8.my little lady
あの、聞いていた歳よりもやけに幼く映る女の子と出会ったのは五年前。
持ち物は、緑色の巾着袋ただ一つ。
腰まで伸びた長い髪は艶やかで、ちまちまとした身体にふわりとかかっている。
小さなパーツの中でくりくりとした瞳の大きさが余計に際立つ。
愛らしい造りの顔は――しかしいつも仏頂面。
いくら呼んでも……口を開こうとしなかった。
「おら、ちびっこ。食え」
「…………」
大きな瞳が睨むように俺の顔を見上げると
しばらくして出されたものに視線を落とし、素直に食べ始める。
「…………」
うんともすんとも言わない。
まぁ、これでもよくなった方だ。
はじめは……それこそ目を合わそうとすらしなかった。
それに比べて今では、返事の代わりに、その垂れ目がちの大きな瞳が……そこに友好的な光が在るとはとても言えないが……俺を見上げる。
……まぁ。それも仕方のない事だろう。
新たに生活を始めた先は、以前に女の子が住んでいたという立派な家ではなく、小さなボロアパートの一室。決して片付いているとはいえない部屋で、しかも見知らぬ男と二人だけだ。
半年程過ごしたという孤児院からコイツを連れ出したのは、つい数日前の話。
このガキンチョにしてみれば……突然現れてここまで連れてきた初対面の俺は訳のわからん怪しい野郎なのだろう。
もしかしたら……いや、十中八九。俺はコイツに嫌われている。自信すらある。
ガキの扱い方なんざ知らないからな。目つきも悪いし。当然といえば、当然の事なのかもしれない。
カチャカチャと食器の重なる音が響く。
本当におまえは人間なのか、人形かなんかじゃないのか……そう疑いたくなる程に小さな手で不器用にスプーンを操り、ようやく皿の上の料理をぺろりと平らげた女の子は椅子からぴょんと飛び降りた。
たどたどしい足取りで台所に消えてゆく。恐らく食器を洗うつもりなのだろう。……椅子を引きずる音と、やがて流水の音が続く。
と。
しばらくして盛大な破壊音が耳を劈いた。
引き取ってから……毎夜毎夜続く光景だ。
多分、ここから見ている俺の気配にも気づいていない。
六歳のガキンチョが泣きもせずに。ただ賢明に。
割れた皿の欠片を一つ一つ拾っている小さな背中が……なんだかとても痛そうだった。
シンクを打つ流水の音。
その下で、せっせと動く小さな肩が一つ。
狭いはずの台所が、何故か随分と広く感じた。
あんな風になる――それだけの事があったのだ。
あの女の子はもう喋らないんじゃないかって。引き取る事を決めた日、孤児院のシスター達はそんな事を漏らしていた。
数日をともに過ごしてみて、その言葉どおり彼女はただの一言も口にしなかった。
まぁ、それならそれでいい。
後ろから小さな頭をわしわしと撫でてやると、女の子は驚いたように大きく瞳を見開いて俺を振り返ったが――
――やっぱりそれだけだった。
一瞬後にはいつもの仏頂面に戻って、無言で皿の欠片集めを再開していた。
そうなら、そうでいい。
無理せずとも。そのままでいいと思う。
いいのだが……。
……脳裏に掠れた"彼女"の笑い顔が浮かぶ。
"彼女"は笑い上戸というやつだった。
あんな風に、見ているこっちにも笑いが感染する程に。いつか、このガキンチョも笑っていたんだろうか。
そう考えると……正直少しだけ、そんな顔も見てみたいかもしれんとも思った。
だが、それが叶うのは、ずっとずっと遠い先の話だろうとも、思っていた。
――その時は確かに。
その女の子を……女の子が持つ強さを、俺は侮っていた。
明け方、再開したストーンハントから帰ってくると、廊下の弱々しい照明の下、淡いエメラルドのパジャマに身をつつんだ女の子が玄関の前の壁に背を預けて立っていた。
俺がドアを開けても、見向きもしない。ずっと俯いたままだ。
ずっと、起きていたんだろうか。
いや。もしかしたら引き取ったその日から……、否。
――あの悪夢の晩から眠っていなかったかもしれない。
「どーしたちびっこ。随分早起きだな」
「…………」
仏頂面に変わりがない事を横目で確認して、そのまま浴室に足を進める。とりあえず汗を流したかった。
……と。
くんっと、僅かに後ろに引っ張られる感触。
