3
川の流れに乗った船は悠々と進み、左右の岸や岩を器用に避けつつ下流へ下っていく。
トマソンが川に飛び込んでからどれだけの時間が経ち、一体どれだけ流されたのかは定かではないが、川の流れが”激流”から”急流”程度には緩やかになっているのを見るに、あの小川からはだいぶん離れたらしい。
周りは霧に覆われて全く視界が利かないにも関わらず、よくもまぁどこにもぶつけずに操船できるものだ、とトマソンは感心する。
もしかすると何度も通った道で、目を瞑っていても進めるほどに流れを掴んでいるのかもしれないが、それでもだ。
「この霧の中でそれだけの操船とは。いやはや、大した腕ですねぇ」
「ありがとうございます。まぁ、いつも船に乗ってますからね。自分の足みたいなものです。岩くらい流れを見てたら当たりませんよ。それにしても、トマソンさんはどうしてあの川に?」
「うっ……よくぞ聞いてくれました……」
そのブランカの問いに待ってました!と言わんばかりに、トマソンは宿場町を出てからの散々な目にあった話を涙ながらに語った。
彼自身の災難は小さな不幸の連続ではあったが、そんな些細な出来事の積み重ねの末路は、得てして森に転がる物言わぬ骸だ。
人間だれしも脆弱だ。
注意深く生きなければ、いつ、どこで命を落とすかわからない。
治安の良い都の近郊や大きな交易路を外れれば、命の危険など、いつでもどこにも転がっている。
そんな危険を避けるためにも、『剣の組合』で護衛を選ぶ観察眼と言うのはとても重要なのだ。
……が、今のトマソンの有様を見る限り、彼の観察眼の点数は落第点のようだ。
とまぁ、そんな過酷な世界だからこそ、安全な人の領域の外に出る人間は貴重だ。
普通の人間は危険をおして街の外へ出る職を選んだりはしないのだから。
だって、いつ死んでもおかしくないのだ。
当然だろう。
そうなると外の商品や情報というものは、辺鄙な村になればなるほど入ってこなくなってしまうもので……そんな彼らにとっては、商人という存在は、かなり貴重でありがたいものなのだ。
「そ、それは……。ご無事でなによりですね……」
「えぇ……そりゃあもう。ですがブランカさんに助けて頂いて命を拾ったようなものですからね。このご恩は忘れません」
「大袈裟ですよ。浮いてたのをゴンドラが轢いただけですし」
あんまりにもあんまりな助かり方には、さしものトマソンも苦笑する。
まぁ、劇的な助かり方をしたかった訳ではないし、命あっての物種なので問題はないのだが。
そう────命あっての物種だ。
助かっただけで良しとしなければ。
「想像より雑な助かり方ですね……。いや助かった事には変わりはないんですが……」
「良かったですね。ふくよかで」
「う〜ん、辛辣」
◇◇◇
そんなこんなで川を下り続け、二人は二刻程ゴンドラに揺られていた。
小さな船にしては中々に長い船旅ではあるが、その道中では話し上手なブランカがトマソンへと話題を提供し、トマソンがそれに答えることで軽快に会話が続いていた。
流石は船頭、客商売は伊達ではないと言うことか。
ブランカのゴンドラは、黒い塗装に金の装飾が施された高級感がある意匠で、一目で客を乗せるためのものだと分かる佇まいをしていた。
そんな船を持つブランカもきっと、客を相手に商売をする専門家なのだろう。
話し上手に聞き上手、というのも頷けるというものだった。
それからしばらくゴンドラに揺られて、また少し時間が経った頃のことだ。
ようやく街が目と鼻の先まで近づいてきたらしい。
心なしか、トマソンの目には周囲の霧が薄くなってきたようにも見えた。
「もうすぐ河口に着きますよ。街もすぐそこです!」
「いやあ、楽しみですねぇ」
「ええ、楽しみにしててください。魚とかとっても美味しいし、あと街並みも自慢なんです」
ブランカの街を見せたくて仕方がないという気持ちを隠さない笑顔に、トマソンもついつい街を楽しみにしてしまう。
