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”ほう”と、トマソンは我知らず溜息をつく。
「織物についてのお話を聞く事が出来て良かったです。私も商人の端くれではありますが、確かにこの布には値段のつけようがないと思いました。どうしてもと言うのなら、街一つを買い取るだけの額になるでしょうな……」
そう言うと彼は、今一度、目の前の織物を見上げた。
先ほどの話が聞けなければ、これはきっとただ街の歴史を綺麗に飾り立てただけの豪華な布止まりだっただろう。
だが話を聞いた今となっては、とんでもなく価値がある物だと分かる。
それはまるで、”何の代わり映えもしない日常を彩る発見”のようだった。
仕事や勉強と言った、生きていくのに必要な義務をこなすために、日々のルーチンワークを繰り返すという日常。
それは特に面白味もなく、代わり映えもしない、これから自分が死ぬまでずっと続く灰色の景色だ。
けれどその日常は、道端の雑草の名前を知ってその分布を考えて楽しくなったり、空を流れる雲が何かの動物に似ているなと思い”くすり”と笑ったり、そんな小さな発見をする事で、まるで魔法にかかったように色付いてその表情を変える。
普段は見られない、秘密の笑顔を見せてくれる。
そんな何でもない日常を彩ってくれる、特別な魔法────それが異化作用だ。
そして、それこそがこの織物が持つ本質的な価値であり、この織物だけの”特別な魔法”だった。
「ええ、その通りです。この布こそが、”この街”なのです。はは、小難しい話でしたでしょうか……?」
「いえいえ、そんな事は……。とても素晴らしく、感動いたしましたとも。……ああ、そうだ! ……でしたら一つだけ、少し気になることがあるかも知れません」
「……? 何でございましょう?」
その織物を見て、トマソンにはある疑問が浮かんでいた。
そして、それは何気ない……本当に何気ない疑問だった。
────そのはずだった。
「この街では、ここ百年程、何も記す事がなかったのでしょうか? それともその制度は百年以上前のものとか、はたまた今は別の布にその役割が移っているとか……?」
その瞬間、老紳士の表情はまるで冷凍でもされたかのように凍りついた。
”すとん”と音を立てて表情が落ちていったようだった。
トマソンは、その異様な雰囲気に気圧された。
首筋を冷たいものが抜けるような怖気を感じて、自然と後ずさってしまった。
これまでの会話の流れから、彼が踏んだ地雷が最後の問いだった、という事は分かる。
……分かるのだが、果たしてそれだけで、これほどの衝撃を受けるものだろうか?
トマソンには、あれがそれほどに酷い内容だったを覚えはなかった。
それに、その一瞬までは、老紳士は物腰穏やかで理知的な空気を持っているように見えたのだ。
多少の事では驚きそうもないと勝手に思っていたし、事実そうだった。
だからこそそんな印象も相俟って、今の老紳士の別人のような狼狽ぶりと豹変ぶりは、トマソンの戸惑いを加速させていたのだった。
「百年……? 外ではそれほど……?」
そう呟いた老紳士は一歩トマソンの方へと踏み込んだ。
だがトマソンはその一歩に恐怖を覚え、無意識のうちに後ずさってしまう。
その老紳士の”圧”とでも言うべきものに、咄嗟に気圧されてしまったのだ。
「お客様、あの、それについては……」
「えっ、あ……いえ、あの私……失礼いたします!!」
「ああっ……! お、お待ちください!!」
いよいよ恐怖に負けたトマソンは恥も外聞もかなぐり捨てて、尻尾を巻いて逃げ出した。
そうして弾かれたように走りだしたトマソンは、その背に伸ばされた老紳士の手を振り払────えなかった。
裏拳のように振り払ったはずのトマソンの手は、まるでそこには何もなかったかのように老紳士の手をすり抜け、虚空を切ったのだ。
「えっ……?」
その衝撃に、思わず走り出すことすら忘れたトマソンは、呆けたように自らの手と老紳士の手を見比べた。
今、自分の手はすり抜けはしなかっただろうかか?
