宇宙からの陽炎
「暑い……ああ暑いぃ〜」
暑い暑いと駄々をこねる少年。確かに室内気温は二十五度を超えているし、湿度だって高い。だが暑さの一番の原因は別に有る、と私、墨染千聖は推察する。
「それは君が長袖を着ているからだろう、レオ。Tシャツ一枚の私だって暑いんだ。長袖など羽織っている方が愚かというものだろう」
それに、文句を垂れたところで気温は下がりはしない。騒いで気力を使うだけ無駄といったところか。
でもこれは脱げませんよ、と礼央は口を尖らせる。彼の名字は熱川だというのに、皮肉にも本人は寒がりときた。虚弱な体質も災いしてか、彼は一年中上着を羽織っている。
熱川。よく考えてみれば珍しい名字だが、寒川という姓が有るなら熱川だってあり得るだろう。そんなことを言ったら私の墨染だって珍しい。京都の地名が由来だからか、親類はあの一帯にしか住んでいない。
「長袖は僕のトレードマークです。たとえ火の中水の中土の中、どこにだって着ていきますよ」
そっか、そりゃ失礼と私は謝罪を挟み、昨日から不調のエアコンを恨めしげに睨む。
今、私たちは母方の実家に帰省している。レオは私の従兄弟で中学三年生、私は大学の三回生だ。レオの両親は関東に住んでいるから、関西の大学に通う私や祖母たちとは出会う機会が限られている。
そう、例えば今のような春休みなどだ。
「……にしても、この気温でまだ三月って信じられます? チサトさん」
「信じるも何も、実際そうなのだから仕方ないだろう」
だって、と彼は口を尖らせる。
「だって去年までは、ばあちゃん家で花見とか出来たじゃないですか。今年の桜の開花、1月下旬ですよ。進学の季節、受験の季節にサクラサクってもんじゃないんですか」
「私に言われてもだな」
私に言われても困る。私は天候を操る神様じゃないし、そんな権限もない。それに、サクラサクは確かに三月四月というイメージがあるが、別に一月の桜が美しくない訳じゃない。花見で一杯という奴は乙なものだったし、彼ほどではないが寒がりの私からすれば、ずっと温暖だった今年の冬は実に快適だった。
反動で今暑過ぎることを除けば、だ。
「それもこれも、全部あの星の所為だろうが。そもそも太陽が二つあるなんて、四十億年間の生物の歴史の中で、想像しても想定した訳があるまい」
あの星。太陽の双子。
「なんて名前でしたっけ、あの星」
「おいおい、南極溶かして東京を沈めた張本人だぞ。実家の仇の名前くらい覚えておけ」
芭蕉だ、と私は呟く。真夏のような日差しが、居間の真ん中に据えられた団扇を眩しく照らす。
忘れもしない去年の十一月。その年一番の冷え込みを記録した二十二日の夜、静かな街を凍らさんばかりの木枯らしは、突如として熱風に姿を変えた。
その原因を、世界中の天文台は宇宙の彼方に見出した。土星と天王星の間に突如、新たな星が姿を現したのだ。直径は木星と同じくらい。表面は数千度の炎に覆われた、太陽の現し身のような星だ。
更に奇妙なことは、その軌道だ。恒星の性質を持っているにも関わらず、自らは惑星を引き付ける事なく、太陽の周りを廻り始めたのだ。
さも、太陽系創造時からそこに居たかのように。
______その名は、芭蕉星。
熱風を撒き散らし、周囲の星の環境を著しく変化させた正体不明の恒星。中国の伝承で暴風雨を撒き散らす不思議な道具、芭蕉扇に準えて付けられたこの和名は、幾多の海岸都市を海の底に沈めた張本人として多くの人々の憎しみを買った。
英語名はもっと安直だ。惑星には水星______Mercury、火星______Marsと神様の名前があてがわれる風習になぞらえて、この星もTyphonという学名を得た。ギリシア神話に於ける台風の神格化。
旅人の神や戦の神達と死闘を繰り広げた災厄の名を。
芭蕉星は年中一度も休む事なく、全方位に向けて超高温の熱風を撒き散らす。隣接する土星の______そのうち輪は特に、高温によって岩石が融解。液状へと姿を変えた。
天王星も同様。知名度は低いが同じくリングを持つこの星は、その青く澄んだ色を濁らせた。太陽系はかつての色を失い、その余波は勿論、遠く離れたこの地球にも訪れた。
「……そうそう、芭蕉だ芭蕉。こんなに芭蕉許すまじ、なんて言葉が流行ってるんだから、松尾芭蕉は良い迷惑だよね」
「松尾芭蕉は驚くだろうサ。彼の詠んだ最上川は既に無いし、墓に入って五百年も経ってからイキナリ名前が連呼されるようになったんだから」
これは余談だが、比律賓は相当な打撃を受けているらしい。ただでさえ海面上昇で国土が狭まっている上に、主要輸出先であった日本でバナナの売れ行きが悪いと来た。芭蕉星が憎いから芭蕉を叩くなんて、とばっちりも良いところだろう。
「……僕は美味しいと思うんですけどね、バナナ」
