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平民だから処刑ですか?では、裏組織の首領として王国ごと滅ぼします

作者: 百香スフレ
掲載日:2026/07/18

 ネア・フォン・ローゼンベルクが、ローゼンベルク公爵家に拾われたのは五歳の冬だった。


 王都の雪は汚れている。馬車の車輪に踏まれ、煤を含み、溶けかけた泥と混ざる。そんな雪の中に、ネアは薄い外套一枚で立っていた。


 もちろん、本当に行き場のない孤児だったわけではない。

 ネアは王国最大の裏組織、ネメシスの後継者だった。五歳にして、すでに毒の見分け方、短剣の握り方、泣き方の演技、相手の機嫌を取る言葉を叩き込まれていた。


 ローゼンベルク公爵家へ近づくことも任務だった。

 王国屈指の大貴族。その内部に入り込み、いずれ組織にとって都合よく利用する。そのために、ネアは門前で震える孤児を演じていた。


 扉が開く。

 現れたのは、アルベルト・フォン・ローゼンベルクだった。


 公爵本人が出てくるとは思っていなかった。普通は使用人が対応する。ネアはすぐに表情を作った。怯えた子供の顔。守られ慣れていない、けれど助けを求めるしかない顔。


 だが、アルベルトはネアの演技を測るような目で見なかった。


 彼は雪の上に膝をつき、ネアの冷えた手を両手で包んだ。


「寒かっただろう。お腹は空いていないかい?」


 ネアは返事に迷った。


 名前でも出自でも目的でもなく、最初に空腹を聞かれるとは思っていなかった。


「⋯⋯少し」

「そうか。では、まず温かいものを食べよう」


 その日、ネアはローゼンベルク公爵家に入った。


 公爵夫人は、優しい人だった。子を持てない体だと聞かされていたが、その事実を寂しさとして見せることはなかった。彼女はネアを見て、可哀想にとも、拾ってやるとも言わなかった。


「今日から、ここがあなたの家よ」


 ネアは、その言葉を信用しなかった。

 家とは、隠れ場所か、利用できる拠点のことだ。人が人を無条件に受け入れる場所ではない。そう教えられてきた。


 けれど、アルベルトと夫人はネアを道具として扱わなかった。

 食事の席で、ネアが五歳らしからぬ完璧な手つきでナイフとフォークを使えば、アルベルトは感心するよりも先に困った顔をした。


「ネア。パンくらい、好きにちぎって食べていいんだよ」

「好きに、ですか」

「そう。家では、少しくらい行儀が悪くても叱られない」


 ネアはパンを見下ろした。

 好きにする、という言葉が分からなかった。


 ネメシスでは、行動には必ず意味が必要だった。速く食べる。毒を警戒する。相手に隙を見せない。食事は任務を続けるための補給であり、楽しむものではない。


 ネアは少しだけパンをちぎった。

 アルベルトは満足そうに笑い、夫人は目元を押さえた。

 その意味も、ネアには分からなかった。


 ネアが六歳になった春、夫人は病で亡くなった。


 短い一年だった。


 たった一年。それでもネアにとって、その一年はそれまでの人生と同じ重さを持っていた。


 夫人は最期の日、寝台のそばにいたネアの手を握った。


「ネア。あなたは、私たちの自慢の娘よ」


 ネアは答えなかった。


 泣けばいいのか、微笑めばいいのか、感謝を伝えればいいのか、分からなかった。人を殺す手順なら知っている。人を眠らせる薬も知っている。けれど、死にゆく母に返す言葉は、誰も教えてくれなかった。