目の前の老紳士に触れる事すらなく、空振りしなかっただろうか?
それは現実的に考えてありえない光景だ。
しかしそれに驚いていたのはトマソンだけだった。
老紳士はすり抜けた手を一瞬、見つめた。
だが、その後は何かを思い出したように、表情を悲痛なそれへと変えた。
その表情の変化は、自分が本来持っていたはずのものを亡くしてしまった事にふと気付いたような……そんな変化だった。
そして、その老紳士のような存在を、トマソンは聞きかじった事があった事を思い出した。
あれはいつの話だったか。
場末の酒場で遺跡漁りを生業にする者たちの噂話だったかも知れないし、教会の神父が説法の一環として注意を促すための呼び掛けだったかも知れない。
それは、人が死したのち幽世から落とした影法師。
それは、実体を持たず星幽体のみで活動する、人に害為す不死者の一種。
それは、死して帰るべき場所を見失った魂の成れの果て。
────亡霊と、そう呼ばれる存在だ。
この老紳士は、人ですらなかった。
彼は、人の皮を被った、ただの魔物だったのだ。
「なっ……亡霊ッ??!! ヒイィ……!」
「違うのです……! 待って……!」
老紳士の静止を振り切って、トマソンは今度こそなりふり構わず出口へと駆け出した。
走るペース配分など考えない。
とにかく早く、少しでも遠くへ。
一刻も早くこの場を離れなければ。
トマソンの頭はもうそれだけで埋め尽くされていた。
亡霊の餌食になった人間は、心が壊れて遺跡を徘徊する亡者のようになり、やがて自分も力尽きて不死者の仲間入りをする羽目になるのだと言われているのだ。
恐ろしい……。
そんな不死者と呼ばれる魔物と戦うためには聖水か聖職者の加護、または聖別された武器が必要なのだが……そんなものはこの場にはない。
そしてトマソンには当然、魔法などと言う、才能に依存した技術は使えない。
それに、なまじ戦う手段があったとしても、一介の商人であるトマソンに出来る事など高が知れていただろう。
……であれば、だ。
この場を逃げ延びて誰かに助けを求めるしかない。
街中に亡霊がいるとなれば他の住人達にも危険が及ぶ可能性がある。
彼の善性にかけても、このまま見て見ぬ振りなど出来ようはずがなかったのだ。
◇◇◇
転げ落ちるように館内の階段を走って入り口へ向かい、資料館の扉を力任せに開き、建物から飛び出したトマソンの前に立っていたのは、この街で出会った住人達だった。
その中には宿屋の女主人アガタやトマソンをここまで送ってくれた老人、市場で話した快活な果物売りのエレナ、魚屋のロドリゴの姿もあった。
どうしてこんな所に集まっているのかは分からない。
だが、今から伝える内容はとんでもなく重要で、もしかしたら信じてもらえないかも知れないような話だ。
顔見知りの人間がいれば助かる事には違いなく、これ幸いと駆け寄ったトマソンはしかし、直後に目を剥く羽目になった。
老紳士が、既にその人垣の中にいたのだ。
たった今、つい今しがた振り切ってきたばかりのはずの老紳士の姿が、そこにあったのだ。
彼に気付いた瞬間にトマソンは腰を抜かし、声にならない声を上げながら後ずさる。
だが考えてみれば亡霊は星幽体────魂のみの存在だ。
当然ながら壁や床にその行動が制限される事はないため、トマソンがドアに向かっている間に外壁を抜けて外に出れば良いだけの話であるのだから、そう簡単に逃げられるはずがない。
彼から逃れるためには、とにかく距離を稼ぐしかなかったのだ。
そんな腰を抜かしてしまったトマソンへ向かって、人垣から出てくる者があった。
宿屋で彼を迎えた、気の良い女主人のアガタだ。
「商人さんや……」
「ア、アガタさん! そこから離れてください!! 危ないんです! その方は亡霊なのですよ!」
そのあまりにも衝撃的なトマソンの訴えを聞いたアガタは────しかし、驚く事も、怯える事もなかった。
