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「ハッ! ……ハァッ……! ……フヒィ…………な、なんでこんなところに森狼がっ!?」
森の中を大きな荷物を背負って走る小太りの男が、思わず、といった調子で悪態を吐く。
その小太りの愚鈍そうな身体に鞭打って必死に逃げている男は、今、四匹ほどの『森狼』に追い立てられていた。
どうしてそんな事になってしまったのかといえば、聞くも涙、語るも涙……と言って良いのかはわからないが、まぁ色々な不運が重なってしまったためだ。
運が悪い事に、当初、彼の旅のの予定経路にあった橋が、長雨で流されてしまっていたのだ。
仕方なく森の中を迂回する羽目になったのだが、これまた運が悪い事にその道中で森狼と遭遇してしまった。
当然、森を抜けるために腕の立つ────はずの────護衛も雇っていたのだが、さらに運が悪い事にその護衛が口ばかりの役立たずだった。
という……まぁそんな具合の不運だ。
森狼は集団で森の中を駆けて、群れの連携を生かして獲物を追い詰めて狩りをする魔獣だ。
個々の能力はさほどでもないのだが、群れで連携して的確に急所を狙ってくるその戦法は凶悪で、「四匹以上なら荷を捨てて気を引いて逃げろ」というのが旅人の常識だった。
さて、その役立たずの護衛はと言えば────多数の森狼に囲まれて勝ちの目が薄いと見るや、すぐに商人を囮にして逃げ出してしまったのだった。
酷い話もあるものだ。
そうして残された商人────その小太りの男はと言えば、ただいま全力で絶賛逃走中、という訳だ。
たまたま通るはずだった橋が長雨で落ちてしまっていて、たまたま雇った護衛が口ばかりの役立たずで、極めつけに、たまたま濃い霧が立ち込める慣れない森で道を誤ってしまった。
そんな、世の中を探せばごくごく普通に転がっているような……ほんの小さくも理不尽な不幸の連鎖が、彼が今、命”からがら”に森を全力疾走している理由だった。
けれども魔獣という食物連鎖の上位種たちが蔓延る外の世界では、そんな些細な不幸が命取りとなる。
大きな荷物を抱えた見るからに運動出来なそうな小太りの男が、百戦錬磨の森の狩人である森狼相手に逃げおおせる筈もない。
彼の命運も、きっと、もうじき尽きるだろう。
……と思ったのだが、そこには数少ない幸運のささやかな助力があったようだ。
彼が仕入れた商品は、大きなリュックに”ぱんぱん”に詰めて背負われており、奇しくもそれが、後ろから迫る狼達の牙を防ぐ盾になっているのだ。
後ろから見た男の姿はほとんどリュックにしか見えない事だろうし、なまじ噛みつけたところで、そこにあるのは男の身体ではなく荷物だけだ。
襲い掛かるほうからすればやりづらい事この上なく、そのために狼たちは決定打に欠ける蚊の刺すような攻撃しか出来ていなかった。
だが、そんなささやかな幸運で繋いでいた命運も、最早ここまでのようだった。
「ヒエッ……!!」
彼の目の前には幅は大きくは無いが、深さはそこそこにありそうな川が囂々と流れていた。
そう────”囂々と”、だ。
当初通る予定だった橋が長雨で落ちていたという話の通り、この近辺の川はどこも、多かれ少なかれ増水しているのだろう。
この小川も例に漏れず、本来の小さな川幅に対して、ありえない量の水が我先にと下流を目指して猛り狂っていた。
その、”小川”と言うのも烏滸がましい激流に行手を阻まれた男が後ろを振り返れば、彼の背後は追いついて来た森狼達に囲まれていた。
────前門の激流、後門の森狼。
これはまさしく絶体絶命の状況だ。
無論、森狼に向かっていく────などという選択肢は男にはない。
ないと言ったらない。
小太りの男が向かってくるなど、森狼にしてみれば、生肉が自ら鉄板に飛び込んで”こんがり”と焼けてくれるようなものに違いない。
喩えて言うのなら、下拵えが十全過ぎるステーキの配達と言った所だろう。
……であれば「まだ川の方が”まし”だ」と、彼の勘は告げていた。
