し、空はどこまでも広がるような気がした。

 途中から気分を変えて、海岸沿いを歩く人々を描き始めた。じっくりと見てもすぐに過ぎ去ってしまうから、イメージで空白を埋め始めた。親子連れの三人がいた。子どもを真ん中にして、両側にお母さんとお父さんがいた。子どもはカメラを持って、灯台や砂浜、車とかの写真を手当たり次第撮っていた。それを見て両親はおかしそうに笑いながら見ていた。

 和やかな雰囲気を切り取れるように、ゆっくりとゆっくりと塗っていった。人物は必然的に小さくなるから、印象が崩れないように細心の注意を払った。

 集中していたら一抹の疲れを感じたので、一旦筆を置いた。外を見るとオレンジ色の夕焼け空に様変わりしていた。改めて眺めるとだいぶまとまってきていた。この学校の景色に近い絵が出来上がってきていた。

「よく描けた。かな?」

 文字通り自画自賛を始めた。ちょっとした達成感から、快適な気分を抱いていた。

『何だよ。この絵』

 頭の奥で小生意気な声が鳴った。その声はどこか霧の向こうから響いてくるようだった。思わず手で耳をふさいだ。

『何なのか全くわかんね』

 黙れ黙れ。頭の中で強く念じたけれど、抑えきれなかった。

『ホント。よくこんなのを平気で描けるな』

 高ぶった気持ちが徐々に冷えていくのを感じた。落ち着いた気持ちで自分の絵を眺めて見ると、興奮していたことを恥ずかしく思った。

 海は塗料をつけすぎたために、野暮ったい雰囲気が出ていた。反対に空はそこまで描き込まなかったために、平べったい印象を与えた。三人の人物も慎重になりすぎたために、ほとんど線みたいな形になっていた。

 全く迫ってくるものを感じなかった。それなりの時間をかけても、ダメなものはダメだった。昔っから全然変わらない。こんな無駄に苦しいことなんていっそやめてしまえばいいのか。そんなことを思っていると、

「うん。よく描けてるよ」

 突然背中から声をかけられてた。反射的に椅子から飛び上がった。振り返って見ると、身体中の温度がカアと上がるような気がした。ここしばらく何度か見かけた本庄翼さんが立っていた。近くで見るとより輝いてみえた。まるで何かの絵のモチーフになるような美しさだった。

「それ、君の絵だったんだね」

 ゆっくりと僕と僕の絵に近づいてきた。先輩からはふんわりと森の中のような香りが漂ってきた。心臓の鼓動はさらに高くなり、うっかり聞かれないか余計な心配をしていた。

「ここ最近隠されているように置いてたあったから、ずっと気になってたのよ」

 そう言ってゆっくりとキャンバスに目を動かした。レイアウトを観察するように、色使いを気にかけるように、作者の想いを汲み取るように。一つの作品に対して真摯に向き合っているような丁寧さがこの人からは醸し出されていた。コチコチに緊張している僕にふと気づいたようで、

「ああ。突然話しかけて悪いわね。これじゃまるで変な先輩よね」

 僕の上履きの色を見て一年生と判断したようだ。

「実はあたしも絵を描いていてね。人のをついつい観たくなるのよ」

「知っています。本庄翼先輩ですよね」

 少し目を開いて僕を見た。次に若干睨みつけるような目つきになり、一歩後ずさった。

「へえ。よく名前知ってるわね」

「え、えっと。玄関に飾っていた絵とお顔が同じで。あの絵はとても強烈なインパクトがあったので」

 しどろもどろになりつつ答えていた。予想もしていない機会にできたこの人との接点をなくしたくない気持ちだった。僕の返事に合点がいったようで、

「ああ。あれかー。よくあたしだって分かったわねー」

 ちょっとだけ恥ずかしそうに、ちょっとだけ嬉しそうに笑った。つられて僕も嬉しい気持ちになった。

「はい。目元が先輩に似ていて。どうやったらこんな絵を表現できるんだろうって、見入ってました」

 普段は人を褒めることが苦手だけれど、この時は自然に口からこぼれた。

「そう? ありがとう」

 僕に微笑みを浮かべたあと、

「君のもいいわねー。ゆったりとした時間が流れているみたい」

「そんなこともないですよ。こんなありきたりな絵。何の面白みもないですよ」

 反射的に答えた。照れが半分、本心が半分だった。自分で自分の絵の良さを見出せなかった。こんなの翼先輩には遠く及ばない。

 ふと隣をみると、先輩が眉をひそめていた。すぐに元に戻り、

「そうかなあ」

 と、つぶやいた。本当にかすかな声で、誰に言うわけでもないようだった。

「ねえ、君って人に筆を入れられるの嫌なタイプ?」

 思わず大きく首を振り、

「いえ! そんなことないですよ」

 むしろ少しでもよくなるのであれば、直してもらいたいほどだ。

「お願いします」

「わかったわ」

 そういって先輩は男の人がよく使うナイロン製の大きいカバンから、紺色のエプロン・ごげ茶色のパレット・たくさんの色の絵の具・シュッとした筆を取り出した。一つひとつ深みがかかった色合いをしていたから、長い間丁寧に使われていることが想定された。