今に至るまでの森でのトラブルは、いつも以上にトマソンを逸らせるようで、彼は”気もそぞろ”と言った様子だ。
────そんな心持ちだったからだろうか。
トマソンは、普段なら気がついていたかも知れない違和感を、幾つか見落としてしまったのだ。
たとえば、彼が通るつもりだった橋の下にはゴンドラが通れる高さなどなく、船が通るはずがないこと。
たとえば、彼が通るはずだった橋から河口まではとても長い距離があり、数日かかっても辿り着ける距離ではないこと。
たとえば、鬱蒼と生い茂る森を流れる川に、観光用のゴンドラなど通るはずがないこと。
◇◇◇
視界を覆っていた霧が薄くなり、木綿が糸に紡がれるかのように少しずつ晴れていく。
それと共に、そこはかとなく海の気配を漂わせた潮の香りが鼻をつき始めたのが分かった。
そんな川の汽水域への変化は、ゴンドラが河口────すなわち海へと近づいている証拠だった。
まだ周囲に街の気配は微塵もないが、ブランカの言う通り、本当に河口に存在するのなら、おそらくはこの付近になるのだろう。
初めは「こんな小船で海に出るのか?」と不安になったものだが、いざ河口が近づいてみればその心配は杞憂だったのが良く分かる。
この海はおそらくは地形的には内海、もしくは湾となっているのだろう。
見渡す限りの海面に大きな波の気配はなく、そこにあるのは細波だけ。
遠く磯と砂浜が奏でる波の音は規則正しく穏やかで、またゴンドラに寄せる波も静かで優しく、船を大きく揺らすこともなかった。
遠くから聞こえる、”ざあ”と砂浜に波が打ち寄せる音。
近くから聞こえる、”ちゃぷん”と細波がゴンドラで砕ける音。
それらは各々の律動を崩さず、それでいて自由気ままに低音域を形作り、海上の円形舞台を彩る和声を奏でていた。
霧の切れ間から覗き始めた空は、少しばかり明るかった。
真上にあたる天頂は真っ暗闇だが彼方の空の端は、少し橙がかっているように見える。
未だ周りが真っ暗闇ではない所を見ると、まだ日が沈んでから、さほど時間は経っていないのかも知れない。
おそらく、これから辺りが暗くなるのと共に、夜空には星々が瞬き始めるのだろう。
トマソンがそんな事を考えながら心地のよい船の揺れに身を任せていると、ふいに彼が森で目覚めた時に聞いた美しい歌が聞こえてきた。
後ろを振り返ってみてみれば、ブランカが櫂を漕ぐ身体の動きはそのままに、操船と歌を両立させて器用に歌っている姿があった。
櫂を漕ぐ、という行為は見ている分には悠々と櫂を操っているように見えるが、その実かなりの重労働だ。
櫂はそれだけでとんでもなく重いし、更に櫂で水を掻けばその重みまでもが加わるのだからやってられない。
こうなると、もはや修行か何かとしか思えない重さになる。
だと言うのに、ブランカは船の後方で櫂を”ちょいと”いじくっているような、そんな最小限の動作にも関わらずかなりの速度で船を進めていく。
それは、まるで櫂の先が自分の手にでもなっているかのような、熟練の技だった。
けれどブランカは、その重労働をこなしながら歌まで歌っているのだから空恐ろしい。
櫂を漕ぎながらも、その声を掠れさせたり音程を外したりせずに、安定して美しい歌声で歌い続ける。
その実力は、常日頃から操船も歌唱も努力を怠っていない事を言外に証明していた。
それに気を取られていたトマソンは気付く事はなかったが、いつの間にやらゴンドラの舳先に吊り下げられたランタンには小さな灯りがともっていた。
当然、ゴンドラの後方に立ったままのブランカでは手が届くはずもない。
それが暗くなると勝手に灯りがつく魔道具か何かなのか、はたまたその他の技術体系の技が使われた便利な代物なのかは分からない。
全てを飲み込む暗黒の底のような夜の海にあって、それはとても頼りない、小さな灯火だった。
そのランタンは、光源が月と星しかない夜の海原にある唯一の人工の光として、仄かに二人を照らしていた。
