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『商人通り』を抜けて道なりに進んでいると、少しずつ街並みの雰囲気が変わってきた。
庶民的な商店や家屋が減って、大きな商館や邸宅、迎賓館が目立ち始めたのだ。
まぁ、”大きな”と言っても、他国の貴族の邸宅ほどの大きさはない。
せいぜいが”大きな家”に申し訳程度の庭がついたレベルのものだ。
そもそも、亀の背の島を中心として、潟に杭を打ち込んで整地した街なのだから、土地が余っているわけがないのだから、これも当然だと言える。
限られた土地を有効活用するためにこの都市には基本的には一階建ての建物などなく、住居や宿は全てが共同住宅だ。
では他国からこの都市を訪れる貴族たちはどうするのだろうか?
前述の通り、かなりの金持ちならば邸宅を購入する。
この場合、土地の購入に凄まじい額がかかるのは言うまでもない。
そこまでの金がない場合は共同住宅を所有し、その一階────これは一般的な一階ではなく、二階にあたる────を丸々住居とするパターンが多い。
「邸宅より建物が大きくなっていないか?」という疑問については、一階以外を貸し出したり売りに出したり出来るので、その収入で賄える分は出費が減るので安心して欲しい。
その金もない場合は、一般人と同じように共同住宅の一室に住むか、ちょっと奮発した集合住宅に住むことになるだろう。
そう言われるとちょっとみすぼらしく思えるかも知れないが、イギリスはロンドンでは貴族の住まいは基本的には集合住宅だったのでそう珍しいことではない。
地価が高いと土地が確保できないため、狭い面積に家を詰め込んで、その分は階を増やして延べ床面積を確保するのだ。
一般人が想像する豪華な邸宅で馬など遠乗りしている”あの貴族”のイメージは、社交界のオフシーズンに住む本邸での生活だ。
それらを踏まえて見てみると、この〈ザフィーロ〉で邸宅を持っている人間の格が知れるというものだ。
少なくとも、他国で公爵相当の地位かそれに並ぶ財力がなければ、とうてい維持など出来ないだろう。
そんな街並みを抜けて辿り着いた総督府は、巨大な回廊を持った広場と隣接した、これまた巨大な建築物だった。
広場の正面には総督府と政庁、そして左手には聖堂が聳え立っている。
聖堂中央部には巨大なドームがあり、周囲にはこれまた高い尖塔を備えていた。
その建築様式はトマソンが今までに見たことのないもので、恐らくは様々な地域から集まってきた細工師達が、それぞれの腕を競うようにして作り上げた独特な様式なのだろうという事が伺える。
交易都市というのは、様々な地域から人が集まるものだ。
文化や技術もまた、その坩堝で混じり合って熟成され、他では見られないような独特なものへと変化を遂げて行く。
その文化の集大成がこの聖堂なのだと、トマソンはそう感じた。
聖堂の巨大さと緻密な装飾は、まさしく神の偉容を知らしめるためのものであろう。
遠目から眺めても圧倒されるような迫力と存在感で、まさに象徴建築と言って相違ない巨大な建造物だった。
先ほどエレナが勧めていたその聖堂も気になるが、一先ずは当初の目的通り、トマソンは総督府へと向かう事にした。
◇◇◇
総督府の建物には行政の窓口としての役割もあるようで、ロビーと一部のエリアは一般に開放されているらしく、疎らではあるが一般市民の姿もあった。
内部は外観に比べると幾分か控えめではあるが、必要最低限ながら質の良い調度品や装飾品で適度に飾られており、落ち着いた高級感を漂わせていた。
金にものを言わせた悪趣味な派手さがなく、真に金の使い方を分かっている者が作らせたのだろうと思わせる格式高い佇まいだ。
トマソンはその施設内を一通り見て回ったのだが、総督府の一区画には、この街の資料館のような部屋があった。
中には歴代総督の肖像画や他国から送られたとされる金銀財宝などが展示されており、どこかの国にあるという『博物館』なるものを思わせた。
ブランカの昔話を思い出せば、初代総督があの話に出てきた青年のはずなのだが、残念ながらその肖像画はここにはなかった。
まぁ、”昔”話になるほどの昔の事なのだから、その生きた証が現存している可能性はそう高くはないのだが……。
何かしらの品が残っている事を期待しなかったかと言えば、嘘になるだろう。
