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語り終えたブランカは、黙したままゴンドラを進めて行く。
そしてトマソンの方はといえば、こちらも無言のままだった。
狭い水路には仄温かい橙色のランタンの灯りが落ちて、周囲には櫂を漕ぐ音だけが静かに響いていた。
ゴンドラが立てる小さな波紋がランタンの灯りを揺らめかせながら広がって、橙色の波は、やがて水路の両端の家にぶつかると音もなく消えていく。
人の良い、世間話好きな商人という印象のトマソンには似つかわしくない沈黙だったのだが、それでもブランカは敢えて口を開く事なく、無言でゴンドラを進め続けた。
なぜかと言えば、トマソンが先程の話について、なにがしかを真剣に考えている事がブランカには分かっていたからだ。
この街では吟遊詩人と船頭の持つ役割は似通っている。
どちらも物語の語り部であり、情報収集を行う間者であり、人を動かす扇動者でもある。
船頭が吟遊詩人と違う点は、彼らはこの街のゴンドラ組合に所属し、街にとって不利益となる情報に統制をかけている点だろう。
交易都市であるこの街には、他国の人間が驚くほど多い。
そして彼らの全てが、この街に好意的であるとは、当然限らない。
だからこそ、とくに外国の人間と関わる機会が多い旅人向けの船頭や女性船頭、大運河の渡し守などは、街の利益を損なう情報を漏らす事は決してない。
諜報員としての訓練を受けているとかではないのだが、その研修過程では会話の技術や情報の価値なども学ぶのだ。
ブランカにもきっと、人と話す際の手練手管に、提供する話題、相手の反応の読み取り方などの技能はあるはずだ。
ブランカが亀の昔話をしたのは、決して自分が気に入っている話だからというだけではないだろう。
彼の持つ審美眼────いや、人に向けてなのだから、”審人眼”とでも言ってしまおうか。
それが「この話を聞かせるのが良いだろう」と判断したからこそ、星の数ほどある彼の物語のレパートリーから亀の話を選び、そして最後に織物の話を付け加えたのだ。
だからこそブランカは、優しく目を細めながらゴンドラを進め、商人の背中を見つめていた。
自分の選んだ物語が、砂漠に降った雨のように、ゆっくりとトマソンの心に浸透していくのを待っていた。
◇◇◇
しばらくして、水路を支配していた心地良い沈黙を破ったのはトマソンの方だった。
口を開いた理由が、気分が落ち着いたからなのか、それとも話の内容を噛み砕けたからなのかは彼のみぞ知る事だ。
「素晴らしいお話、ありがとうございました……」
「こちらこそ、トマソンさんが聞いてくれて嬉しいです。最近はめっきりこの話をする機会も無くなってしまったので」
「それは、なんと勿体無い。街の来歴を聞いてしまえば、この景色を見る目も変わってくるというものですのに……」
自分が愛する街の来歴を喜んで聞いてもらえたせいか、ブランカの足どり────もとい操船も心なしか楽しそうに見える。
この昔話は、街の誰もが知っている子守唄代わりの夜話だった。
そんな街の来歴を知るからこそ、住人達は皆、街を愛し発展させて行く事を誇りに思えるのだ。
亀の話を聞かされて育った事で、彼の旅を引き継ぐ事になった一人の人間として、織物の緯糸の一本として、自らの街を誇っていけるのだ。
「今日はもう夜遅いですが、明日は総督府を見てみるのも良いかも知れませんね」
「総督府……というと、領主様の館のようなものでしょうか?」
「ええ、元首が住む宮殿が併設されたお役所ですね〜。街の中心にあります。この街は見ての通り海の上に建物を築いていますが、総督府のある地域だけはその下に”地面がある”んですよ?」
そう言って小首を傾げ、トマソンを覗き込むブランカ。
その顔には、いたずらの成功した子供のような、少しにやついた笑顔を浮かべている。
天使のような容姿を余す事なく活用した、凶悪な小悪魔スマイルだ。
トマソンは領主館が地面に建っている事自体は当然ではないかと思うのだが、それは平地での話である。
