海の中のネリネ
魚が空を飛ぶようになってなお、海に残った生き物もいる。その中でも大型なのが、クジラだ。
古い古い研究によると、クジラたちはかつて水中から陸にあがり、再び水の中で生きることを選んで陸を捨てた生き物なのだという。かつて夫だった男に聞いた話だ。
「ばかな生き物」
トビウオが羽ばたく空の下。クジラがまるで、もがくように尾びれを海面に叩きつけるのを見ながら、ネリネはつぶやいた。
一度選んだ道を捨てて戻る故郷は、優しく受け入れてなどくれない。水中で呼吸する術をなくしたクジラたちが海中で生きるのは、さぞかし息苦しいだろう。結婚をして故郷を出たネリネが離婚して戻った場所だって、居心地が悪く息苦しいばかりだ。
つまらないことを思い出して苦い思いが広がる。胸に広がる思いを持て余していると、同じく水平線を眺めていたケイトウが首をかしげる。何か言った? と振り向く彼女に首を横に振って微笑む。
久しぶりに会った友人にしたい話ではない。できるなら、彼女とは明るく楽しい話をしたい。少女だったころの思い出が楽しく優しさに満ちているのと同じように、ケイトウとの間につまらないものを入り込ませたくない。
「ここはいいところね。静かだけどひらけていて、飛んでる魚も見えて明るい感じがするし、日当たりはいいのに海風が気持ちよく吹いて暑くはないし。とっても素敵」
手元で汗をかくグラスをそっと回して、ネリネはにこやかに微笑んだ。
それに対して、そうだろ、と言ったケイトウは、にっと歯を見せて笑う。変わらない。彼女は幼いころと同じように、綺麗に笑うことなんてせずに生きている。年をとるごとに相応の女性らしい振る舞いを身につけてきたネリネには、そのことがなぜだかとても嬉しい。
「いいとこっしょ。べつに狙って探したわけじゃないから、たまたまだけどね。あたしは静かで安けりゃどこでも良かったから」
窓枠に腰かけたケイトウはそう言って、グラスの中身をずずずっと飲み干した。空のグラスを適当に押しやると、紙の束と鉛筆を手にして窓の外を見上げる。来客を放って、スケッチをはじめたようだ。
このきちんとしていない感じが、なんとも彼女らしい。いい年をしてくだけた喋り方をするのも子どものような行儀の悪さも、ネリネが大人になるために封じ込めてきたもので、それらを持ったまま年を重ねているケイトウがまぶしく見える。
「やっぱり絵を描くには、静かな場所がいいの?」
言いながら、ネリネは部屋の中を見回した。小さなテーブルと、いま自分が座っている椅子が一脚。それからケイトウが座る窓辺にベッドがあり、ベッド脇には開きっぱなしのトランクから荷物がこぼれている。 狭くはない部屋に、少ない家具。けれど、閑散とした感じはしない。それは、床のいたるところに線を描いては落とし、描いては落としたのだろう紙が散らばり、足の踏み場もないためか。はたまた、あちらこちらにこぼれる絵の具の賑やかな色のためか。いいや、部屋の真ん中に置かれた、描きかけの絵のためだろう。
イーゼルにかけられた絵はネリネが両手を広げても抱えられるかどうかというほど大きい。広いキャンバスの上には、青い色。明るい青や薄い青、暗い青に深い青。幾度も重ねられた青色が優しい濃淡を生み出して、海の底から空を見上げたような光景が描かれている。
ここにどんな魚が泳ぐのだろう。キャンバスを眺めながらぼんやりと考えるネリネに、ケイトウが一枚の紙を放ってよこす。
「町の方が暮らしやすいし、人と触れ合ったり人を見てて描きたいものが浮かぶこともよくあるけどさ。でもまあ、ここなら少なくとも聞きたくない声は聞こえないから」
色々と楽だよ、と言う彼女の声を聞きながら、ネリネは足元に落ちた紙を拾い上げる。
「……クジラね」
紙に書かれていたのは、先ほど頭に浮かべていた愚かな生き物。下書きだろうか、さまざまな大きさ、形で描かれている。
「ここから見えるクジラを描いたの?」
ネリネの問いにケイトウは、鉛筆を片手に空を見上げたまま答える。青い空を泳ぐ、濃い青色をしたルリスズメダイの群れを書き留めているようだ。
「そう。だけど、描こうと思ったのは、半分くらいあんたのおかげ」
自分のおかげと言われても心あたりのないネリネは、首をかしげてさらに問う。話しかけても描く邪魔にはならないと、平時の彼女に聞いているから、遠慮なく聞いてみる。
「わたしのおかげって、何かしたかしら」
思い当たることがない。しかし、ケイトウは描きかけの手を止めて、振り向いてから頷いた。