それはほんの一瞬の逡巡であったが、彼の覚悟は決まったようだ。
狼がその顎門を届かせる刹那────腹を括った彼は、その見た目からは想像も出来ないような俊敏さで、勢いよく川へ飛び込んだのだった。
◇◇◇
目を覚ました男は、まるで身体中をくまなく殴られたような痛みと服の冷たさに眉を顰めた。
彼が最後に残った記憶はなんだったろうか────と思い出そうとすれば……そうだ。
森で森狼に襲われて、一か八かで激流に飛び込んだのだ。
この全身の痛みはおそらく、流されながら川の中で岩にでも打ち付けたからなのだろう。
そう考えながら上体を起こそうとしたところで、少し離れた所から天上の園に響くような、美しい歌声が聞こえてくる事に気づいた。
それは青空のように透き通った歌声で、魔法銀で作られたハンドベルのような、可憐で華奢な声色だった。
おおよそ人の身では辿り着けないのではないかと言う程の美しさ。
まさしく天使の歌声と言って良いものだ。
「あ、目が覚めましたかー?」
身動ぎした男に気が付き、先程の歌声の持ち主が男へと近づく。
そして投げかけられたその声も、歌声と同じく、鐘の鳴るように透き通った美しい声だった。
(あぁ……やはり助からなかったのでしょうか……。では、ここが神の御許。楽園の景色なのですね)
そう商人に思わせるほどに、とても美しい声だった。
這々の体で逃げる最中に川に流され、その起き抜けに美しい歌声を聞けば、人によってはここが死後の楽園であると思っても仕方がないというものだ。
この声の主人は、きっと愛の神の如き白磁の肌をした、優美な翼持つ美少年なのだろう。
「美しい声です……。やはり、ここは神の御許……」
現世への未練断ち切るほどの美しい声に生を諦め、彼が安らかに眠りかけた、その時────
「起きて起きて〜」
「おぶぶぶぶ」
大量の水が突然、男の顔にぶちまけられた。
「ゲホッ!! …………ゴホッ!! おぶえっ! なな、なんですか! いきなり!!」
「えっと、なんだかそのまま召されそうだったので……?」
「とどめでしたら今ので刺されそうでしたが!?」
思いっきり眠る態勢だったその男は、鼻にも口にも水が入って盛大に咽ていた。
水を吸ってしまった鼻の奥が”つん”と痛く、とても不愉快な感覚だ。
彼はあんまりの苦しさに憤懣やるかたなし、と言った調子で声のする方へと目を向ける。
「あはは……すみません。あ、おはようございます〜」
「あ、これはこれはご丁寧に。おはようございます…………じゃなくてですね! ええっと、あなたは一体どちら様でしょうか?」
目の前に居たのは白い服を着た金髪の美少年────まさしく先ほど商人が幻視したような愛の神に勝るとも劣らない美貌の、掛け値なしの美少年だった。
その面立ちからなら、先ほどの鐘のような声もしようと言う納得がある。
あの歌声の主は、やはりこの少年なのだろう。
彼は大きく後ろに垂れ下がった藍色の襟が特徴的な水兵服服を着ており、腰には橙色の布を大きく余らせて巻いている。
その肩には、本人の背丈とは掛け離れた大きな重そうな櫂を担いでおり、本人の小柄さとは若干不釣り合いに映ったが、なぜかしっくりくるという奇妙さもあった。
ぱっと見の印象としては船頭と言った風体なのだが、なにより目を引いたのは彼の腰だった。
彼の腰には、先が少し黒みがかった、大きな海猫の羽根があったのだ。
────と、まぁこの容姿に先ほどの美しい歌声と来たら、天使と思わない人間の方が少数なのかも知れない。
これでその羽が海猫ではなく白鳥のような巨大で真っ白な羽なら、誰がどうみても愛の神だと答えるだろう。
────羽根が生えた、美しい歌声の、金髪の美少年。
そう考えると、天国を幻視するのに概ね十分な要素が揃っており、ロイヤルストレートフラッシュだと言える。
……とはいえ、突然に生を諦めるのは、些か潔すぎる気はするが。
「おっと、失礼いたしました。初めまして、商人さん。僕はブランカ。ブランカ・ロセッティです」