ここは海の上に立ち逆さまにすれば森ができるような、潟の土壌を整地して作られた水郷だ。
で、あれば……と頭を働かせることができたのは、きっとトマソンが有能な商人だったからだろう。
彼はふと先ほどまでの昔話を思い出して、その”当然”をわざわざ口にした理由に勘付いた。
「それは……もしや、そこが島亀の甲羅ですか……?!」
「ええ、大正解です! 街全体からみても一段高台になっているので、すぐに分かると思いますよ」
ブランカは小脇に櫂を抱え、両手で”ぱちぱち”と拍手をして見せた。
彼の話して聞かせた先ほどの島亀の話は、”昔話”だ。
伝承でも、伝説でも、ましてや御伽話などでもなく────”昔話”なのだ。
つまり、島亀は実在し、その甲羅もまた、この街の中央部に実在している。
先ほどの悪戯心に溢れたブランカの表情は、島亀が実在する事をまだ知らないトマソンへ、早くそれを教えたくて仕方がないという気持ちの現れなのだ。
「先ほどの話を聞いた後では、是非とも拝見したいものですな! 明日はそこへ向かってみましょう」
そうと聞いたら行かずにはいられまい。
トマソンの明日の予定が、早くも決まった瞬間だった。
◇◇◇
そんなこんなで明日の予定が決まったところで、ブランカは一つの桟橋へとゴンドラを寄せた。
彼は慣れた手つき────これまで何万回やってきたか分からない作業なのだから当然だが────でゴンドラと杭とをロープで括りつけると、ゴンドラを揺らす事もなく、羽の生えたような軽やかな足どりで桟橋へと飛び乗った。
……いや、実際、彼の腰に見えるのは海猫の羽以外の何者でもないのだけれど、そこは言葉の綾というものなので見逃して欲しい。
そうして振り返ったブランカは、桟橋の上からトマソンへそっと手を差し伸べた。
トマソンがゴンドラの中からブランカを見上げると、その肩越しに橙色の煉瓦造りの建物が見えた。
この街の素晴らしい景色の中では、比較的”こぢんまり”とした────この街の建築物の全てがかなり水準が高いので、他の町にあればどれも高級物件であろうことは間違いないのだが────庶民的な佇まいの建物だと感じた。
どうやら、ここが本日の宿のようだ。
桟橋とゴンドラの高低差は小太りのトマソンには堪える段差ではあったが、手を引いて貰ったおかげでなんとか無事に桟橋へと飛び乗る事に成功した。
トマソンという重石を失ったゴンドラは大きく揺れたものの、そこはブランカの助けもあり”ことなき”を得る。
やっと踏みしめた地面で────と言っても、この街は先に話した通り潟上の水郷なため、桟橋の木板の上ではあるのだが────久方ぶりの揺れる事のないしっかりとした足場を両足で堪能する。
さしものトマソンもこれほど長時間、窮屈で小さなゴンドラに揺られたのは初めてだったのだろう。
凝り固まった体を解すように”ぐーっ”と伸びをすると、そのなかなかに”ふくよか”な腹が大きく揺れた。
ちなみにゴンドラ自体が小さいのは事実だが、それでも座面には痩せた人間なら横に二人は並べる大きさがあるし、前後にも複数座席がある。
窮屈な点についてだけは、単純にトマソンが小太りなせいだ。
「ありがとうございます……。助かりました……」
「いえいえ。それでは、本日の宿にご案内しましょう〜」
そう言うとブランカは目の前の建物の扉へと向かっていく。
そして軽いノックをするや否や、家人の返事も待たずに裏口を開けてずかずかと建物へ入っていってしまった。
勝手知ったるなんとやらだ。
トマソンも見たまんま宿屋であれば気にせず入ったであろうが、その扉は明らかに裏口という風情のそれだったため、民家だったらどうしようという不安に襲われたのだ。
唖然として、一瞬ついていくのを躊躇ったが、ここで立っていても仕方がない。
そう意を決して、ブランカの後に続いた。
◇◇◇
建物に入ると、正面には大きな造りの良い木で作られた扉が見えた。
そのため「やはり勝手口から入ってしまったのでは……」とトマソンは後ろを振り返るが、たった今入ってきた扉もまた、造りの良い扉が据え付けられていた。
そこにあったのは彼が想像していたような裏口ではなく、正面程ではないまでもそこそこ綺麗な扉だった。
