保健室にて。
「もう、ああいうときは黙ってちゃダメなんですよ!」
「はい…」
フィオナさんにお叱りをいただきながら、僕たちは職員室の近くにあるという保健室を目指す。
そういえば二日前も彼女と職員室を探してこの道を歩いたなと懐かしくなる。
色々あったから、あれが二日前の話だっていうのが信じられない。
僕たちが抜けだしてきた闘技場ではひとまず授業の解散され、魔獣に会った際の対処法をいい機会だからと先生方が特別授業をしてくれているらしい。 僕も受けたかったなあってさっきぼやいたら、フィオナさんの頬がぷっくりと膨らんでなんだか怖い感じになったのでそれ以上は言うのをやめた。
「でも、アルマ君がいなかったら私死んじゃってましたね、えへへ」
「いや、そもそも僕を助けてくれたのはフィオナさんだよ」
フィオナさんが聖心器も持たず魔獣に体当たりしてくれたから、僕の頭が魔獣に噛み千切られなかったのだ。 命の恩人と言ってもいいかもしれない。
「いいえ! アルマ君、私たちが固まって動けないところに走ってきてくれたじゃないですか! あれで助かったって言ってるんです! だからアルマ君のおかげなんです!」
フィオナさんは意外と頑固みたいだ。 ちょっと面白い。
「わかったよ。 じゃあ、どういたしまして……かな?」
「そうです!」
付き添いで来てくれているのに、隣じゃなくて僕の斜め後ろを歩くフィオナさんは、そこで急に立ち止まった。 保健室はもう目の前だというのに。
「あの、アルマ君、昨日はみっともないところをお見せしました…」
昨日? 何かあったっけ? 魔獣実験棟で大冒険した以外に……ああ。
「ひょっとして、聖句詠唱の授業のこと?」
「はい……大失敗しちゃって…ダメダメだから、せめてあの場でくらい、って思っちゃったんです」
「緊張して失敗することなんて誰でもあるよ。 それに初めてだったんだしさ。 練習じゃなくて、聖導士になってから成功したらいいよ」
「違うんです…。 私、魔獣にもびっくりしちゃって、さっきも全然足が動かなくて、頭の中がパニックになっちゃって」
それは仕方ない。 むしろあの突然の状況下で動ける新入生のほうがすごいんだ。
ハロルド君はまず間違いなく場慣れしている強者だろう。
「私、本当に聖導士になれるのかなって」
「なれるよ! そのためにこの学校に入学したんだもん。 合格できるだけの実力があったんだからさ。 一緒に頑張ろうよ」
「……はい。 そうですよね! せっかく入学できたんだし、頑張らないと!」
フィオナさんの元気が戻ってきたところで、保健室のドアをノックする。 それにしても、表情がコロコロしてかわいらしい子だ。
天真爛漫、という言葉のふさわしい、いい笑顔をする。 きっと、さぞ強い聖心獣を召喚するんだろうな。
「入っておいでー」
「失礼します」
「ああ、まだ二日目なのに、二人も…。 新入生がどうしたんだい。 聖心器学で怪我でもしたかい?」
想像していたよりも広い保健室には、煙草をふかしたスタイリッシュな先生が椅子に座って僕たちを見ていた。
机と、先生の座る椅子と、その向かいに診察がされるための椅子と寝転がれそうな大きさの台がある。 部屋の奥の方にはベッドが十以上並んでいて、そこに怪我人やなんかを寝かせるんだろう。 各ベッドの横には少し小さめのベッドが置いてあるけれど、あれは何に使うんだろう。
「えと、魔獣、見学で」
先生の吐き出した煙草の煙にむせ返りそうになるのをこらえて、自分がここに来た理由を説明する。 鼻を突き刺す、甘ったるい香草の匂いだ。 フィオナさんもすごいしかめっ面で、いやいや、その顔は女の子がしていいものじゃない。
先生は魔獣が脱走したくだりで「はあ!?」と椅子から転げ落ちそうになっていたけれど、すんでのところで持ち直した。
「ったく、監督不行き届きの極みだねー」
「すいません」
「あんたが謝るこっちゃないさね。 あとでヒューイとガストン見つけてぶっ飛ばしとかんとダメだね。 けが人が一人ですんでよかったよ」