 夫人が亡くなった後も、ネアは泣かなかった。

 ただ、夫人が使っていた白いリボンを、何日も手放さなかった。


 その後、アルベルトは間を置かず再婚した。


 公爵家には後継ぎが必要だった。ネアは養女であり、しかも出自を表向き曖昧にしている。ローゼンベルク家を守るため、再婚は避けられなかった。


 新しい公爵夫人の名はマルグリット。

 賢く、現実的で、社交に長けた女性だった。ネアを虐げることはなかった。衣装も教育も食事も、令嬢として不足なく与えた。ただし、決して娘とは呼ばなかった。


「ネアさん」


 いつも、そう呼んだ。

 ネアもまた、マルグリットを母とは呼ばなかった。


「奥様」


 それで十分だった。


 七歳の終わり頃、妹のクラリスが生まれた。

 マルグリットの実の娘。アルベルトの血を引く、正真正銘のローゼンベルク公爵家令嬢。


 屋敷は祝福に包まれた。アルベルトはクラリスを大切にした。マルグリットはもちろん、我が子を深く愛した。

 ネアは赤子のクラリスを見下ろしながら、奇妙な感覚を覚えていた。


 嫉妬ではない。愛情でもない。

 ただ、アルベルトの娘なら守るべき対象なのだろうと考えた。


 クラリスは物心ついた時から、ネアを見て育った。

 勉強も、礼法も、舞踏も、社交も、ネアは何でもできた。父はネアを誇り、使用人はネアを信頼し、客人はネアを褒めた。


 クラリスも可愛らしい少女だった。明るく、甘え上手で、社交の場では愛らしい笑顔を作れた。だが、どれだけ褒められても、最後には必ず誰かが言う。


「ネア様は本当に素晴らしい令嬢でいらっしゃいますね」


 そのたびに、クラリスの笑顔は少しずつ歪んでいった。


 ネアが二十歳の時、第三王子セドリック・アルディシアとの婚約が決まった。


 王都はそれを当然のように受け入れた。

 ローゼンベルク公爵家の令嬢。完璧な教養と美貌を備え、王妃教育にも耐えうる知性を持つ女性。第三王子の婚約者として、ネア以上の候補はいなかった。


 セドリックは真面目な王子だった。

 恋を語る男ではない。甘い言葉を囁くこともない。だが、王族としての責任感は強く、法と秩序を何より重んじていた。


 彼はネアを愛してはいなかったが、婚約者としては高く評価していた。


「ローゼンベルク公爵令嬢。次の慈善事業の予算案だが、孤児院への配分が多すぎる」


 王宮の執務室で、セドリックは書類を机に置いた。


 ネアは向かいに座り、静かに目を通す。


「冬を越せない孤児院が三つあります。今削れば、春までに死者が出ます」

「感情論ではないか」

「数字です。去年の死亡者数、薬代、食料価格、寄付金の減少幅。すべて資料にまとめてあります」


 ネアは別の紙束を差し出した。セドリックはそれを読み、しばらく黙った。


「⋯⋯よく調べている」

「必要でしたので」

「君は優秀だ」

「ありがとうございます」


 その程度の会話だった。

 セドリックは一度もネアを名前で呼ばなかった。ローゼンベルク公爵令嬢、婚約者殿、君。そのどれかだった。


 ネアも気にしなかった。


 セドリックは家族ではない。恋人でもない。ただの婚約者であり、政治上の相手。それ以上でも以下でもなかった。


 一方で、十五歳になったクラリスは違った。

 彼女はセドリックに憧れていた。正確には、セドリック本人というよりも、第三王子の婚約者という立場に憧れていた。


 王宮の夜会で、クラリスは一度セドリックに話しかけたことがある。


「殿下、私も姉のように、いつか王宮のお役に立ちたいですわ」


 セドリックは少しだけ視線を向けた。


「勉学に励むといい」

「はい」


 クラリスは頬を染めた。

 それだけで、自分に可能性があると思った。


 ネアは少し離れた場所で、それを見ていた。違いますよ、と教える気にはならなかった。


 クラリスが何を望もうと、今のところアルベルトに害はない。ならば放っておけばいいと思っていた。


 転機は、古い書庫から始まった。


 マルグリットは公爵家の相続に関する書類を確認するため、普段は使われない奥の書庫に入った。そこで彼女は、封の甘い箱を見つけた。


 中には、二十年近く前の書類が残されていた。


 ネアが養女となった際の記録、平民街の孤児院に関する覚書、アルベルトの署名、初代公爵夫人の手紙。

 そして、王家に提出された系譜とは異なる記述。


 マルグリットは何度も読み返した。


 ネアは、初代公爵夫人とアルベルトの子ではなく、遠縁の貴族の子でもない、完全な平民の孤児だった。そんな恐ろしい事実が判明した。


 その夜、マルグリットはクラリスを自室へ呼んだ。


「落ち着いて聞きなさい」

「どうなさいましたの、お母様」

「ネアさんは、ローゼンベルク家の血を引いていないわ。それどころか、貴族ですらない。元は平民の孤児よ」


 クラリスは最初、意味が分からないという顔をした。

 やがて、その瞳に光が差した。


「お姉様が、平民⋯⋯?」

「声を落としなさい」

「では、お姉様は王子殿下の婚約者ではいられませんわね」


 マルグリットは眉をひそめた。


「これは家の危機よ。王家に知られれば、ローゼンベルク家そのものが疑われる。アルベルト様も無事では済まない⋯⋯。だからこそ、先にお知らせするべきです。私たちは王家を欺く側ではなく、忠誠を示す側に立つのです。⋯⋯アルベルト様には、その責任を取ってもらう形にはなるでしょうが⋯⋯」


