文学コンプレックス
小説を読んでいたり、書いていて文学コンプレックスを感じることがあります。
十年ぐらい前、投稿小説サイトで仲良くさせて頂いていた人の小説を読んでいて、こんな語句が有りました。
「許せない! 己の独楽のために人を傷つけるキサマを俺は許せない!」
超能力バトル小説で、残酷なキャラクターの所業に善玉キャラが怒るシーンだと思うんです。
で、これを書いた方は独楽の意味が【自分自身の愉悦】だと思ってらしたようなんですが、正しい読み方は【コマ】です。
あのお正月にタコ上げてコマを回す、あのコマ。
だから上記のセリフだと“自分のコマを守るために他人を傷つける”という意味合い。もちろん本来の意図とは全く異なります。
そのことを指摘したら、その方曰く“意味を知らずになんとなく使った”とのこと。
そのときは大雑把な人だな、と思ったんですが、それから何年か小説を書いていて、似たような例にちょくちょく遭遇します。
例えば。
「彼は両目を刮目した」
刮目というのは目を開くことなので、言葉の重複ですね。
頭痛が痛い、危険が危ない、とは言わないのと同じく、本来の日本語として美しくありませんし、考えたら奇妙な言葉ですよね。
しかしながら、自分の雑感として、こういう言い回しを多用する方は結構多いです。それ自体は失敗も勉強なので問題でも何でもありませんが、なぜ同じような誤用が多いのでしょうか。
ただし、独楽の例と共通するのが“なぜか自分が意味の知らない言葉を使いたがる”という点です。
なぜ、自分が知らない語彙を使いたがるのか? それを自分は文学コンプレックスと暫定呼称しています。
良い物を書きたいという意識が有り、そこでベストの言葉を選ぶときに“なんとなく聞いたことのある言葉”も選択肢に入ってしまう。
難読だったり自分の分からないような、未知という要素に魅力を感じてしまう、中二病的な現象かと思います。
これは自然と言葉を身に着けて行く内に幸か不幸か、ある日、収まります。
そのときに絶叫したくなるような恥ずかしさが襲ってきますが、まあ、それも経験ですよね。
んで、文学コンプレックスの主な症状として、もうひとつ有りまして。
「寒露の折、土耳古から還御した孅い孩提は、細雪に曝されている鹿驚を眺めながら甘蕉を頬張った」
これは俺が適当に組んだ言葉ですが、多分、読めない漢字がいくつか有りますよね。
意味は“トルコから帰ってきた子供はかかしが雪に降られているのを見ながらバナナを食べている”です。
ただ単に読み難いだけなのですが、なぜか文学コンプレックスを患う人間には類似する現象がよく見られます。
具体的には、
振り返る→顧みる
その瞬間→その刹那
もちろん、一番簡単な語彙を選択する必要は無いんですが、断固として難しそうな言葉を使いたがる方は中々にいらっしゃいます。
これも程度の違いですが、文学的というか簡単な言い回しに対して抵抗を持つ、というコンプレックスですね。
本来的には感じる必要のない劣等感という意味では、どちらも文学コンプレックス、と自分は呼んでいます。
言葉そのものの意味ではなく、その言葉の持つ雰囲気を重視しすぎてしまう現象。
もちろん、最適な言葉を選ぶのは必要な作業ではあるので、文学コンプレックスが有るからといって問題ではありません。
ただ、小説家になろうの中でもわざわざ疲れながら書いてるような人が居るので、そういう人の目に留まれば、肩の力を抜けよ、と伝えるだけです。
背伸びしたりする必要もありませんし、書きたいものを書いていければ良いのかなと思います。