「私は見ての通り行商人でございますが、トマソン・クックと申します。気安くトマソンとお呼びください。えっと……それで、ここはどこなのでしょう……?」
今いる場所だけでも把握しておきたいと商人────トマソンは周りを見渡したが、周囲が深い霧に覆われているせいで、あたり一面が真っ白い壁にでも囲まれているかのような有様だった。
恐らくはまだ森の中の川畔のはずなのだが、こうも霧が濃くては、目の前以外何一つ分からない。
現在地の目処も、周囲の地形も……視覚からでは何一つとして情報が得られなかったのだ。
だが、そんな切実な動機からの問いへの答えはと言えば────
「森ですかねぇ」
「森ですかぁ…………………………」
トマソンの頭から、”すうっ”と魂が抜けていく幻視が見えた。
良く言えば物腰穏やかで”ほのぼの”。
悪く言えば天然。
そんなブランカの要領を得ない受け答えに、トマソンはこめかみを揉みながら嘆息している。
「……じゃなくてですね! 地域的にはどのあたりなのかという事です!」
「なるほど。それは分からないですね~」
「なんですとぉ…………」
トマソンの頭から”すうっ”と、もう一度魂が抜けていく。
人の魂は3/4オンスだと思っていたのだが、二回も抜けられる人種がいるとは驚きだ。
トマソンの魂は、ここまででもう1と1/2オンス分は抜けたはずだ。
……まぁ、そんな冗談はさておき、そこに関してはブランカにも何やら言い分があるらしい。
「ぼくは船で来たので、細かい地理はちょっと」
「ああ、なんだ、そういう事でしたか……」
一瞬トマソンは「どこまで天然なんだ!」と天を仰ぎかけたが、船で移動していたという事であれば仕方ないか……と納得することにした。
船を漕いでいても今いる場所くらいは分かって当然なので、別に仕方なくは無いのだが。
そして、彼はここまでのやり取りで、早々にブランカから地理についての情報を得るのは諦める事にしたらしい。
地理に関しては全く把握していないようなので、このまま話していても埒があかないのだ。
「流されているところを助けていただいたようで、ありがとうございました。なにかお礼がしたいところなのですが、どうやら荷物がいくつか川に流されたようで……。たいしたお礼もできず、申し訳ないです」
命の価値に見合うかというと端金もいいところとはいえ、せめてもの気持ちとして硬貨数枚を手渡そうとしたが、ブランカはそっと首を振って受け取ろうとしない。
礼目当てで助けたわけではない、と言う事らしい。
「気にしないでください。トマソンさんも大変だったんでしょう?」
「ですが、命を助けていただいてそういう訳にも……」
「う〜ん……って言ってもなあ……。……あ、良いこと思いつきました! そのお金は船賃としていただきますので、代わりに僕の街まで船に乗って行きませんか?」
「なんと……! それは願っても無い話です! ……ですが、これでは全く礼になりませんねぇ……はは」
トマソンとしてはどこかわからないとはいえ、ひとまず街に辿り着けるとあらば願ったり叶ったりなのだが、お礼のつもりでまた恩が積み上がってしまった。
”ばつ”が悪く、ついつい苦笑してしまう。
「そんな事は無いですよ? 街の皆も喜ぶと思いますし」
けれどもしかしたら、いつかブランカの街で商いをする機会があるかも知れない。
恩返しはその時に少し色をつける形で返せば良いのではないか、とトマソンは考えて彼の誘いへ素直に乗ることにした。
「では、お世話になります。その街までお願いしましょう」
「はい、喜んで! それではこちらへどうぞ。お客様」
そう言ってお金を受け取ると、ブランカにはすっかり商売モードの船頭スイッチが入ったらしい。
その所作、立ち振る舞い、そして話し口調が、これまでの人懐こそうなそれから、相変わらず人当たりはいいが心なしか澄まし込んだ印象のある商売人のそれに変わっていた。
そうして二人がゴンドラに乗り込み終えると、ブランカは岸を足で蹴り、櫂を岸に立ててから川中へ大きく押し出した。