 クラリスは胸の前で手を組んだ。


「うふふ。お姉様がいなくなれば、私が殿下の婚約者になれるかもしれません」

「クラリス。殿下はあなたを子供としか見ていないわ」

「今は、でしょう?」


 クラリスは笑った。


「私はローゼンベルク公爵の実の娘です。平民だったお姉様より、ずっと相応しいはずです」


 マルグリットは娘を見つめた。

 幼い考えだとは思った。けれど、娘の未来を守らなければならない一心で、その気持ちには何も言わなかった。

 アルベルトとネアを売り払うことになってでも、自分と娘だけは絶対に守らなければならないと決意していた。


 翌日、マルグリットとクラリスは王宮へ向かった。


 セドリックは二人から差し出された書類を、表情を変えずに読んだ。

 怒鳴りはしなかった。しかし、読み進めるほど、その目は冷たくなった。


「ローゼンベルク公爵は、この事実を知っていたのか」


 マルグリットは深く頭を下げた。


「はい。少なくとも、ネアさんが平民の孤児であったことは」

「なぜ今まで黙っていた」

「私自身、最近まで知らなかったのです。知った以上、王家へお知らせしないわけには参りません」


 クラリスも慌てて頭を下げる。


「私も、王家への忠誠を示したく⋯⋯!」


 セドリックはクラリスを一瞥した。

 その目に、女を見る色はなかった。


「よく知らせてくれた。下がれ」


 クラリスは少しだけ唇を噛んだ。

 もっと言葉をかけられると思っていたのだろう。だが、セドリックにとって彼女は証言者の一人でしかない。


 二人が退室した後、セドリックは書類を机に置いた。平民が王族の婚約者になるなど、あってはならない。

 たとえネアが優秀でも、美しくても、王家の隣に立つ資格は血統と法によって定められる。例外を認めれば、秩序が壊れる。

 そして、それを隠したアルベルトもまた、罪を負うべきだった。


 翌日、ネアとアルベルトは王宮へ呼び出された。


 大広間には、すでに多くの貴族が集められていた。王家の重臣、騎士団の上層部、宮廷貴族。好奇、侮蔑、警戒。視線の種類は様々だったが、歓迎の空気ではない。


 ネアは一目で理解した。これは確認の場ではない。

 処分を告げる場だ。


 アルベルトは隣で静かに立っていた。いつものように穏やかで、いつものように背筋が伸びている。


「ネア」

「はい、お父様」

「大丈夫だ」


 何が大丈夫なのか、ネアには分からなかった。

 セドリックが一段高い場所に立つ。


「ネア・フォン・ローゼンベルク。君の出生に関する重大な虚偽が明らかになった」


 広間がざわめいた。


 ネアは微笑みを崩さない。


「虚偽、でございますか」

「君はローゼンベルク家の血を引いていない。それどころか、貴族ですらない。元は平民の孤児である。間違いないな」


 ざわめきが大きくなる。ネアは静かに答えた。


「私は、アルベルト・フォン・ローゼンベルクの娘です」

「血筋の話をしている」

「私も、家族の話をしております」


 セドリックの眉がわずかに動いた。アルベルトが一歩前へ出る。


「殿下。ネアは私が迎えた娘です。この子に罪はありません。王家への説明に不足があった責は、すべて私にあります」

「公爵。あなたほどの方が、なぜこのような愚かなことを」

「愚かではありません」


 アルベルトは真っ直ぐにセドリックを見た。


「私はこの子を娘として愛した。ただ、それだけです」


 広間の空気が冷えた。

 セドリックはしばらくアルベルトを見ていた。尊敬していた相手を裁かなければならない。その迷いが一瞬だけ顔に出た。


 だが、彼は王子だった。


「王家の婚約に平民を紛れ込ませた罪は重い。ローゼンベルク公爵アルベルトを王家欺瞞の罪で拘束する。ネア・フォン・ローゼンベルクも同罪として拘束し、公開処刑に処す」


 兵士たちが動いた。

 ネアは抵抗しなかった。

 アルベルトの腕が掴まれる。広間の端では、マルグリットが青ざめた顔で立っていた。クラリスは母の陰に隠れながら、それでもネアから目を離せずにいる。


 ネアが処刑される。

 その事実に怯えながらも、クラリスの奥底には消しきれない期待があった。


 これで、お姉様はいなくなる。


 ネアは一度だけクラリスを見た。クラリスは慌てて目を逸らした。それだけで十分だった。


 アルベルトとネアは、別々の牢へ入れられた。


 石造りの地下牢は冷えていた。壁は湿り、灯りは少なく、遠くで水の落ちる音がする。王宮の華やかさとは正反対の場所だった。

 ネアは粗末な寝台に座り、両手にはめられた拘束具を見下ろしていた。


 逃げようと思えば逃げられる。

 牢の鍵は古い。見張りの交代時刻も把握している。廊下の奥にいる兵士の歩幅も、腰に下げた鍵束の位置も、呼吸の乱れも分かる。ネアが本気で動けば、この牢から出ることは難しくなかった。