どうやらこの宿には、道側と水路側の両方に正規の出入り口があるらしい。
他の街では見られない、水都ならではの建築様式と言えた。
流石に、水路側から見た裏口の扉まで金をかけて飾り立てる余裕はなかったようだが……。
部屋を見回してみれば、そこは素朴な内装ではあるが決して安い貧乏宿という訳でもなさそうだ。
壁は綺麗な煉瓦を積み上げて作られており、その要所には絵画も飾られている。
カウンターには綺麗な花が生けられて、本日の晩飯のメニューが白墨で記された案内書きもある。
そんな細やかな気配りの数々は、少なくとも店の客層が商人や観光客である事を示していた。
事実、トマソンも一目見ていい宿だという感想を抱いたものだ。
派手さはないが、それは無駄な装飾がないと言うだけであり、必要な装飾は適切に用いられており寂しさは感じなかった。
少なくとも日雇い労働者などが泊まる、薄めた酒と戻した保存食の肉とくず野菜のスープがセットになったような、そんな安宿ではないだろう。
そうしているうちに、裏口から入って右手のカウンターに上体を預けたブランカが、店の奥に大声で呼びかける。
「アガタさーん! お客さん連れてきたよー!」
客側からは内側が見えないよう、天板の高さが頭ひとつ分ほど高めに作られているカウンターに上半身を載せているためか、ぶらぶらと彼の足が揺れている。
やがてカウンターの奥から現れたのは、人の良さそうな笑顔の中年の女性だった。
動きやすいように髪の毛を雑に一つ結びにして、素朴な服にエプロンという飾りっ気のない、見るからに働く女性といった風体をしている。
この女性がアガタと言うらしい。
「はいはいお待ちよ。……おや、商人さんかい? 『マテーラ・イン』へようこそおいでくださいました。長旅、お疲れでしょう」
水仕事でもしていたのか、エプロンで手を拭いつつ歩いてきた彼女はカウンターに立つや否や、その内側から宿泊者名簿と羽ペンを取り出してトマソンへ押して寄越した。
見るからに行商人といった装備のトマソンに代筆の申し出はしない。
字を書けないはずがないからだ。
「ええ。何泊するかはまだ決めておりませんが、ひとまず本日はお世話になりたいと思います」
「何泊でも構わないよ。部屋は空いてるからねぇ。それにしてもこんな時間にお客さんってのも珍しいね。もうすっかり夜だってのに」
アガタが疑問に思うのも仕方がない。
この街に来ることになったのがそもそも予定外であり、かなり遅くなってしまったのだ。
彼女も、こんな時間までカウンターで客を待ったりなどしていなかったのだろう。
それが分かっていたからこそ、ブランカは────宿屋であるという点を差し引いても────勝手に奥まで上がり込んだのだ。
そも、普通の家庭であれば、食事や洗い物を終えてそろそろ子供を寝かしつけてもおかしくない時間だ。
火を灯すために必要な油は基本的には貴重品で、貴族などの余程の金持ちか、人が集まる施設でもなければそんな高価なものを使う余裕はない。
日が沈めば眠り、日が登れば起きるのが一般家庭の生活なのだから。
……と、そこでもトマソンは、なぜこんな時間に訪れる事になったのかを説明するため、ブランカと出会ってこの宿へ辿り着くまでの、不幸と不運に塗れた旅路を改めて語る事となった。
別段隠すような事でもないのだが、何度語ってみても不甲斐ないことこの上ない。
その間、ブランカはカウンターに頬杖をついてトマソンの話を聞いていた。
一度聞いた話を二度聞いてもとくに面白いとは思えないのだが、そこは話を楽しんでいるというよりも話を聞いたアガタのリアクションを楽しんでいたようだ。
彼は時折うんうんと頷きながらカウンターに凭れていた。
「なんとまぁ……。でも命あっての物種だからね。助かって良かったよ」
「その通りです。ブランカさんに拾われなければと思うと、ぞっとしませんな……」
「お手柄だねえ、ブランカ。商人さんもお疲れでしょう。もう客が来ると思ってなかったもんだから残り物で悪いけどスープとパンならあるから、後で部屋に運ぼうかね」
