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かげぼうし

作者: 塚本亮悟

 長い一日だ。

 まだ8時間と12分残ってる。見渡す限り何の変わり映えもしない部屋がここにある。何年ここに住んでいるのかすらよく思い出せない。

 模様替えも…したことはない。

 カーテンをつけていないのもずっと昔からのことだ。決してカーテンを買う金を出し惜しんでいるわけじゃない。この部屋に相応しい柄が何なのか全く分からないだけだ。夏の日差しを遮るものを買えば良いのかもしれないが、そのカーテンを掛けた瞬間から俺の生活がある種の型に嵌められてしまうようで怖い。

 長い一日だ。

 ただ夜が来るのは嫌だ。昔からそうだったかどうかは良く思い出せない。でも夜が来ると何故か自分が何をやっていたのか思い出せない。いつから夜が嫌いになったんだろう?最近なのかもしれないし、もしかしたらずっと同じ悩みを抱えてきていたのかもしれない。

 夜の帳が空を覆うとフェードアウトするようにそれからの記憶がぼやける。気がつけば朝になってる。その繰り返しだ。いつからそうなったのかまで思い出せない。

 子供の頃住んでた家の前は並木通りが延々と続いていた。月明かりに照らされる家や木々の陰影。そんな情景は思い出せるのに今はダメだ。もっと夜中に起きた楽しいこと、悲しいこと、嬉しいことや怖かったことが確かに記憶としてはあるが、それが夜のことだったか昼間のことだったか、まるで思い出せない。


 暑い。


 窓から差し込む日の光はまるで八月の頃の勢いを失っていない。まだ残暑が残る九月に空調を使わないで過ごすと決めたにしろ、この暑さは一体何なんだ?窓を開ければ良いんじゃないか?そうかもしれない。だが、隣接する建物や界隈から聞こえてくる雑音は聞くに堪えないほど下らない現実に満ち溢れている。そんな現実に自分の場所が侵されるくらいならこのままの方がいい。

 給料が出なくなった今はもう、こうやって節約するしかない。

 そういう時に限って俺一人に語りかける誘惑は必ずやってくるもんだ。自力で立てなくなった人間をもっと深い穴へ引きずり込む甘い誘惑が。「お前に耐えられるか?」と、女神さえ微笑みながら俺をハメようとしてる。


 失業保険…もうそろそろ切れてもおかしくない頃だな。

 辞めさせた人間にずっと恵みを垂れてるほど会社は慈悲の心に溢れているわけじゃない。人一人路頭に迷おうが野垂れ死のうが、ある程度の期間面倒見てやった後は知ったこっちゃない。その考え方は俺にも分かる。ある意味、世の中どこ行ったってそんなもんだ。むしろ俺だって立場が違えばそうするに決まってるさ。


 影が薄い。


 仕事仲間がそう陰口叩いてたな。奴らときたら給湯室は秘密を吐露する場所くらいにしか考えてないんだろうが、そこは完全防音の個室じゃないんだ。人の口と耳に壁なんて立てられるもんじゃない。だが、その風評を肯定する人間が増えれば増えるほど、それはもはや陰口じゃなくなってしまう。そう、それはもう口にすることを憚られることじゃなかった。


 虐められるよりも酷いもんだ。人に自分の存在すら覚えてもらえていないっていうのは。デートに誘った相手も、「あんた誰?」って、失笑してたな。

 あの後、どうしても忘れられなくて彼女の住むアパートの近くまで行ったんだっけ。

 通りの角から見上げた窓からストレートの長髪を揺らす彼女が窓際を横切っていく。歩道に突っ立って見上げている俺の存在なんて気付くはずが無い。そうしている内に背の高い影が窓際を横切っていく。白いオックスフォードシャツで覆われた男の肩が窓から見える。彼女が微笑みながら男の肩に近づいて行く。ボディコンタクトが始まるその瞬間、彼女の視線がこちらを捕らえる。

 俺は走った。

 何をやってるんだって自分に悪態をつきながら。


 そうやって今がある。見渡す限り華やいでいた生活が色褪せてしまっていて、今やここにあるのは思い出の残滓しか残っていない。

 …その残滓?

 いや待て。俺は一体この部屋の何を見てたんだ?