 けれど、ネアは動かなかった。アルベルトがまだ王宮にいる。


 父を置いていくという選択肢は、ネアの中になかった。

 夜更け、鉄格子の向こうに足音が近づいた。


「ネア」


 その声で、ネアは顔を上げた。

 アルベルトだった。両手を拘束され、兵士に囲まれていたが、表情はいつもと変わらない。娘の部屋を訪ねた時のように、穏やかだった。


「お父様⋯⋯!」

「怪我はないかい」

「ありません」

「そうか。よかった」


 よかった、ではない。

 ネアはそう思ったが、言葉にはしなかった。


 アルベルトは鉄格子越しにネアを見つめた。


「ネア。私は、お前に謝らなければならない」

「なぜですか」

「私がお前を王族の婚約者にした。お前が望んだわけではないのに、私が、家のためだと判断した。結果として、お前を危険に晒した」

「違います」


 ネアは即座に否定した。


「私は、お父様の判断を恨んでいません」

「それでも、父親として守りきれなかった」


 アルベルトは少しだけ笑った。


「情けないな」


 ネアは鉄格子へ近づいた。


 指を伸ばせば、アルベルトの手に触れられる距離だった。


「お父様。私は————」


 言葉が続かない。


 助けます、と言えばいいのか。殺します、と言えばいいのか。王族も、貴族も、兵士も、この国にいる邪魔な者をすべて消せば、父を連れて出ることはできる。


 だが、それをアルベルトは望まない。

 ネアはそれを知っていた。アルベルトはネアの手に、拘束された指先をそっと重ねた。


「泣かなくていい」

「泣いていません」

「はは、そうかい」


 気が付けば、ネアは生まれて初めて、演技でない涙を流していた。父に触れられた瞬間、これまでの思い出が走馬灯のように一気に思い出されたからだ。

 アルベルトは、困ったように笑った。


「でも、悲しい時は悲しいと言っていいんだ。怒っている時は怒っていい。お前はいつも、全部自分の中にしまい込んでしまうから」


 ネアは黙っていた。


「ネア。お前は私の娘だ」

「はい」

「血など関係ない。誰が何と言おうと、それだけは変わらない」

「はい」


 言葉を返すたびに、喉の奥が痛んだ。

 アルベルトは兵士に急かされ、牢の前から離される。


 最後に彼は振り返った。


「生きなさい、ネア」


 ネアはその言葉に返事をしなかった。

 できなかった。


 翌日の夕刻、アルベルト・フォン・ローゼンベルクの処刑が行われた。


 王都中央広場には人が集められていた。王家を欺いた大罪人の処刑。その名目は、多くの民衆の好奇を引いた。ローゼンベルク公爵は民にも慕われていたが、王家の命令に逆らってまで声を上げる者はいない。


 処刑台の上で、アルベルトは背筋を伸ばしていた。


 見物人の中には、涙を浮かべる者もいた。だが、誰も助けない。誰も止めない。


 セドリックが布告を読み上げる。


「ローゼンベルク公爵アルベルトは、平民の娘を貴族の血筋と偽り、王家の婚約に差し出した。これは王家の秩序を揺るがす重大な欺瞞である」


 アルベルトは何も言わなかった。

 ネアは兵士に拘束され、少し離れた場所からその光景を見ていた。


 セドリックが彼女を見た。


「ネア・フォン・ローゼンベルク。君にも明日、同じ裁きが下される」


 ネアは答えなかった。


 彼女の視線は、父だけを見ていた。


 処刑人が斧を構える。アルベルトは最後に、ネアの方を向いた。穏やかな笑みだった。


「ネア」


 ざわめきの中でも、その声だけは不思議と届いた。


「お前は、私の自慢の娘だ」


 刃が落ちた。


 広場のどこかで悲鳴が上がった。ネアは瞬きをしなかった。

 悲しみはあった。怒りもあった。だが、それらは熱ではなく、氷のように胸の奥へ沈んでいった。


 父が死んだ。王国が殺した。

 その事実だけが、はっきりと残った。


 その夜、ネアは再び牢へ戻された。

 翌日、彼女自身も公開処刑されることになっていた。王家はこの件を一日で終わらせるつもりだった。平民が公爵令嬢を騙り、王族の婚約者にまでなった醜聞。長引かせれば王家の恥になる。