「それはありがたい! 私も今日は流石に疲れましたので……」
トマソンが名簿への記帳と宿代の先払いを済ませたところでブランカも家に帰るらしく、彼は水路側の出口に向かっていった。
彼のゴンドラは水路にあるし、きっとそれで家まで帰るのだろう。
「ブランカさん。本当に、本当にありがとうございました」
「いえいえ。それじゃあこれで。是非この街を楽しんでいってくださいね~」
「それはもう。明日が楽しみで仕方ありませんよ」
こうしてブランカを見送ったトマソンは、すぐに宛てがわれた部屋へと向かった。
アガタの案内で部屋に入ると、すぐに荷物や服を洗いにかかった。
もうすっかり乾いたとは言え、汚れが気になっていた身には、盥の湯がありがたい。
服などはなるべく早く乾くよう外に洗濯紐を張って洗ったものを干していく。
本来なら真っ暗闇のはずの夜中にもかかわらず、木戸を開けていれば部屋の中は仄かに明るい。
白月から降り注ぐ白い光に、街の主要施設で焚かれた篝火の橙色の暖かな光が混じり、室内を天と地からの二色の光が照らしていた。
外から見る街並みが、それはそれは綺麗だったのは確かだが、中から見る街並みもまた印象の違う美しさだ。
月明かりに照らされる薄暗い街の中央付近では、橙色の灯りで照らされた聖堂と鐘楼が暗闇から浮かび上がり、それはまるで漁火のようだ。
その近辺では、他にも大きな宮殿や邸宅が篝火の光で揺らめいており、上流階級が居を構える貴族街のような場所に見えた。
なんとも美しい街並みだ。
トマソンはしばらくの間、今日の出来事を反芻しつつその美しい景色を眺めていた。
美しい景色を眺めていると言うのに、これだけの篝火を────トマソンの予想なのでおそらくだが────毎晩焚けるというだけで、この街の経済規模を具に想像してしまうのは悲しい商人の性か……。
それを自嘲しつつ今日の出来事を振り返るのも程々に、彼は手早く食事をとってベッドに倒れこんだ。
これまでの人生で最も濃い一日を乗り切った体は鉛のように重い。
ベッドに沈み込んだら、最早頭を上げることも寝返りをうつ事さえも億劫に感じてしまう。
そうして逆らいようのない睡魔に襲われ、トマソンはそのまま意識を手離した。
◇◇◇
トマソンが目を覚ました時には、既に日は高く上っていた。
すっかり寝過ごしてしまっていたようだ。
だが流石に昨日の今日という事もあるので、今くらいは自分に甘くても良いだろうと焦るのはやめた。
それに、朝早く起きても夜に干した服は乾いていないだろう。
このくらいの時間がちょうど良かったのだ。
正直なところ、のんびりとした心安らぐ目覚めに任せて寝床に潜り込み、二度寝という人を堕落させる甘言に身を任せたい欲もある。
だが、今日はこれから総督府を訪ねるつもりなのだから、流石にそろそろ起きるべきだろう。
商人としては市場の方にも足を伸ばしたい所だ、などと考えながらトマソンはのんびりと身支度を始めた。
「おや、おはよう。トマソンさん」
「おはようございます。昨夜はよく眠れました。ありがとうございます」
「いいよお、そんな事。こっちはお代貰ってんだから! それより今日はどうするんだい?」
「そうですね。昨日おすすめ頂いたので、総督府を見てこようと思います」
総督府と聞いた瞬間、アガタは一瞬考え込んだが、すぐにこの街の昔話に思い当たったようだ。
”ぽん”と手を叩く仕草をすると、その顔に喜色を滲ませた。
ブランカの言うとおり、この街の人間は皆が知っている話らしい。
「なるほどねぇ。総督府って事は、”亀の背”目当てだね? あの話を聞いた人は、みんな、ひと目見たがるのさ」
「ええ、そうです。昨日ブランカさんに昔話を聞かせていただきました」
「そうかいそうかい。あの話を聞いたのなら、商人さんもまた、”亀が旅する道の一人”になるって訳だね」
「ええ……。あの昔話は是非、他の街でも話してみたいと思いましたよ」
「そうしてくれたら、アタシらも嬉しいもんさね」
そう言うと、彼女は嬉しそうに笑った。
そしてアガタへの挨拶を済ませると、トマソンは昨夜やって来た方とは反対側にある、地上向きの戸口から街へと繰り出した。