 思い出の残滓なんてどこにもないじゃないか。何なんだ?この豪奢な家具は?こんなデザイナーが考案したような代物が何でこの部屋にあるんだ?毎月貰ってた額の少ないペイロールで俺は一体どうやってこの部屋をこんなに高そうな家具で埋め尽くしたんだ?俺が座ってるソファーもそうだ。俺はいつからこんな革張りのソファーを手に入れたっていうんだ?

 おかしい。

 これが俺の居る現実なのか?俺が居てもいい現実なのか?ソファーだけじゃない。テレビだってこんな壁に取り付けられるほど大きいやつをいつ買ったんだ?

 …思いだせない。というか記憶にすらない。

 キッチンもそうだ。

 パプリカなんて俺が買うか?御大層に果物を入れた器の隣に色とりどりのパプリカが並んでる。俺に料理を楽しむなんて高尚な趣味は無い。こんな果物や野菜なんか放置して変色した残滓が籠にへばりついている状態になるのが関の山だ。俺は一体何を考えていたんだ?何でこんなものを?

 ベッドルームに向かうホールウェイも…何も飾ってなかったんじゃなかったか?何なんだ、この壁に掛けられている絵画は?高いかどうかすら分からない。レプリカなんじゃないのか?いや、そんなこと俺に分かるわけがない。その見分けすらつきっこない。

 冗談じゃない。

 ベッドルームへと続くドアが開いている。これもおかしい。俺は用のない部屋のドアは必ず閉めるようにしてるんだ。

 待て、誰なんだあの女は?

 何だってガーターベルトなんかしてるんだ?通りで知らぬ間にコールガールでも引き連れて来たって言うのか?しかもなんでブルネットじゃなくて何で、金髪の女が俺のベッドに腰掛けてるんだ?ブラジャーをつけ直してる。まるでもう、やるべきことをやった後の光景じゃないか。こっちを振り返って笑う女の顔にも見覚えが無い。

 そうしていきなりドアが閉まる。

 誰か居るのか?

 でも閉じられたドアを開く決心つかない。中にもう一人の誰かが居たとしてそれが誰なのか確かめる勇気が無い。とりあえずリビングに戻ることにする。

 リビングは今や強い西日に晒されている。

 ソファーもドロウアーも机も皆壁に向かって輪郭のくっきりした影を落としている。そんな壁に映る影の世界に一つの人影がある。

 ソファーにゆったりと腰かけている影が。

 なんてこった。俺は夢でも見ているのか?

 日はどんどん西に傾いている。だが、俺の影だけ壁に映るこのリビングの有り様から姿を消している…人だ。誰かの影が動く。男の影だ。だが、それは俺の影じゃない。幅のある肩を長袖のシャツに包まれているのが輪郭から分かる。

 だが、それは俺じゃない。俺はそんなシャツなんか着ていない。そもそも俺はソファーの後ろに突っ立ったままなんだ。もちろん、このリビングに立っているのは俺一人だ。

 そのはずなんだ。

 なのに、壁に映る人影は一つしかない。何をしていいのか分からない内に影が動きだす。男の影はあるものを手に携えていた。

 ナイフ…いや、包丁だ。

 先が鋭利に尖って刃渡りのある包丁だ。あんなものこの家にあったか?その影が俺の方に向かって包丁を俺の方に突き出しながら立ち上がる。影の輪郭が微妙に震えている。いや、影自身が震えている。

 信じられない光景が目の前に迫っていた。

 この部屋に唯一存在している人影が俺自身を威嚇している。

 その影がソファーとテーブルの間を横歩きに移動してくる。途中で脛をテーブルにぶつけて思わずソファーに倒れ込んだ。だが、その黒い輪郭は包丁を突き出しながら身体を起こした。そうやって俺との距離をじわじわ詰めてきている。

 その影は身長だけやけに高いが、痩せぎすにも見える。顔の輪郭もほっそりしていて、シルエットからしても存在感のない優男にしか見えない。そんなやつが俺の部屋に忍び込んだ挙句、この俺に向かって刃物を向けている。

 くだらない茶番だ。

 俺の人生が人知れず、そして静かに崩壊しようとしているのに何だってこんな邪魔が入るんだ?こんな意味の分からない存在に。俺は静かにソファーの後ろに回り込み、壁を横伝いに歩いた。人影はようやく俺が近づいてきているのに気付いたのかこちらに刃先を向けた。躊躇うことなく俺は握りしめた拳をその影めがけて投げつけた。影はもんどりを打ってソファーに倒れ込んだ。

 カーペットの上にものが落ちたのか、くぐもった衝撃音が聞こえた。

 音がした方に視線を落としてもそこに輪郭しか見えなかった凶器は無い。

 そう、凶器は今や俺の手の中にあるのだから。


 …なんだ?怯えてるのか?