そこを期待してしまうのも仕方ない。
トマソンの後ろ姿を見ていると、心なしか少し肩を落としたように見えた。
その後も様々な展示品を眺めつつ資料館を巡っていたトマソンだが、ふと巨大な織物の前で足を止めた。
それは緻密な意匠によって華やかに飾られていたが、服に仕立てるための布ではない事は、一目見ただけで分かった。
なぜなら、その細長い織物にはびっしりと文字と絵が織り込まれていたからだ。
その織物は壁に吊り下げられていたためにトマソンの視力では天井近くの文字を読む事は難しかったが、背伸びをして顔を近づける事で、下半分についてはなんとか読む事が出来た。
果たしてそこに記されていたのは、この街の歴史だった。
亀に託された大きな島を持て余していた初めの頃は、住人達はそれまでと同じく漁業を中心に生計を立てていたらしい。
それからしばらくすると、魚を仕入れに来ていた商人達の評判を聞いた人々が集まってきた。
この頃から〈ザフィーロ〉の立地に目をつけた商人たちが、交易の中継地点として拠点にし始めたのだ。
そうなると坂を転がり落ちる雪玉のようにその人口を増していく。
やがて、増え続ける人口に対して住む土地が足りなくなってしまった。
その確保のために木の杭を打った海上────潟に家屋を建て、それでも足りない部分は浅瀬を埋め立てて島にしたのだという。
それだけの規模を持った交易都市であり、その立地も良いと来た。
〈ザフィーロ〉が持つ政治的、経済的、軍事的な戦略的価値は計り知れない。
こうしてこの街の戦いが────亀に託された島を守るための長い戦いが幕を開けたのだった。
それからは、長い歴史の中ではそれなりに血腥い事件もありつつも、その度に危機を乗り越えて現在まで都市の主権を保ってきたこと。
そしてこの美しい街並みを武力や外交、経済戦争によって守り抜いてきたらしき事が書かれていた。
きっとこの織物の最上部には、ブランカがゴンドラで話してくれたあの昔話が記されているのだろう。
そうして一番下、足元までその歴史を読み進めていくと、その終端は美しい織物に似合わず、織りかけそのままの状態で放置されていた。
それは作りかけで突然放り出したように見えるのだが、仮にも資料館に展示されている由緒正しそうな織物がなぜそのような事になっているのか、トマソンには全く想像がつかなかった。
首をかしげながら何事か考えていたトマソンだったが、そんな彼の耳に、柔らかな絨毯を踏みしめる小さな足音が聞こえてきた。
彼がそちらに首を回すと、黒いスーツを身に纏った老齢の紳士がこちらへ近づいてくるところであった。
その老紳士はトマソンと目が合うと軽く会釈し、声をかけた。
どうやらこの施設の職員か、管理人か何かのようだ。
「お楽しみいただけておりますか? お客様」
「おや、こちらの施設の方でしたか……。素晴らしい品々に目を楽しませて頂いております。どれも他では見られないような素敵な品で、この街の歴史を感じさせてくれますね」
その屈託のない感想を聞いた老紳士は、嬉しそうに目を細めて笑った。
「そう仰って頂けますと、私共もこの上なく嬉しく思います」
と、そこでトマソンは気づいた。
せっかく目の前に関係者がいるのだから、先ほど気になったこの織物については、彼に聞けば良いではないかと。
「……ひとつお尋ねしたい事があるのですが良いでしょうか?」
「私にお答え出来る事であればなんなりと」
「それでは、この布はこの街の歴史とお見受けいたしますが……」
そう言いながらトマソンは、先程の織物を指差した。
彼の視線を追った老紳士は、得心いったと頷いて答える。
「ええ、その通りです。歴代総督の指示で、この街の歴史を綴っております。ある意味では、この施設のどの金品よりも価値がある展示物であると言えるでしょうね」
「やはりそうでしたか。布に歴史を綴るというのは、なんとも豪華で風格がありますな」
「お褒め頂き光栄です。ですが、織物によって歴史を残しているのは、実は飾り立てる為ではないのですよ」
「と申しますと……?」
文字の周りを彩っていた美しい刺繍の装飾に目を奪われていたため、トマソンはてっきり、この街の歴史を華やかに飾るために布に織り込んでいるのだと思っていたのだが、実はそうではないらしい。