「そりゃ美味いさ。芭蕉星の訪れで栽培箇所が少し変わった程度で、味そのものが変わるわけじゃあるまい。如何してこう、日本人はよく分からない事に拘るんだろうねえ」
責任はそこには無いだろう。
「まあ何かに当たらないとやっていけないのかもしれないですね。暑いと判断力は鈍るもんです」
成る程。それは確かに真理だ。ヒトは自分以外に責任の所在を求めたがるもの。特に、その場が極限状態であるならば顕著だろう。
「……にしても暑いな。これ以上脱ぐ訳にもいかんし、こりゃ団扇や扇子の類は必需品だ」
私はのっそりと体を動かし、机の上の団扇を無造作に掴んで扇ぐ。腕は疲れるが、心地良い風には代え難い。
「脱いでも良いんですよ?」
「馬鹿者。私の裸が見たけりゃ金を積むんだな。一秒一万円だ」
「うへぇ、高いサービス業だ」
レオはべぇ、と舌を出すと、閉め切っていた窓をがらりと開ける。瞬間、少しだけ冷たい風が入って来て、私の髪を揺らす。
「あ、アイス食べます?」
「何故それを早く言わない」
アイスがあるなど初耳だぞ。
「昨日買って来たんですよ。割って食べられる奴ですから、半分こです」
「やるじゃないか。特別に五秒ほど見せてやっても良いぞ? 我が肉体美に惚れるがいい」
「あ、いえ、結構です」
レオは淡々と断り、冷蔵庫からパピコを持ってきた。
「寒い冬が恋しいですねえ」
レオは私の横によいしょっと座り、割って片方くわえる。
「冬になったら冬になったで、暑い夏を恋しがるんだろうさ。夏には寒を。冬には暖を。ヒトはずっと、無いものを求め続けるんだろうよ」
ちなみに私は今、氷枕が恋しい。冷たい麦茶も、あと冷房の効いた部屋もだ。
「麦茶ならヤカンに入ってますよ。常温ですけど」
「五月蠅いなァ。理想の一つくらい言わせておくれ」
開け放った窓の向こうから、ミーンミンミンと蝉の声が聞こえる。冬眠から覚める時期を間違えた個体がチラホラいるようだ。確かにまあ、この気温なら勘違いしてもおかしくは無い。
「……」
「……」
お互い無言になる。言葉を紡ぐのも労力がかかると分かったから、なるべく静かにしていようと思う。
「……あのですね、チサトさん」
「どうした少年」
「プール行きません? 暑すぎて死んでしまいます」
「お前ニュース見ただろう? 今じゃ日本中どこも満員だ。人が多くて逆に暑苦しいぞ、それでも行くか?」
「やっぱり止しておきます」
英断だろう。そもそも、この暑い中外出する気すら起きない。
「じゃあ海水浴ってのは」
「海岸線はどこも立ち入り禁止。水没した都市の引き揚げ作業と行方不明者捜索で警察やら自衛隊やらが作業中サ」
レオは万策尽きた、といった様子でむぅ、と口を尖らせる。
「家で大人しくしておけ。じきに君の母さん達が買い出しから帰ってくる。何か良い物を買って来てくれていると期待しようじゃないか」
「……わかったよ」
彼は無言で立ち上がり、二階から勉強道具を持ち出して来た。問題集の表紙を見る限り、どうやら数学の課題らしい。私は典型的な文学少女だったから、数学はどうにも好きになれない。
「チサトさん、この問題解る?」
机の向かいでシャープペンシルをくるくると回すレオ。私は逆さ向きの問題集を睨み、三年前の受験の記憶を辿る。
「あーっと、それはだな。二つの式を連立させて、関数fと置いて微分するんだ。微分、微分!?」
ああそうですね、などと彼は言う。
「レオお前まだ中学生だろ? もう微分なんて習ったのか」
「まだ齧ったばっかりだけどね」
恐るべし。恐るべし東京の進学校。私の高校は中学校からの一貫だったし、授業進度は速い方だったと記憶しているが、それに比べてもこれは速い。
「駄目だ。レオはもう私の手の届かない領域に達しているようだ。ああ、遠くへ行ってしまう……」
「馬鹿言ってないで教えて下さい。で、次はどうやって解くんです?」
**
「久々に頭を使ったわ。数学ってこんなに難しかったかしら」
暑さで脳が蕩けそうだった。汗で濡れた服が鬱陶しかった為、階段を上がって着替える。無地の黒Tシャツを身に纏い、帰りがけに冷蔵庫から氷を取り出して口に放り込む。
「ともあれ、芭蕉星だが。あれは一体何なのだろうな」
私は氷を噛み砕いてそう呟き、開け放たれた窓から眩しい太陽を見上げる。今しがた流れた天気予報によれば、ちょうどこの時間、太陽と真反対側に件の芭蕉星がある。
「そりゃ星なんじゃないですか」
私は少しムッとして、問い返す。
「そんなことは知ってるさ。私が問うているのは、『何が目的で現れたのか』だ」
「生き物じゃ無い以上、目的なんて無いのでは」
自然の摂理ってやつだ、と彼は言う。月が地球の周りを廻るのと同じで、単にそうあるのでしかないのだと。