 形勢逆転だな。影でも切られれば痛いのか?

 …痛そうだな。

 大丈夫だ、お前の腕はそんな重傷じゃない。逆にこっちはどうだ?

 …意外に深く刺さるもんだな。血は出るのか?太股じゃ分からないか。

 肩口は意外に出るもんだな。何か流れ出てきてる。

 おい、逃げるなって。ジタばたスるナ。もっトだ。モットひめいヲあゲロ。オマエはおレノぶんシンなんカじゃナイ。オレにかげハひつようナイんダ。オまエをスクッテやる。コノドウシヨウモないジンセイカラきりハナシテヤル。

サァ、イノッテミセロ!


 夕闇が訪れる部屋に皺が深く刻まれた顔を顰めてみせる男の姿があった。

 背広の上にコートを羽織った中年の刑事は血飛沫の残る白い壁を見つめていた。遺体はもう黒い格納袋に包まれ、ストレッチャーの上に乗せられていた。鑑識官が構えるカメラから閃光と共にフラッシュを焚く音が明滅するように聞こえてくる。

 奥のベッドルームからネクタイを弛めた若い刑事が姿を現した。

 中年の刑事は彼に視線を投げつけた。若い刑事は口元を覆っていたハンカチをポケットにしまうと首を振った。

 「参りましたよ。『シドとナンシー』さながらですよ」

 眉間に皺を寄せたまま、使い込んだコートを羽織った男はソファーに視線を落とした。

 「そのシド・ヴィシャスがリビングに戻ってきて自分の身体を切り刻んで果てる。お前どう思う?」

 部屋に沈黙が漂った。

 「恐らく自殺じゃないでしょうか?ドアも窓も施錠されたままだったし。自殺じゃなかったら密室ってことになってしまう」

 若い刑事は肩を竦めてみせた。そうして彼はメモ帳に何かを書きこむ。年配の刑事は視線をソファーに落としたまま呟いた。

 「目を開けて寝言をぬかすな。俺はこのヤマをお前が洟垂れだった時から追ってるんだ」

 若い刑事は顔を上げた。眉間に皺が寄っている。

 「何か仰いましたか?」

 中年の刑事は頭を振った。

 視線を窓に向けたその顔には苦虫を噛み潰すような表情が浮かんでいた。が、それも一瞬の出来事だった。上職にあたる刑事は踵を返すと、玄関の方へ向かっていった。

 「もう一回辺りを洗い直すんだ」

 若い刑事は部屋を出て行こうとする刑事を見てうろたえた。

 「でも、聴取はあらかた済んでいるんですよ?」

 「もう一度だ。やり直せ」

 部下は苛立ちを隠しきれない溜息をつきながら手帳を背広の内ポケットにしまうと、上司を追い越して部屋を出て行った。巡羅警官を捕まえ指示を出す大きな声が廊下から聞こえていた。

 空室になっているはずの部屋に残された家具と死体。

 それが一体どこから現れたか、このアパートの管理人ですら分からないといった始末だった。その男女についてもどこから出てきたのか、どこの誰だったのかを知っている人間はこの界隈には居ないときている。ただ、この風変わりな殺人事件はいつもこの部屋で起こる。事件は必ず忘れた頃にやってきた。そして、真相は必ず迷宮入りする。被害者の身元が特定できないからだ。更に言えば、その部屋はもう随分と長い間、借り手のつかない空き家になっていた。

 忘れた頃にやってくる事件に終止符を打てるかどうか、それさえその刑事には分からないままであった。刑事は溜息を残し、ドアノブを後ろ手に引いた。そして玄関の扉は閉められた。


 …えらく長々とやってたな。一体誰が通報したんだ?

 まぁいい。俺は見つからなかった。これで俺の生活も元に戻る。煩わしい奴も消えたし、暫くはまた暇になるはずだ。あぁ夜が来る。また記憶が遠ざかっていく。

 俺は一体いつまでこんな一日を繰り返せばいいだろう?

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