「この街は海の上にあるため、どうしても水害の危険があるのです。そのため、長く残さねばならない重要な文書は、どれも布で作られていたのです。交易によって紙は入ってくるのですが、紙では水に溶けてしまいますので、専ら輸出と重要度の低い書類用です。重要ではないものは基本的には羊皮紙なのですが、そちらは水に溶けたりはしないものの、インクは溶け出してしまいます。織物であればその心配はありませんから、最重要書類の保管には重宝するのですよ」
「なるほど! そういう事でしたか……! 水害……。それは確かに……その通りですな」
街が海の上にあるという事は、水害からは逃れられない運命を背負っているという事だ。
そんな街において、直近の書類とは重要度の桁がまるで違う『歴史』という学術的価値の高い文章が絶対に失われる事がないようにと考えて作られたのが、この織物に織り込まれた文書なのだという。
美しい街の景色に似合わずどこまでも実務的で現実的、堅実な考えで作られたその歴史書を見ていると、この街の本質が垣間見える気がした。
海上交通の要衝となり得る地理的優位、美しい街並みと観光資源、街全体が海と接している物資運搬力、古くから海と暮らす事で培った造船に操船技術……。
────これだけ魅力的な街が、軍事的にも、外交力的にも、弱い訳がない。
おそらく軍艦の工廠も沢山あったのだろうし、海戦では無類の強さを誇っていたことだろう。
この街を狙う周辺諸国の敵勢力は数え切れない程に居たはずだ。
だがこの街は今まで独立を保ち、美しい街並みを守り、治安も良い。
この街の人々が街を誇りながら生きられるのは、"自らの手で街を守って来た"という自負がそうさせるからなのだろう。
美しい街の裏側に隠れた強かさが、ふと垣間見えた気がした。
「まあ、昨今は中に水が入らない容器などもありますので、紙の使いどころも増えて参りました。今では布で作られている書類と言うのはこの歴史を記したものだけとなっています。……そう言えば、布の一番下が気になったのではありませんか?」
そう言うと、老紳士は流麗な美しい所作で立ち入り禁止のロープを踏み越え、織物の端を持ち上げて見せた。
彼は管理人か職員なのだろうから、展示品に触れてしまっても全く問題ないのだろう。
その証拠に、その手には真っ白な手袋をつけており、汚れをつけないように対策がされていた。
「ええ、そうです。どうして作りかけになっているのかと……」
「皆様そちらを気にされますからね。御察しの通りこの布は、この街の歴史です。歴代総督が直近の歴史を書き記して後世に託し、紡ぎ続けてきた物です。そしてその終端が処理されていないのは、これから起きる出来事を継ぎ足すためなのですよ。この処理されていない終端の糸こそ、今の私たちが紡いでいかなければならない未来なのだという戒めから、このような状態で置いてあるのです」
ああ、そうだ。
確かに、きっとその方が効率がいいだろう。
布を継ぎ足すためにわざわざ毎回糸を解くより、織りかけのまま残してしまった方が、次の継ぎ足しは容易だろう。
その点では理に適った、限りなく実務的な理由であった。
けれどそれ以上に、老紳士の説明には何とも言えない浪漫を感じるのだった。
過ぎた街の歴史を過去のものとして懐かしむと同時に、その積み重ねの上に現在が立っているという概念をこれ以上なく伝えている、素晴らしい啓蒙装置が、きっとこの布なのだ。
今この時代に生きている人間はこの織物の緯糸なのだと────そう自覚し、街の住民一人一人が自らの意思で行動する事で、この織物の緯糸が編み込まれるのだ。
時の流れという経糸がそれらをひと繋ぎにして束ねるその様は、歴史が現在という一瞬の積み重ねで出来ている事を、途轍もなく分かり易く示していた。
そしてこの布こそ、まさしくこの街の住民達が綴ってきた歴史なのだ。
トマソンには漠然と他人のように感じていた昔の人々が、唐突に、今目の前に立っているかのような親しみを持って感じられた気がした。
なるほど確かに────この織物こそ、この場においてどんな金品よりも価値がある、どれだけ金を積んでも買えない貴重な品だという事が本当の意味で理解できた。
このえも言われぬ異化作用こそがこの織物の本質的な価値なのだろう。
織物であり、歴史。
だが織物だけでも、歴史だけでもきっとこの価値は創出し得なかっただろう。
「歴史が織られる」という、その一点で二つが重なった事で初めて生み出されたのが、この織物の本質なのだ。