小さな波がゴンドラへと打ち付けるたびに細波が砕ける音が響き、ブランカが櫂を漕ぐたびに木が軋む音と共にゴンドラが進む。
そんな一つ一つの小さな音たちは、初めは自分本位に歌い踊るばかりだった。
けれどやがて、それらが寄り集った音は小気味のいい調子で律動を刻む。
互いに響きあって和声となり、ブランカの歌声を引き立てる伴奏へと変わる。
海が奏でる全ての音が、ゴンドラを両手離しで祝福しているような、そんな気さえしてくる。
それは常若の国で開かれる宴のようで、この世のものとは思えない協奏曲だった。
トマソンはそんな光景に我を忘れていた。
歌に聞き入り、ぼうっと星空を見上げていた。
しかし、やがてはそんな心地よい時間も終わりを告げてしまう。
コンサートの終わった船の上では、総立ちが出来ない”大海原たち”に代わって、トマソンの拍手だけが響いていた。
「素晴らしい! 思わず、時間も忘れて聞き入ってしまいました……」
「ふふ、ありがとうございます。……さてと、丁度街も見えたところで────」
そこで一度言葉を切ると、ブランカはゴンドラ後方の狭いスペースで器用に片足を引き、装飾品のように浮き玉の下がった帽子を取って手を胸にあてた。
それはどこぞの貴族がするような正式な所作で、仰々しくも足先から指先までが堂に入ったお辞儀の作法だった。
「『亀が愛した海の宝石』〈ザフィーロ〉へようこそ! この街は、喜んで『旅人』を歓迎しますよ」
ブランカの告げた歓迎の言葉。
それを受けて、先程まで歌に聞き入って全く回りを見ていなかったトマソンは、弾かれるように後ろを振り向いた。
そこにあったのは、ブランカの告げたその名の通り、『海の宝石』と呼ぶに相応しい景色だった。
────街が、海に浮いていた。
遠目にも美しい街並みだ。
それは間違いないのだが、おかしな事にその周囲には陸地は見当たらない。
島ひとつを街としているようにも見えるのだが、それならば建物のそばには砂浜や磯、岩礁などが見えて良いはず。
なのに、それがないのだ。
本当に、海の上に直接、街の建物が建っているかのようだった。
そんな街並みを照らすのは、沢山の篝火の振りまく、柔らかく暖かい橙色の光だ。
それが真っ暗な海に反射して逆さまの街を照らし出している。
その様はまるで、水中にもう一つの街があるかのようにも見えた。
「こんな海辺にあるのだから、きっと漁師町か港町なのだろう」とトマソンは思っていたのだ。
これほどに美しい街だとは予想だにしていなかった。
その街の港には、たくさんの船が繋留されていた。
黒を基調とした塗装で統一された、シックで高級感溢れるブランカの”それ”と似たような意匠のゴンドラ。
美しい装飾で彩られ、勇壮に帆柱を掲げた、帆船。
そして、港からは様々な店が立ち並ぶ賑やかな目抜き通りが街の奥へと続いているのが見えた。
魚や果物、交易品や香辛料といった品々が並ぶそんな目抜き通りにトマソンは心を躍らせる。
だが、ゴンドラはそれを横目に素通りして、建物の間にある細い水路へと入ってしまった。
これから港に降りるのか、と楽しみにしていたトマソンには、少し拍子抜けだ。
「おや、このゴンドラは港には泊めないのですか?」
「ふふ……。この街は、人が歩く道よりも、水路の方が多いんです。直接ゴンドラで乗りつけた方が早いですし、橋がない大運河なんかは、渡し船にお願いしないと反対に渡れないから物凄く遠回りになっちゃいますよ? だからこのまま、お勧めのお宿までご案内いたします〜」
「……なるほど。それはありがたいです。しかし、水路の方が多いとは……もしやとは思いますが、この街は海の上に直接建っているのでしょうか?」
トマソンが驚くのも無理からぬ事だ。
入った水路の脇には、土手や護岸のような道がある訳ではなかった。
水路の両側では岸などなしにすぐに建物が聳え立ち、その建物も裏口が桟橋に直結している水郷ならではの独特な設計なのだ。