 ネアは牢の中で、父の形見を握っていた。


 古い懐中時計。

 アルベルトが以前、誕生日にくれたものだ。中には、幼いネアとアルベルト、そして初代公爵夫人の小さな肖像が入っている。


 牢の外で、見張りが眠り込んだ。————自然な眠りではない。廊下の奥から、靴音が一つ近づく。


「ネア様」


 鉄格子の向こうに立っていたのは、カイン——ネアがトップを務める闇組織、ネメシスのサブリーダー——だった。

 黒い外套をまとい、王宮兵の鍵束を指にかけている。いつも通り、表情は整っていた。だが、その目には抑え込んだ怒りがあった。


「遅くなりました」

「お父様は」


 カインは一瞬だけ沈黙した。


「⋯⋯間に合いませんでした」

「⋯⋯知っています」


 ネアの声は静かだった。ネアは処刑された父の姿を見た上で、助けが間に合わなかったカインに八つ当たりしているのだ。ネアは自分の大人気なさに自重的な笑いを浮かべた。


 カインは鍵を開け、牢の中へ入る。続いて、影のようにシオンが現れた。さらに廊下の奥にはクロードの姿もある。どこかでガイルが兵士を片づけ、ルシェルが逃走経路と処刑工作の手筈を整えているのだろう。全員、ネメシスの幹部たちだ。


 ネアは立ち上がった。


「処刑は明朝ですね」

「はい。ですが、処刑台に上がるのはネア様ではありません」


 クロード——ネメシスの諜報部門幹部——が軽い調子で言う。それは、今から無実の人間一人をネアの身代わりとして殺すというのに、あまりにも軽い物言いだった。


「王宮地下にいた女囚を一人、魔道具で偽装します。顔も髪も声も、遠目には区別がつきません。処刑後は遺体をすぐ焼却させる流れにしてあります」

「王家の記録は」

「改ざん済みです。ネア・フォン・ローゼンベルクは明日、民衆の前で確かに死にます」


 カインが外套を差し出した。


「今夜、あなたは死者になります」


 ネアは懐中時計を胸元にしまった。


「分かりました」


 シオン——暗殺部隊幹部——が拘束具を外す。金属が床に落ちる音は、布で受け止められて消えた。


 ネアは牢の外へ出た。

 そこにはもう、公爵令嬢の顔はなかった。


 王国最大の裏組織ネメシスの首領が、薄暗い王宮地下を歩いていた。


 逃走は静かに進んだ。

 見張りは眠っている。廊下の角に立つ兵士は、すでにガイル——武力部隊幹部——が気絶させていた。王宮の裏口にはルシェル——財務・物流部門幹部——が手配した馬車が待っている。