ヒューイ先生ごめんなさい。
「でも、あんたもあんただよ、魔獣に傷つけられたなら、どんな軽傷でもすぐ治療! これ鉄則だよ! あんたが聖火を使えるってんなら話は別だけどね」
「はあ…」
「そうだよアルマ君! 魔獣は私たちに悪影響を与えるんだからね!」
それは知ってる。 魔獣は悪意でできている、文字通り『悪意の塊』だ。 奴らに攻撃されると、つけられた傷口から毒のように、僕らの体へと悪意が流れ込んでしまうのだ。 本来自然に生まれて、自然に呑み込むことのできる自分の気持ちと違って、魔獣の悪意は煮詰まった濃い悪意なので、浄化させることができないのだ。 それこそが、魔獣を人類の天敵足らしめているともいえる。
聖火は優れた聖導士の使える聖なる火で、魔獣の悪意を浄化することのできるすご技だ。 湖の事件の時、聖騎士のステラさんが聖火で魔獣を焼き払っていたけど、あれのことだ。
「ま、どれ、見せてみな」
さばさばした先生に言われるままずり傷を見せる。 右腕に二か所、左腕に一か所だ。
魔獣にのしかかれたとき、その前足の爪で引っかかれた。
「おや?」
「どうかしたんですか」
「なんともないね」
「よかった…」
「あんた、ほんとに魔獣に傷つけられたのかい?」
「はい、たぶん…」
「たぶんってねえ。 いいかい、基本的に魔獣に付けられた傷は虹色だったり黒色だったり、その魔獣の色が染みつくもんなんだよ。 そりゃもうくっきりとね。 それがないってことは、あんたの傷は魔獣の仕業じゃあないってことさね。 よかったね」
確かに爪でひっかかれたと思ったけれど気のせいだったのかな。
フィオナさんもほっと息を吐き出した。
「ま、一応薬は塗ってやるから、向こうのベッドで待ってなよ」
先生に言われて席から移動する。 学校の備品とは思えないくらいふかふかのベッドに腰掛けると、お尻が半分ほど布団に沈んだ。
「わ、気持ちいい」
「すごいです! ふっかふか!」
バインバインとベッドの弾力を楽しんで軽く飛び跳ねていると、隣のベッドに寝ていた人に注意を受けてしまった。
布団の中から覗くようにこちらに顔を出してきて、
「うるさいわ」
と一言。
「あ、ごめんなさい!」
「すいません! 誰かいるって思わなくて!」
慌ててじっとすると、隣のその人は黙って布団を再び頭の上までかぶってしまった。
「……怒られちゃったね」
「気づきませんでした…」
二人でひそひそと反省。 ちょっとはしゃぎすぎた。
「ああもう、せっかくいい気分だったのに!」
かと思うと、数秒して寝付けなかったのか、上体を布団ごと勢いよく起こして僕たちに向き直った。
「あのね、ここは体調のすぐれないみんなが使う公共の場所なの。 決してうるさくしないでちょうだい。 そんなのを許していると、私のように睡眠を邪魔されて――いえ、せっかくの安息が潰れてしまう人が大勢生まれてしまうわ」
きっ、と睨み付けてくるそのお顔立ちは美しいとかわいらしいのちょうど中間、美少女とでもいえばいいのだろうか、金髪をシニヨンに結い上げた凛々しい顔立ち。
紫の宝石みたいな目元と口元はまだ少女のものでかわいげと優しさが同居していて、あれ、どっかで見た顔だなって直感で気づいたけれど思い出せない。
外見とは裏腹に、口調はなかなかきつい感じで、目の前の女子生徒はぺらぺらと続ける。
「たとえあなたたちが先輩だろうと言いたいことは言わせてもらうわ。 それは私の身分がどうこうじゃなくて人としての尊厳のための忠告なの。 わかってちょうだい」
「あー…あの、私たち初等部一年生です…」
フィオナさんが女子生徒の隙間をついて訂正する。
「あらほんと。 私も一年生なの、よろしくね」
「よろしくお願いします」
「あら、あなた、あ……ああ、食堂で!」
「ああ!」
そこでようやく彼女も僕の顔をはっきりと認識したらしく、大きな声を上げた。
彼女の反応でようやく思い出した。
この人、二日前入学ガイダンスの終わった後に食堂でアドリア王女と話していた時に隣の席に座ってた人だ!