「…………あ?」
振り返ると、ジーンズを女の子が握っていた。
見上げる大きな瞳は、いつになく強く、
「…………」
女の子はジーンズを握ったまま歩き出した。
「……って、ちょっ、おま、何……っ」
「…………」
問答無用。と、その背中が語っている。
「…………?」
女の子が、ここまで意思を示すのは初めてだった。
っていうか、この数日間うんともすんとも言わなかったガキンチョだ。
予想外の展開に半ば呆気にとられながらも、引っ張られるままに俺は足を進める。
進むにつれて異臭が鼻をつくようになった。
「……なんだ、この臭い」
果たして、女の子が連れてきたのは悪臭際立つ……台所だった。
けたたましく働く換気扇。
いつも以上に散らかった流し台には、湯気の立つ…………スクランブルエッグ、らしきものが鎮座している。
というのも、このスクランブルエッグ。黄色の箇所よりも、真っ黒な部分が多い……というか、大半をしめているのだ。
立派に焦げている。
横に、原型を留めていない卵の殻だの中身だのが散乱していなければそれが"エッグ"なのか判別がつかない程の珍物体だった。
「…………」
ようやく俺のジーンズを解放した女の子。その大きな双眼が急かすように俺を見ている。
「…………あの、な」
「…………」
「……おまえ、が、作ったんだよ、な? この物体は」
「…………」
俺が引き攣った顔を向けると、途端に女の子はばつが悪そうに俯いた。
「…………」
改めて、皿の上の黒いほかほか珍物体に視線を移す。
……なんだろう。
どこか、奇妙に思った。
…………いや、それを言うなら目の前のこの物体をおいて奇妙万歳!なものも無いのだが、それとは別に。
こんなものをこんなちんまいガキンチョが一人で作ろうとしたなんて……いや、作り方を(一応)知っていた事にも驚いたが。
…………俺に、作った……んだよな。
……なんでだ?
確かに晩飯の後で、今日から毎夜『仕事に行く』事は伝えてあったのだが……。
「…………」
こんなもん作って。
俺の帰りを待ってたのか?
嫌いな野郎の帰りを?
ふと、視線を感じて振り向けば、女の子がじっと……窺うように俺を見ていた。
その目はただ一心に、無言で突っ立ったままの俺を責め続けている。
「…………っ わぁったわぁった、食えってんだろ……」
皿に向き直り、黒い物体(比較的マシだと思われる部分)を一撮み口の中に放り込む。
…………。
……どうもこうも。
味なんかしないではないか。
「……おい、ちびっこ。これ……」
思わずジト目で女の子を睨むと、
「…………ゃなぃ……」
聞こえてきた小さな音に――吃驚して目を引ん剥く。
「…………あ?」
随分間の抜けた声をあげてしまった。
「…………っ」
女の子は大きな瞳をさらに大きく見開いた。
睨むように、
「~ちびっこじゃない……っ」
……どこか、縋るように。
「…………おまえ」
初めて耳にした、搾り出すような声は――
「……リタル……」
――決して、"彼女"の声には似つかわない。
だが、どこか面影の残るその顔が、
精一杯の眼差しが――
「~リタルって、言うの……っ」
……気がつけばいつの間にか、大きな目に大粒の涙が溜まっていた。
それでも女の子は零そうとしない。
乱暴にぐいぐいとこすって、なおも俺を見上げる。
……そうだ。
喋らない。
笑わない。
…………でも。
「…………」
この散らかった台所。
味の無いスクランブルエッグ。
小さな小さな訴え。
いつもの仏頂面。
俺を見上げる強い視線ですら。
その存在、ひとつひとつが皆、女の子の精一杯の勇気、そのものだった。
「…………」
僅かに震える体。真っ赤な半べそ面。
コイツは、こんなに精一杯。現状を把握して、自分なりに対処しようとしていた。
コイツなりに。懸命に。
自分の居場所。自分の位置というものを見つけようとしていたんだ。
「……ったく」
思わず盛大に溜息を吐くと、
ビクっと女の子の肩が震えた。
今、ようやくわかった。
この女の子は、ガキンチョなくせして他人に甘える事をしない……甘えたがらない、相当な意地っ張りだ。
……そうだ。なんてったって"彼女"譲りなのだから。
