『「私なんてこんなもの」をやめた夜――節約OLが自分の欲望を仕事につなげるまで』
身の丈の外へ
雨がガラス窓を細かく叩いていた。路地裏の雑居ビルにあるバーでは、琥珀色のランプがカウンターを照らしている。カナは濡れた傘を壁際に立て、バッグから出した紙袋を足元へ押し込んだ。
「ねえ、妙。金持ちになるには、何をするのが一番早いと思う?」
妙はグラスを傾けた。カナは続ける。
「お金持ちと結婚するか、起業して当てるか、宝くじ。私はどれも無理だけど」
「どうして無理なの?」
「だって、私なんてこんなものだし。給料も普通。資格もない。実家も普通。身の丈で生きるしかないでしょ」
カナは笑ってみせた。足元の紙袋には、値下げされていた靴が入っている。今月はすでにカードの支払いが苦しい。それでも、履き古した靴で職場へ行くのが嫌だった。
「それ、誰が決めたの?」
妙が尋ねた。
「誰って……私?」
「本当に欲しいものを、あなたは自分で決めたことがある?」
カナはグラスの水滴を指でぬぐった。
「欲しいものならあるよ。でも、欲しがったって仕方ないもの。日当たりのいい部屋に住みたい。仕事帰りに、値札を見ずに魚を買いたい。年に一度くらい、旅行にも行きたい。でも、そんなの私にはぜいたくでしょ」
妙はすぐには答えなかった。店の奥で、食器が重なる音がした。
「それを欲しいと思うことと、今すぐ買うことは別よ。欲望は浪費の言い訳じゃない。自分が何を目指したいかを知る手がかりにもなる」
「欲しいものを考えたら、余計つらくなりそう」
「考えないまま節約しても、どこへ向かっているのか分からないでしょう」
妙はナプキンを一枚引き寄せ、カナの前に置いた。
「日当たりのいい部屋に住むには、いくら必要? 旅行に行くなら、どこへ行きたい? 今の仕事を続けて届くのか、転職したほうが近いのか。まず数字と選択肢を調べるの」
「そんな簡単に収入が増える?」
「簡単じゃないわ。私も最初の転職では失敗した。でも、今の会社の給料だけが自分の値段だと思い込むのはやめた」
妙は仕事の話をした。以前の彼女は、頼まれた仕事を断れず、終電近くまで残っていた。業務改善の提案をしても「女性には細かい作業が向いている」と片づけられ、昇給はほとんどなかった。
それから、同じ仕事にどんな求人があるのかを調べた。実績を整理し、面接を受け、業務改善の経験を評価する会社へ移った。給料はすぐに大きくは変わらなかったが、残業が減り、学ぶ時間ができたという。
「じゃあ、転職すればいいの?」
「あなたの場合は、まず自分が何をできるか書き出してみたら。会社で当たり前にやっていることが、別の場所では役に立つこともあるから」
カナは、職場の共有ファイルを整理したことを思い出した。毎月の請求書を照合し、入力間違いを減らす表を作った。上司からは「助かった」と言われたが、それを仕事の実績だと思ったことはなかった。
「それって、実績になるのかな」
「何を変えて、どれだけ手間やミスが減ったのか、説明できるようにしてみて。転職先を探すのもいいし、その作業を必要としている人がいるか調べるのもいい」
「副業とか?」
「選択肢の一つね。いきなり会社を辞めたり、大きなお金を借りたりする必要はない。小さく試して、続けられるか確かめるの。売上が立っても、経費を引けば手元に残る額は違う。その数字も見ていく」
カナはスマートフォンを取り出した。セールの広告が画面に表示されている。赤い文字の下で、残り時間が刻まれていた。
さっきまで、値引きの数字を見て「買わなければ損だ」と思っていた。けれど、靴が欲しかった理由は、安いからだけではない。古い靴で出勤する自分を見られたくなかった。新しい靴を買えば、その気持ちを一晩だけ忘れられると思っていた。
「私、今の仕事が嫌いなわけじゃない。でも、五年後も同じ給料で、同じ時間に帰れなくて、同じ部屋に住んでいるのは嫌だ」
「それが、あなたの欲望ね」
「そんなふうに言うと、ずいぶん大きく聞こえるね」
「大きくても小さくても、自分で認めるところからよ」
妙は、カナのスマートフォンをのぞき込まなかった。代わりに伝票を手に取り、自分の分を確認してからカウンターへ置いた。
「私も、最初から起業したわけじゃない。転職して、仕事のやり方を学んで、その経験を小さな副業にした。取引先が増えてから会社を作ったの。何年もかかったし、売上が増えても利益が同じだけ増えるわけじゃない」
「それでも、欲しかったものに近づいた?」
「近づいたわ。働き方も、住む場所も、自分で選べるものが増えた」
カナはセールのページを閉じた。バッグから手帳を出し、次のページを開く。明日の予定の下に、ペンを走らせた。
「職場で作った表を整理する。求人も調べる。あと、住みたい部屋の家賃を調べる」
「いいんじゃない?」
「靴は……今月の支払いを見てから決める」
妙はうなずいた。カナは手帳の文字を見直し、末尾に「日当たりのいい部屋」と書き足した。
雨はまだ窓を叩いていた。足元の紙袋はそのままだったが、カナの目は、もう値引きの数字を追っていなかった。明日、調べることが三つある。その先に何が待っているかは分からない。それでも、行き先を自分で決めるための文字が、手帳の中に並んでいた。