 翼先輩はエプロンを着た後、パレットに白い絵の具に少しだけ青い絵の具を混ぜた。そうすることで限りなく白に近い水色が出来上がった。そして筆に絵の具をつけた後、筆をキャンバスの前で平行に持った。何をするのかと思ったら、手で筆先を弾いた。

 白い絵の具が飛び散り、点々とした痕がついた。二、三回くらい繰り返したら、もうすでに新聞紙で筆を拭き始めた。海の方は前よりも本物っぽい印象を抱いた。

「絵はどう頑張っても写真よりリアリティを持つわけではないから、一概に本物っぽくするのはいいとは限らないけれど」

 と、前置きした上で、

「でも、こうするとより海っぽく見えると思わない? ほら。光が反射しているみたいで」

 思わず首を縦に振り、

「はい! さっきより良くなりました!」

「それはよかったわ。あとは」

 今度は透明の液体が入った瓶を取り出した。ラベルにはペインティングオイルと記されていた。

「これは知っているかしら」

「はい。何度か見たことはあります。どんな風に使うのかまでは……」

 予想していた答えだったのか、先輩はコクリと頷いた後、

「グレーズと言ってね、西洋絵画の伝統技法のひとつみたいよ。こういった透明な液体を塗ることで、色に深みをつけるのよ」

 論より証拠ねとつぶやき、空の部分に重ねた。さっさと軽やかに動き、どこにも無駄な力が入っていないように見れた。僕の絵の方を観ると、平坦だった水色がどこか柔らかい雰囲気を醸し出すようになった。全体をみると、前よりも格段にどっしりした形になっていた。

「どう?」

「すごいです! まるで僕のじゃないみたい!」

 先生は笑いながら、

「なに言ってんのよ。君の絵よ」

 僕と肩をポンと叩いた。触れられたところはほのかな温かさを感じた。どこかくすぐったい気持ちも同時に抱いた。

 ちょうどその時に教室の音響から、なだらかなピアノのイントロとカレン・カーペンターのゆっくりとした優しい歌声が流れた。

『♪~♫~』

 先輩はゆっくりと壁の時計を見て、

「あら? もう下校の時間?」

 と、つぶやいた。外を見ると紫色に染まっていた。だいぶ時が経つのを忘れていたみたいだ。

「長居しすぎちゃったわね」

 僕たちは慌てて新聞紙で筆についている絵の具を拭き取り、洗筆液で筆をテキパキとゆすいだ。その後すぐに二人で流しに行き、筆を石鹸で洗った。油絵用の筆は高いので、僕たちは丁寧に水分をふきっとった。

 やるべきことを一息に片付けたら、先輩は道具を片付けて、あっという間に帰宅する準備を終えた。僕に手を振り、

「じゃあ、バイバイ」

 と言って、教室の扉に手をかけた。ふとこちらの方に振り返り、

「そういえば、君の名前なに?」

 確かに僕の方は名乗っていないことに、今更ながら気づいた。

「辻村蓮と言います」

「蓮君ね。あ! 美術部に新しく入った子か。ほとんど活動していない部活へようこそ。よろしくね」

 ニコッと僕に笑いかけた。

「じゃあ、またどこかで会うかもね」

 今度こそ薄暗くなった廊下に消えていった。一人いなくなった教室はどこか肌寒く感じた。僕も道具をカバンの中にしまい、キャンバスを隅の方に移動した。途中自分の絵を見ると、最初よりもどっしりとした感じを覚えた。少しだけ今回の絵は好きになれるような気がした。


 普段は適当に切り上げて学校を後にするから、こんなに暗い学校を見るのは初めてだった。周りには部活から切り上げる人たちがたくさんいた。涼しい風を感じながら、自転車置き場の方へと歩を進めた。