「アルマ・ディナミスくんだっけ?」
「はい。 そういう君は…」
「マルティアよ。 よろしくね」
「マルティアさんか。 よろしく」
食堂で確かこの人、僕の名前を聞いて小首をかしげていたような気がする。
「私たちマクマス組なんですけど、マルティアさんはどちらの組なんですか?」
「マクマス組か…まだ合同授業はしてないわね。 私はセクストン組よ」
「マルティアさんはなんでアドリア王女と一緒にいたの?」
「あー、ま、個人的な知り合いってやつかしら。 あの場所はこう、みんなできる人のオーラを漂わせていて窮屈だったわ」
「僕なんて誰とも全く面識がないのに、急に呼び止められて大変だったよ」
「…ふーん」
僕の言葉に、マルティアさんは微妙な顔をした。
いやいや、森から出てきたばかりの田舎者に、いきなり王女様とその取り巻きと話すなんてのはハードルが高すぎたんだ。
「そういえばあなたたちは何で保健室に? まだ二日目よ?」
「ちょっと授業で怪我してしまって…マルティアさんは?」
「私? 私はめまいでちょっとね」
めまいか。 入学した手出し、緊張してしまえばそういうこともあるだろう。
「実家のベットから寮のベッドになって馴れなくて。 なかなか寝付けなくて寝不足なの」
ただの寝不足で保健室は利用してもいいものなのか。 今後僕も使おう。
「わ、わかります! 私も昨日なかなか寝付けなくて!」
「そうよね。 ちょっと硬すぎたけど、ここのベッドはなかなかいいもの使ってて気に入ったわ」
寮のベッドってそんな硬かったっけ? 少なくとも森で過ごした寝床よりも快適で僕は自室で万歳していたんだけど。
「そりゃ私が校長先生に頼んでいいものを買ってもらったからだよ。 王族御用達の寝具店にまで発注してね」
三人でおしゃべりしていたところに、準備のできたらしい先生がやってきて僕の隣に座る。
「聖心獣ってのはやっぱり精神をすり減らすからねえ、保健室で休憩して身も心も万全になってもらえるようにってね」
喋りながら、てきぱきと僕の擦り傷の治療が進む。 消毒液が傷口にしみた。
「ここのベッド、寮に持って帰ってもよろしいですか、先生」
「甘えた目で言ってもそれには答えられないねえ。 そんなことを言える気力があるなら授業にはもう戻れそうかい」
「あ、なんだかまたくらっとしたわ」
「そうかい。 んじゃ喋らずにおとなしく寝ときな」
「わかったわよ…じゃあね、アルマ・ディナミスと、えーと…」
「フィオナです」
「そう、じゃあね、フィオナ。 また会いましょう。 おやすみなさい」
マルティアさんは別れと睡眠の挨拶を残して、再び布団を頭の上にまでかぶってしまった。
僕たちも治療が終わったので教室に戻ることにする。
さっきの授業が早く切り上げられたおかげでl、今戻ってもちょうどお昼休みのころだろう。
午後の授業に備えないと。
「ありがとうございました」
「怪我したらいつでも来な。 それが私の仕事だからね」
また新しい煙草に火をつけながら先生が手をひらひらさせた。
「アルマ君って王女様に会ってたんですか?」
「会ったっていうか、なんか、成り行きで声をかけられたんだ」
「声を? いいなあ。 絶対あり得ないけど、私も声をかけてもらいたいです」
「先輩だし、なかなか機会がないよね。 自治なんとやらに入ってみたら?」
「自治会執行部ですか? 私にはとても無理ですね、えへへ」
闘技場での一件を経て、こんな軽い会話のできる新しい友達がまた増えたことへの喜びに胸躍らせながら、僕たちは次の授業の準備をしに教室へと急いだ。