 馬車の紋章は王宮御用達の商会のものだった。誰も疑わない。


 馬車に乗り込む前、ネアは一度だけ王宮を見上げた。

 父を殺した場所であり、自分を明日殺したことにする場所。


「ネア様」


 カインが声をかけると、ネアは視線を戻した。


「行きましょう」


 翌朝、王都中央広場でネア・フォン・ローゼンベルクの処刑が行われた。

 処刑台に立つ女は、銀髪で、薄青の瞳を伏せていた。顔立ちはネアそのものに見える。民衆は遠巻きに見ているだけで、誰も疑わなかった。


 セドリックは硬い表情で宣告を読み上げた。


「ネア・フォン・ローゼンベルク。王家を欺き、平民の身で王族の婚約者となった罪により、処刑に処す」


 女は何も言わなかった。

 斧が振り下ろされ、首が落ちる。民衆の間にざわめきが広がった。


 セドリックは目を閉じた。


 これで終わった。王家の秩序は守られた。彼はそう信じた。


 その日の夜、王国の裏側では、別の扉が開いていた。


 王都地下深く、古い水路を抜けた先にある黒い広間。


 ネメシス本部。

 巨大な円卓の奥に、黒い椅子が置かれている。そこは首領だけが座る場所だった。


 ネアは黒い喪服に着替えていた。髪を結い、顔色を整え、父の懐中時計を胸元にしまっている。


 広間には五人の幹部が揃っていた。


 副首領カイン。武力部門幹部ガイル。諜報部門幹部クロード。暗殺部門幹部シオン。財務・物流部門幹部ルシェル。

 五人全員が膝をついた。


「ネア様。お帰りなさいませ」


 カインの声が広間に響く。ネアは黒い椅子に座った。


「ただいま」


 その一言で、五人の目がわずかに揺れた。

 ガイルが低く唸るように言った。


「命令を。俺はもう、我慢できねえ」


 クロードも笑っていなかった。


「王宮の情報は全部抜いてあります。王家の密書、貴族の不正、騎士団の補給線、どこからでも崩せます」


 ルシェルが静かに続ける。


「商会網はいつでも止められます。小麦、塩、薬草、馬、武具。王都は三日で悲鳴を上げます」


 シオンは何も言わない。ただ、ネアの命令を待っている。


 カインが深く頭を垂れた。


「ネア様。どうか、ご命令を」


 ネアはしばらく黙っていた。


 父の最後の言葉が耳に残っている。

 生きなさい。自慢の娘だ。その言葉を思い出しても、ネアの中に慈悲は生まれなかった。

 父は優しかった。だから殺された。ならば、自分は優しくならない。

 父はきっとこんなこと望んでいないだろう。だからどうした。自分の唯一愛する父を殺されて、黙っていられるような善人ではないのだ。


「ローゼンベルク家への不可侵命令を解除します」


 五人の空気が変わった。

 それは、ネアが長年守ってきた最後の境界だった。


「対象は、アルディシア王家。王宮中枢。公爵家を断罪した貴族。マルグリット・フォン・ローゼンベルク。クラリス・フォン・ローゼンベルク」


 ネアは淡々と告げた。


「セドリックは最後です」

「理由をお聞きしても?」


 カインが問う。


「自分の守った秩序が、何を壊したのか見せます」


 広間に沈黙が落ちる。

 やがて、カインが頭を下げた。


「御意」


 続いて、ガイル、クロード、シオン、ルシェルも頭を下げる。


「御意」


 ネアは父の懐中時計に指を触れた。


「王国を滅ぼします」


 誰も止めなかった。


 止める理由など、誰にもなかった。







 最初に消えたのは、マルグリットだった。


 アルベルトの葬儀は行われなかった。王家を欺いた罪人に、正式な弔いなど許されない。ローゼンベルク公爵家の屋敷には、王宮から派遣された兵士が出入りし、書類や財産の調査という名目で屋敷中を荒らしていた。