「それとはまた違うだろう。なんてったって、あの星は自分から勝手に現れたんだ」
私はスマートフォンを取り出し、検索エンジンに芭蕉星と打ち込む。かの星は世界中の天文台が観測しており、星の様子を誰でもリアルタイムで見ることが出来るのだ。直ぐに暗い宇宙に浮かぶ火の玉がディスプレイに映る。細やかな収縮と膨張を繰り返し、プロミネンスが巻き起こる。まるで心臓の拍動のように、どくん。どくん。
まるで、星そのものが生きているかのように、どくん、どくんと。どくん。どく、
ぶつん。
「……あ」
スマートフォンの充電が切れた。このサイトを開く前までは100%に近い電池残量だったにも関わらず、だ。バッテリーが弱っているのだろうか。それとも、
「矢張り、よく分からないメーカーの製品は信用ならないか。安かったが、ワリカタ社なんて初耳だったんだ」
私は悪寒がして、汚いものを触るかのようにスマートフォンを手離す。
「どうしたんです?」
側から見れば不可解な、私の行動を見たレオが首を傾げて問う。
「充電が……」
「充電が?」
「……いや、なんでもない」
考えすぎだ。
そうですか、と彼は呟いて、テレビの電源を入れる。余計な事まで詮索しないさっぱりとした彼の性格に、今ほど感謝した事はない。
「なんだ、この局も芭蕉星特集か。とうとう主義を曲げちゃったのね」
ミーンミンミンミンと蝉の唄。快晴と表現して然るべき蒼玉の空。眩しい陽射し________あの光は陽光か、それとも芭蕉由来か。
スケールが大き過ぎる気はするが、今、私の理解を超えた事が宇宙の向こうで起こっている。それだけは、燕雀の如く矮小な私にだって判る。否、なにも芭蕉星だけに限った話ではない。いま世界中で起こっていることと比べても、私という個人は実にちっぽけな存在なのだ。
宇宙の意思は鴻鵠の志だろう。その前で私たちはただ、呆けて空を見上げることしか出来ない。遠い、あまりに遠い空の彼方。
「え」
突如、素っ頓狂な声を上げてレオが固まる。驚きで瞳孔が収縮し、口をポカンと開けてテレビの画面に釘付けになっている。
「どうした? また特撮の録画でも間違えたか」
「違いますよチサトさん! こ、これ……」
上ずった声が異変を訴える。何があったというのだろうか。
体を傾けて覗き込む。薄型のディスプレイには、真っ暗な宇宙と紅い円。どくどくと、拍動する芭蕉星の中継だ。だが、少し様子がおかしい。
「これは…………口?」
星は球に近い形ではあったが、完全な球では無かった。一文字の切れ込みに沿ってぱっかりと、暗い溝が開いていたのだ。ひと昔前のアーケードゲームで見たことのあるような形______そう、真横から見れば欠けたピザのように見えるであろう真っ赤な口だけが、暗闇の中で赤い光を放っていた。
「馬鹿な。そんな訳あるか」
私は目を擦る。だが何度瞬きをしても、テレビは異形の星を映し続ける。どくん、どくんと波打つ表面。炎はうねり、脈動は繰り返す。
馬鹿な。あれじゃあまるで。
まるで、生き物みたいじゃないか。
『______大変です、た、たった今、芭蕉星が変形しました! つい先程まで完全な球体だった芭蕉星は、大きく口を開けているかのような姿になり______ああ、口を閉じました! 口を開閉させています、これは______ 』
テレビの中で、天気予報士が取り乱している。当たり前だ。誰も今の状況を理解し切れていない。
レオが自分のスマホを取り出し、何やら検索し始めた。だがすぐに舌打ちをし、胸ポケットにしまい込む。
「駄目。SNSは全部通信負荷がかかってる。世界中の人間がTyphonと芭蕉星で検索かけて、どこもサーバーダウン中」
つまり、あれは幻覚まやかしの類いでは無いという事だ。間違いなく、あれが変形しているのを世界中が目撃している。
禍々しい、紅の口に。
そうか、
そうか、矢張り。
矢張りあの星は、星なんかじゃ無い。間違いなく、生きている。
私は、震える声を押し殺し、口を開く。こういう時こそ論理的に、冷静にだ。
「た……『たった今』では無いだろう。芭蕉星から地球まで、光の速さで1時間半ほど距離がある。つまり今私達から見えている姿は90分前のものだ。あの星はとっくの昔に馬鹿でかい口に変形して______」
『い、移動を開始しましたっ! ゆっくりとですが、間違いなく移動しています! あ、あの方向はどちらですかっ!? 真逆地球の方角では_____』
「______さらに移動までしているとは。驚いた______そうか成る程、人類は史上最大の苦境に立たされていると見える」
私の抱いた得体の知れない恐怖などいざ知らず、星は素知らぬ顔で画面に映る。
超質量が、星の海を泳ぐ。
ごう、ごう、ごう。
宇宙の奥から、口を開けて星が降る。