「…………」
「……………………っ」
それは……理解したんだが。
もう少し……ガキはガキらしくわかりやすい態度で挑んで欲しかった。
よりにもよってそういう変な箇所を。……コイツは"彼女"からしっかりと受け継いだようだった。
「……くっ」
苦笑して、未だ訳も解らずにふるふると震えるその小さな頭に、黒い物体の乗っかった皿を乗っける。
と、ようやく女の子の険がとれた。
「……あんな」
「…………?」
頭の上の皿を両手で支え、キョトンと見上げる小さな顔を覗き込んで言ってやる。
「もうちっとマトモなモン作れるようになったら名前で呼んでやらぁ。ちびっこ」
ピシッと何かが固まったような音が響いた台所を俺は上機嫌で後にした。
浴室に入ると、またもやガッシャンという盛大な音が響いてくる。
もしかしたら、それはわざとだったのかもしれない――
「……ンだよ。おまえ、まだ続けてンのか。それ」
深夜。仕事に出る数十分前。
眠気覚ましにシャワーでも浴びるか、と足を進めた廊下で、ふいに物音が聞こえてそちらを振り返る。
キッチンで冷蔵庫の前に仁王立ちして牛乳を飲んでいた小さな女の子と目があった。
ちなみに彼女はすでに出る準備万端のようだった。
「あったり前でしょ。これ、あたしの日課。ノルマ。あんたが毎晩欠かさず泥棒に入るのと同じ」
「……泥棒、ねぇ」
……泥棒がノルマなら、俺がおまえを拾ったのもノルマの内って事になるんだが。いいんだろうか。
いつものようにからかおうかとも思ったが、それを口にしたが最後、烈火の如く怒った上に仕事中ずっと根に持たれそうだったので、代わりのネタでつっつく事にした。
「べっつにいいんじゃねぇか、ちびっこでも。つか、ちびっこはちびっこなりにいい事あんだろ。乗り物代が幼児料金でタダになるとか」
「~『ちびっこ』連発しない、幼児言うなっ!
……そう思うんならあんた、身長分けてよ。無駄にデカいんだから」
ブーっと頬を膨らます所はまだまだ幼い。
小さな顔に、垂れ目がちの大きなエメラルドの瞳。
黄緑色の髪は二つに分けて結い上げている。
身長は……あの頃と比べれば伸びてはいるが、未だ百三十一センチ。
そんな彼女はついこのあいだ十一歳になったばっかりだ。
五年前のあの無口な女の子の正体は……「意地っ張り」が服着て歩いてる。本当に、ただそれだけだった。
女の子の声を始めて耳にしたあの日。ガションと皿の割れた音がしてその後。
それまでの無口っぷりが嘘のように、シャワー浴びて寝て、起きた翌夕方にはもうべらべらと文句をぶーたれていた。
やれ「おまえのほうがまずい」だの。やれ「りょうりおしえろ」だの。やれ「じぶんもつれてけ」だの。
ちなみに女の子曰く、孤児院ではネコをかぶっていたらしい。
……さて。果たしてどこまで本当なんだかしらねぇが。
ちなみにその後、女の子は十数日の間にスクランブルエッグを完璧にマスターしてみせた。
卵の割り方から、味付け、火の通し加減まで。
思わず唸ってしまった俺に「ふふん」と得意げに鼻を鳴らした六歳の女の子は早速名前呼びを求めた。「ちびっこ」がどうしてもお気に召さないらしい。
意地っ張りな上、努力家で、それでいて恐ろしい程器用な彼女は、俺がつっつけばつっつくほど怒りをエネルギーに変換して何でも完璧にこなすまでに修得してしまう。それが面白くもあったが、……正直やりすぎた感も否めない。
今の彼女を見ていると、特にそう思う。
「…………なによ?」
腰に手を当てコップに残った牛乳を一気に飲み干した女の子は、俺を振り返った。
口の周りに牛乳で出来た白い髭が生えている。
「……なんでも。それよかリタル」
「何?」
見上げるエメラルドグリーンを覗き込む。
「ンな急いで成長すんなよ。
焦らなくてもどうせおまえ、将来美人だぜ」
「は? ~あ、あんた……い、一体何を…………!?」
「別に? 白い髭なんてこさえてるからさ」
ピシッと何かが固まったような音が響いた台所を俺は鼻歌交じりに後にした。
……そういや俺、こんな風によく"彼女"をからかってたっけなぁ。
浴室に入ると、ガッシャンという音が響いてくる。
もしかしたら、それはわざと……だったのか、そうでなかったか。