静かにトマソンの揺れる瞳を見つめ、その迫力からそれが冗談でも何でもない事を見抜き、ゆっくりと深く溜息をついただけだ。
そのあまりの落ち着きようには、「今言った事は、それほどの些事だっただろうか?」とトマソン本人の方が困惑してしまう程だった。
しかしアガタが老紳士の正体に驚かないという事実は、ある一つの真実を導き出す道標となる。
それは、今のトマソンにとってはどうしようもなく絶望的な窮地である事を示す、最悪の証左だ。
「商人さんが気付いちまったってのは本当だったんだね……」
「ええ、私の不注意です……。申し訳ない」
「仕方がないさ。”あれ”から初めて来た客だったんだ……。皆……誤魔化すだけで精一杯だったさ」
そう────この場に集まったトマソン以外の全員が、既に亡霊なのだ。
もはや、戦う術など持っているはずもない商人には、打つ手などなかった。
トマソンが老紳士の元から逃げ出した事実は既に全員に共有されており、最早この街には逃げ場はなかったのだ。
彼が一縷の望みをかけて助けを求めた住人達は、初めから老紳士と同族の魔物だったのだから。
「商人さんには悪いけど、大人しくしてもらうしかないね。どうしても、知られる訳にはいかないんだよ……」
「すまんの……。あんたが悪い訳じゃないんじゃが……」
「ごめんなさい。商人さん……」
おそらくトマソンを捕らえるためだろう。
アガタが、老人が、エレナが、ロドリゴが────トマソンを捕らえるために、少しずつその包囲を狭めながら近づいてくる。
彼を逃すまいと、虎視眈々とその隙を狙っている。
「嫌だ………! こんな、嘘……嘘です……! それじゃあ……この街は初めから……?!」
先程、老紳士の手をトマソンがすり抜けられたのは、ただ単に彼が油断していたからに過ぎない。
捕まってしまえばトマソンには逃れる事はできないだろう。
亡霊は実体がないから物を触れない、なんてものは魔物の特徴を知らない素人の妄言だ。
星幽体である以上物体に触れることは出来ないが、物体に触れた時に発生する物理的影響を再現する事で、触ったように振舞うことは出来るのだから。
そのような方法を用いる事で、亡霊も人と同じように物を触ることが可能になる。
だからこそ、亡霊を見分けるというのは一般人にはとても難しいのだ。
「うわああぁぁ!!!!」
半狂乱になったトマソンは、その人垣に向かって荷物を振り回しながら駆け出した。
けれどそこで、微かな奇跡が起こる。
なりふり構わない捨て身の突進に、あろうことか、亡霊であるはずの住人達の動きが鈍ったのだ。
亡霊は、自らが既に人ではない事を自認してその能力を活用すれば一般人とは比べ物にならない力を発揮できる。
そのはずだ。
だが彼らは人であろうと、人のふりをしようと振舞う事に、些か注力しすぎていたようだ。
……いや、そもそも既に死んでいて、肉体がないという自覚すら希薄だったのかも知れない。
住人たちは皆、当たりもしないはずのトマソンのリュックを恐れて、一瞬だけとは言え怯んでしまったのだ。
怯む必要など、どこにもないと言うのに。
トマソンはこれ幸いとその隙を突いて、広場の反対側へと全力で走り出した。
商人が、その人生の中で見た都市の中でも最も美しいこの街は、虚飾まみれの幽霊都市だった。
もう居なくなった人間に成り代わって、不死者達が跋扈する地獄だったのだ。
そして、そこに誘い込まれてしまったトマソンを待っているのは、亡霊の仲間入りをして永劫に街を彷徨うという末路だけだろう。
もうこうなったら神頼みでも何でもいい。
頼れるのなら誰でも構わない。
誰でも良いから助けてくれ。
トマソンは心の中で、旅の中で見聞きしたありとあらゆる神格や精霊へ祈りを捧げながら、最後の希望を目指して広場反対にある聖堂へと駆け込んだ。