「した。クジラが、海から陸に上がって、それからやっぱり海が良くって水の中に戻って行った話、してくれた。結婚してすぐのとき、旦那が教えてくれたんだ、って言ってたよ」
そうだっただろうか。したかもしれない。あのころは幸せな未来しか思い描いていなかったから、あの人の教えてくれる仕事の話が夢にあふれる素晴らしいものに思えていたから、祝いに来てくれた彼女に話したかもしれない。だってその時は、思いもしなかった。
あの人は仕事ばかりに打ち込んで、家庭をかえりみない。夢の中で生きるあの人に付き合っていられなくて、別れてしまう未来なんて、思いもしなかったのだ。
触れたくない話をされて返事に困りうつむくネリネに構わず、ケイトウは続ける。
「そんでさ、その話聞いて思ったのよ。クジラすげーな、かっこいいな、って」
「え?」
聞こえた意外な言葉に、ネリネは顔を上げた。自分が愚かだと思った生き物をかっこいいと称する人がいる。
驚いて顔を上げた視界の中、目に映ったケイトウは、目を輝かせている。鉛筆を握りしめた彼女は、珍しく喜色をあらわに口を開く。
「だってさ、ほかのみんなが陸で生きるって決めてんのに、自分はまた海に帰るんだよ。もう水中で息できないのに、それでも海に帰るんだよ」
嬉しげなケイトウは、ネリネが驚いたように見つめていることに気がつくと、照れたように背を向けて空を見上げた。
「あたし、昔っから好き放題やってるからさ。自分で選んだ道なんだからやり通さなきゃ、とか言われるし、自分でもそうしなきゃって思ってたんだよね」
窓枠の外で足をぶらつかせながら、ケイトウが笑う。
「そんなときにあんたからクジラの話聞いてさ。すっごく気持ちが楽になった。生き方って、選びなおして良いんだって言われた気がしたよ。自分の好きな道を探して、やり直して良いんだって言ってもらえた気がしたんだ。そんで、やり直せるならもうちょっと描いててもいいかな、って思ったんだ」
笑いながら、ケイトウはまた手を動かしはじめた。しゃかしゃかしゃか。真っ白い紙の上に迷いなく描く彼女も、迷っていたのか。
「それでもさ、やっぱり周りの声が気になっちゃうから、思いきって超田舎に来てみたんだよね。そしたらたまたまクジラが泳ぐのが見えるとこでさ。あんたから聞いた話を思い出して」
ケイトウが、首だけで振り向いていたずらっぽく笑う。
「そしたらもう、描くしかないよね。新たな一歩のために」
新たな一歩。踏み出せばいいのだろうか。
言うだけ言って青空に向かうケイトウの背を見ながら、ネリネはぼんやりと思う。
選びなおしてもいいのだろうか。
そんな思いが胸にぽとりと落ちてきた。落とされた思いが海面にゆらめく月光のように不鮮明にたゆたうのをじっと見つめ、胸になじませていく。
やり直すことが、できるのか。
少しずつ胸に染み込んだ思いは、だんだんと熱を帯びてネリネの心を暖めていく。
いいのかもしれない。
出戻りとささやかれながら息苦しい故郷で縮こまって生きて行かなくても、いいのかもしれない。
自分の生きたい場所を探してやり直しても、いいのかもしれない。
ネリネは深く息を吸った。
息をひそめるのはもうやめよう。ケイトウのように思いきって行動することはできないけれど、堂々といることはできるはずだ。
そして探そう。自分の居たい場所、やりたいこと。そうだ、やり直せばいい。わたしのことなのだから、人にとやかく言われても、気にせずクジラのように悠々としていればいい。
すっかり熱くなった胸から伝わってくる期待を心地よく感じながら、ネリネは鼻から勢いよく息を吐き出した。
今ならなんだってやれる気がした。手始めに、別れた旦那の愚痴をケイトウに聞いてもらおう。彼女は面倒臭そうにするだろうけれど、きっと聞いてくれるはずだ。そうしたら、二人で少女のように盛り上がろう。砕けた口調でどうでもいいことを何時間でも、しゃべり続けよう。そうしてしゃべり疲れたら、その時には自分がこれからどうしたいか、ゆっくり考えてみよう。
それはとてもいい考えのように思えた。少なくとも、ネリネの胸は楽しみでいっぱいで、はち切れそうになっている。まるで、十代の少女のころのようにきらめいている。
押さえきれないわくわくとした衝動のまま、ケイトウに話しかけようと背筋を伸ばし前を向いたネリネの視界の中、遠い水平線でクジラが潮を噴きあげるのが見えた。息継ぎをしたクジラは、海の中を泳いで行くのだろう。自分の選んだ居場所で、悠々と泳いでいるのだろう。
ネリネ「箱入り娘」
ケイトウ「風変わり」