おそらくは家の裏手からすぐに船に乗り込めるように、と考えての事なのだろうが……。
そして水路の両端には、一家に一隻はあるのではないか思える数の膨大な数の小船が繋留されている。
そんな光景を見せられれば、この街の主だった移動手段は船なのだと理解せざるを得なかった。
だがなによりトマソンを驚かせたのは、その建物の下だ。
水底の潟から直接家が生えており、そこには地面と言えるものがなかったのだ。
これには流石に絶句した。
だが、彼が驚きブランカに尋ねて見たところ、流石に街の全てがそうと言う訳では無いらしい。
「水中に立てた杭の上に立っているのは、軽い施設ですね。それと、あとで区画整理されそうな物はそういう作りになってます。港の近くにはそう言う建物も多いですねえ。基本的には、潟の地中深くまで木の杭を埋めてその上に石材を積んで基礎にします。なので本当は浮いている訳ではないんです。街の一部には島の区画もあるにはあるんですが、ほとんどの家は潟に直接建ってます。『〈ザフィーロ〉を逆さまにすると森ができる』なんて言われる事もあるんですよ?」
「森、ですか……?」
「ええ、森です。街の基礎が、木の杭でしょう? 街をひっくり返したら、ぎっしり木の杭が詰まっているでしょうね。だから、森なんです」
木の杭を街の基礎────土台に使っている家が立ち並んでいるのだから、街をそっくりそのままひっくり返せば使った凄まじい数の木材が立ち並び、さぞ森のように見えるだろう。
なんとも小粋で洒落が効いた表現だ。
「ああ……! それはそれは、なんとも面白い表現ですねえ……。ですが、森……森ですか。それだけの丸太の確保も決して楽では無いでしょうに……」
「ここは川の河口近くで、しかも湾の中で波も穏やかですからね。丸太は手に入りやすいし、石材も運びやすいんです。それに、そもそもこの潟を形作ったのが河口から広がった土砂なんですよね。ここは海の街ですが、河なくして成り立たない、河と海の町でもあるんですよ」
背後を振り返ったブランカの視線の先には、正に先ほど二人が下ってきた川の河口があった。
街の建築の際、木材の運搬に使われた川の一つがそれと言う訳だろう。
「伐採した上流で筏を組んで流して、下流で解体するのですね……。石材は湾の外から船で、と……。なるほど、なるほど……」
そう呟くトマソンは、流石商人といったところか。
彼は、「ここに街を作れ」と言われたらどうするか、と言う視点から〈ザフィーロ〉の立地を評価する事で、その建築手法の有用性に気付いた。
この街の立地を思い出してみれば分かるが、街が河口付近にあり、海の上なのだ。
どれだけ巨大な丸太であっても埋める場所の真横まで船で運び込めるのだから、陸で同じ作業をするのとは訳が違う。
一般的に考えればありえない建築が成立した背景には、この街の立地と海運技能を活かした物資運搬能力の高さがあると言えた。
だが生半可な太さの丸太では、これほどの街を支える基礎にはなりえないだろう。
当然、巨大な材木が大量に必須であり、その運搬には凄まじい労力がかかったはずだ。
正直、こんなところにそこまでして街を作るかと問われれば、中々に悩む所だった。
けれど、そこにもまたこの街の独特な建築と同じように、街があるのが”ここでなければならない”ような、何か特別な事情があったのかも知れない。
そう思い至れば、俄然興味も湧くというものだ。
一人の商人としても、一人の旅人としても、トマソンはこの街の成り立ちが気になってしょうがなかった。
「この街に興味を持ってもらえたようで嬉しいです。おすすめの宿まではもう少しありますし……少し、昔話をしましょうか。この街で育った人は皆知ってる話なのですが……」
「それは興味深いですね……。ひとつ、よろしいですかな」
「ええ。それでは────」
こうしてトマソンの了承を得たブランカは一息ついて、静かにこの街の来歴を語り始めた。