 マルグリットは応接室で震えていた。

 クラリスは隣の椅子に座り、何度もハンカチを握り直している。


「お母様⋯⋯本当に、私たちは助かるのよね?」

「ええ。私たちは王家に忠誠を示したのです。殿下もそう仰ったわ」

「でも、殿下は私に何も⋯⋯」

「今は混乱しているだけよ。ネアさんは死んだ。あの子がいなくなった以上、ローゼンベルク家の血を引く令嬢はあなたしかいない」


 マルグリットは自分に言い聞かせるように言った。


 その時、部屋の扉が静かに開いた。入ってきたのは、黒衣の男だった。


 マルグリットは立ち上がる。


「誰です。ここはローゼンベルク公爵家です。無礼ですよ」

「存じております」


 黒衣の男————カインは丁寧に一礼した。


「だから参りました」


 その背後から、ネアが姿を見せた。

 黒い喪服。整えられた銀の髪。薄青の瞳。マルグリットの顔から血の気が引いた。


「そんな⋯⋯!あなたは⋯⋯処刑されたはず⋯⋯!」

「ええ。王国では、そういうことになっています」


 クラリスが小さく悲鳴を上げた。


「お姉様⋯⋯?」

「私は、あなたの姉ではありません」


 ネアは淡々と言った。

 マルグリットは椅子の背を掴む。


「ネアさん、待ちなさい。私は家を守ろうとしただけです。クラリスを守るために、母として当然のことを——」

「ええ」


 ネアは否定しなかった。


「だから私も、娘として当然のことをしに来ました」

「アルベルト様は、こんなことを望まないわ!」


 その名を聞いた瞬間、ネアの目がわずかに細くなった。


「お父様の名前を、あなたが口にしないでください」


 マルグリットは息を呑んだ。


「私は⋯⋯私は悪くない。王家に逆らえるわけがなかった。ネアさん、あなたも分かるでしょう。私は現実を選んだだけなの」

「分かります」


 ネアは静かに頷く。


「あなたは、私とお父様を切り捨てた。自分と娘を守るために」

「そうよ。母親なら当然でしょう!」

「では、私があなたを切り捨てることも当然です」


 ネアは振り返らなかった。


「シオン」

「御意」


 影が動いた。

 マルグリットの声は、それ以上続かなかった。


 マルグリットの頭が地面に転がり、その虚ろな目がクラリスの目と合う。クラリスは椅子から転げ落ち、床を這うように後ずさった。


「いや⋯⋯いや⋯⋯お母様⋯⋯!」


 ネアはクラリスを見下ろした。


「次はあなたです」

「お願い、お姉様!私は悪くないの!お母様が勝手に王家へ密告したのよ!私は止めたのに!」

「嘘はやめなさい。お父様が処刑されると気付いていながら、あなたは自分の欲望を優先した」


 クラリスは泣きながら首を振った。


「止められなかったの!怖かったの!私だって、どうすればいいか分からなくて⋯⋯!」

「私はもっと怖かった」


 ネアの声は冷たかった。


「でも、お父様を助けたかった」

「ごめんなさい!ごめんなさい、お姉様!私、王子妃になんてならなくていい!もう何も欲しがらないから!」

「欲しがったものが違いましたね」


 ネアは言った。


「あなたが欲しかったのは、王子の隣の席。私が守りたかったのは、お父様でした」


 クラリスは言葉を失った。

 ネアは短く告げる。


「ガイル」

「ああ」


 ガイルが前に出た。


 クラリスは最後まで命乞いをしていた。

 その声も、すぐに消えた。ネアは二人の亡骸を見なかった。アルベルトが愛した家族として、最後の慈悲で一思いに殺しただけ、二人は幸せだっただろう。


「カイン」

「はい」

「二人の首を、セドリックへ」


 カインは一瞬だけ目を伏せ、それから深く頭を下げた。


「御意」


 その夜、王宮に箱が届いた。

 宛名はセドリック・アルディシア。


 箱を開けたセドリックは、そこに入っていたものを見て息を止めた。

 マルグリットとクラリス。

 二人の首が、恐怖の表情を残したまま収められていた。


 兵士たちは悲鳴を上げ、文官は腰を抜かした。

 セドリックだけは、しばらく動かなかった。


 箱の底には、一枚の紙が入っている。


『次は、断罪に賛同した者たちです』


 差出人の名はなかった。

 だが、その日から王宮は死の気配に包まれた。


 アルベルトの処刑を進言した宰相は、翌朝、自室で冷たくなっていた。


 ネアを「血の穢れ」と嘲った侯爵は、護衛に囲まれて眠ったはずの屋敷から姿を消し、昼には王宮の門前に遺体となって戻された。


 処刑命令書へ署名した文官たちは、一人ずつ消えた。


 断罪の日に笑っていた貴族たちは、誰も笑わなくなった。


 扉を閉ざしても無駄だった。

 護衛を増やしても無駄だった。

 王都から逃げようとした者は、街道で見つかった。

 屋敷に隠れた者は、寝室で見つかった。

 教会へ逃げ込んだ者は、懺悔室で見つかった。


 誰も犯人を見ていない。

 誰も足音を聞いていない。


 ただ、標的だけが確実に死んでいく。やがて、王族にも刃が届いた。


 第一王子は、朝食の席に現れなかった。

 第二王子は、騎士団の護衛を連れていたにもかかわらず、馬車の中で息絶えていた。

 王妃は祈りの間で倒れていた。

 国王は玉座に座ったまま、二度と目を開けなかった。


 王宮は混乱した。

 誰もが疑心暗鬼に陥り、味方を疑い、部屋に閉じこもった。だが、閉じた扉の内側にいても安全ではないことを、彼らはすでに知っていた。


 セドリックだけが生かされていた。

 彼は何重もの護衛を置き、玉座の間に留まった。


 剣を手放さず、眠らなかった。

 それでも、夜が深くなるにつれて、広間から一人、また一人と護衛が消えていく。悲鳴はなく、争う音もない。

 気づけば、残っている兵士の数が減っている。


「誰だ」


 セドリックは剣を構えた。


「誰がいる!」