 頭の中では今日のことでいっぱいだった。翼先輩から教わった技術に、翼先輩の滑らかな動き。一人で描いているだけだと中々ない刺激にあふれていた。

 そして次に先輩本人についても思い出した。先輩の香り、先輩の細い手、先輩の笑顔。一つひとつ思い出すごとに、心拍数が上がる気がした。

『なに言ってんのよ。君の絵よ』

 先輩とのやりとりを思い出して、頬がにやけてくるのを感じた。

 突然強く背中を叩かれた。

「なに一人でデレデレしてるんだよ」

 春樹の声が隣からした。部活帰りっぽく髪の毛がうっすらと湿っていた。

「なんでもないよ」

 友人はこっちを見つめ、

「お前がこんな時間にいるなんて珍しいな」

 と、ニヤニヤ笑い出し、

「女か」

 図星をつかれた。こういうことには鋭いな。本当のことを答えるのはシャクだから、

「別に。そんなんじゃないよ」

 適当にはぐらかした。それでもしつこく食いついてきて、

「じゃあ、帰宅部がなんでこんな時間までいるんだよ」

「なんでもないよ」

「その荷物でも関係あるのか?」

 僕はつい口調を荒げて、

「お前には関係ないだろ!!」

 と言った。

「わ、悪い」

「こ、こっちこそすまない」

 気まずい沈黙が広がった。僕は春樹の方を見ないように、自分の自転車を手に持った。向こうも同じように、鍵を開ける音がした。そのままお互い帰路につき始めた。しばらくの道中は二人とも何も言わなかったが、途中で僕が折れて、

「教室に来てたのサッカー部の人?」

 春樹の方も渡りに船と思ったのか、

「ああ。綾子のことか。そうだ」

 と、返して来た。

「かわいい子だね?」

「そうか。普通だろ」

 彼にとっては普通らしい。

「いいご身分だね」

「だろ? 早く出世しな」

 その言い分がコイツらしくて思わず吹いた。先方も鼻で笑ったような顔をした。少しは硬くなった空気がほぐれて来て内心ホッとしていた。

 そのうち分かれ道にさしかかったので、

「じゃあ。また明日」

「また」

 と挨拶を交わし、各々の道を歩き出した。



 春樹と別れ、最後の坂道をトロトロと歩いた。家々は夜の明かりが灯っており、ときおりカレーの匂いが漂っていた。ずっと緊張した時間を今日は過ごしていたから、気がついたらお腹が空いていた。今日のうちのレシピは何かな。昨日はカレーだったから、今日は多分別のものだろう。スパゲティかな。

 とりとめのないことを考えていたら、いつの間にか我が家の前にたどり着いた。

「ただいまー」

 部屋の中はジュージューとした音と、もくもくした煙と、肉の匂いが漂って来た。今日は焼肉か。

「おかえりー」

 リビングに入ると母さんがバタバタしながら料理の準備をしていた。父さんはソファーに座って本を読んでいた。

「そろそろご飯だから準備しといてねー」

「はーい」

 二階の自分の部屋に戻って荷物を置き、Yシャツとズボンを脱いで部屋着になった。カバンの中から筆を出して、勉強机のところに立てかけた。窓を開けて外から空気を入れて、筆が乾きやすい環境を整えた。

 一通りの作業を終えて一階に降りると、父さんも母さんも席についていた。待たせたと思い、慌てて僕も自分の椅子に座った。母さんは全員が揃ったのを確認して、

「いただきます」

 と言った。父さんも僕も『いただきます』と言い、食事を始めた。母さんはビールの缶を開けて、父さんのコップになみなみと注いだ。次に父さんが母さんのコップにビールを半分ほど注いだ。僕は無煙ロースターに乗っているよく焼けたハラミにタレをつけて、もくもくと食べていた。

「最近田口君のところに新人が入ってね」

「へえ。そうなんだ」

 両親は仕事のことについて話していて、僕は肉を食べるのに専念していた。たまに母さんが学校のことについて訊かれると、何言か返した。

 普段通りの食事の時間が進んだ時に、母さんが、

「そういえば蓮。進路について学校から何か来た?」

 僕に聞いてきた。一瞬言葉に詰まったあと、

「うん。今日進路調査票が配られたよ」

 と、何でもなさそうに答えた。この話はこれで終わってほしかったが、そうはいかないらしい。

「あなたは志望はどうするの?」

 更に突っ込んできた。

「うーん、どっかの法学部にでも行って、公務員とかを目指そうかな」

「えっ?」

 母さんがキョトンとした顔をした。父さんも少し心配そうな顔をした。全然僕興味を持っているように見えないからな。

「正直、どうしようか考えているところ」

 そう言ってそそくさと箸を置き、

「ごちそうさま」

 と言いつつ、食器を流しに持っていった。

「ごちそうさま」

 母さんは腑に落ちない様子で僕を見送っていった。急いで二階に上がって、自分の部屋の中にこもった。ベッドに横になって、大きくため息をついた。

「進路のことなんかまだ考えられないよ」

 壁の一面に視線を向けると、たくさんの絵が飾られていた。僕が今まで描いてきたものを並べているが、どうしても迫るものはない。本棚には美術本や絵の描き方の本がおいてあるが、壁の絵に生かされている様子はなかった。


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