 返事はない。


 やがて、玉座の間の扉が開いた。

 入ってきたのは黒いドレスの女だった。その後ろに、五人の男が続く。

 セドリックは女を見て、目を見開いた。


「⋯⋯馬鹿な」


 剣先が揺れる。


「お前は、死んだはずだ」

「王国では、そういうことになっています」


 ネアはゆっくりと歩いてくる。


 セドリックは数歩後ずさった。


「ネア⋯⋯!」

「初めて名前を呼びましたね、殿下」

「処刑されたのは⋯⋯」

「私ではありません。すみません、私も代わりに殺された方の名前を知らないのです。興味が無かったもので」


 セドリックは顔を歪めた。


 偽装処刑、王宮への侵入に貴族たちの暗殺。極めつけは王族の死。すべてが一つにつながっていく。


「まさか⋯⋯ネメシス⋯⋯!ただの噂では無かった、ということか⋯⋯!」


 ネアは立ち止まった。


「はい」


 薄青の瞳が、セドリックを見据える。


「王国最大の裏組織ネメシス。その現統括が、この私です」


 セドリックは息を呑んだ。


「そんなものが⋯⋯なぜ、ローゼンベルク家に⋯⋯!」

「最初は任務でした。けれど、お父様が私を娘にしてくださいました」

「アルベルト公は、知っていたのか」

「知りません。お父様は最後まで、私を普通の娘だと思っていました」


 セドリックは声を荒げた。


「ならば、なおさらだ!君は王家を欺いた!裏組織の統括が王族の婚約者など、許されるはずがない!」

「ええ」


 ネアは頷いた。


「私は元平民で、裏組織の人間で、碌な人間では無いでしょう」

「そ、そうだ!分かっているじゃないか!君がしていることは、ただの逆恨みだ!」

「逆恨みで結構です」


 静かな声だった。


「あなたは、お父様を殺しました」


 セドリックは言葉を失った。


「私は、王国を滅ぼすつもりなどありませんでした。ネメシスにも、ローゼンベルク家には手を出すなと命じていました。お父様が生きている限り、私はこの国を壊さなかった」


 ネアは一歩進む。


「この国は、お父様のおかげで生きていたのです」

「私は、秩序と血統を守っただけだ⋯⋯っ!」

「そうですね」


 ネアは否定しない。


「あなたは正しさを守ったのでしょう」

「ならば——」

「私は父を守りたかった」


 セドリックの顔が歪む。


「アルベルト公は⋯⋯」

「お父様です」


 ネアの声が、初めて少しだけ低くなった。


「あなたが守ったものは、お父様を殺しました。ならば私は、それら全てを巻き込んで、あなたを殺します」


 セドリックは剣を構えた。


「私は王族だ!」

「もう王族はあなたしか残っていません」

「私は、王国の秩序を————」

「もう王国はありません」


 ネアの後ろで、クロードが肩をすくめる。


「王家派の貴族は全員いなくなりました。王宮の文官も、騎士団上層部も、もう殿下の命令では動きませんよ」


 ルシェルが穏やかに続ける。


「王都の商会は、今朝から新しい契約先を探しています。王家と結ぶ者はいません」


 ガイルが大剣を担ぐ。


「護衛もいねえ。逃げ道もねえ」


 シオンは何も言わず、ただ背後の扉を塞いでいた。


 カインが一礼する。


「これが、ネメシスです」


 セドリックは笑った。


 乾いた笑いだった。


「最初から、勝ち目などなかったのか⋯⋯」

「はい」


 ネアは答えた。


「あなたが、お父様を処刑した日から」


 セドリックは剣を握り直し、ネアへ向かって踏み込んだ。


 その刃は届かなかった。

 カインが受け止め、ガイルが弾き、シオンが喉元に刃を添える。


 セドリックは動きを止めた。


「最後に、一つだけ聞かせろ」

「何でしょう」

「アルベルト公は⋯⋯幸せだったのか」


 ネアは少しだけ瞬きをした。


 答えは決まっていた。


「ええ」


 ネアは静かに言う。


「私という娘がいましたから」


 セドリックは目を伏せた。


「そうか」


 それ以上、言葉はなかった。


 ネアはシオンへ視線を向ける。


「終わらせなさい」

「御意」


 刃が動いた。

 第三王子セドリック・アルディシアは、玉座の前で崩れ落ちた。


 こうして、アルディシア王家は終わった。


 数日後。


 ネアはローゼンベルク家の墓地を訪れていた。

 アルベルトの墓と、初代公爵夫人の墓。


 二つの墓石の前に、白い花を置く。


「終わりました」


 ネアはそれだけ告げた。

 謝罪はしなかった。許しを乞うこともしなかった。


 父が望んだ娘になれなかったことは分かっている。

 それでも、父を奪った者たちは全て消した。

 それが、今のネアにできる唯一の弔いだった。


 少し離れた場所で、五人の幹部が待っている。

 カインが一歩前へ出た。


「ネア様。お帰りになりましょう」


 ネアは墓石を見つめたまま、しばらく黙っていた。


 やがて、ゆっくりと振り返る。


「ええ」


 彼女にはもう、アルベルトも初代公爵夫人もいない。


 けれど、帰る場所は残っている。


 ネアは五人の幹部と共に歩き出した。


 王国を滅ぼした悪の令嬢。王国最大の裏組織ネメシスの首領。そして、アルベルト・フォン・ローゼンベルクの娘。


 それが、ネア・フォン・ローゼンベルクだった。

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― 新着の感想 ―
クライムヒーローだなぁ あ、ヒロインか でもかっこよすぎてヒーローの方が相応しい気がする マルグリットとクラリスが余計な事しなきゃ王国も滅びなかったのにね あと王子は頭硬すぎ 結局国も秩序も血筋も守れ…
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