平民だから処刑ですか?では、裏組織の首領として王国ごと滅ぼします
ネア・フォン・ローゼンベルクが、ローゼンベルク公爵家に拾われたのは五歳の冬だった。
王都の雪は汚れている。馬車の車輪に踏まれ、煤を含み、溶けかけた泥と混ざる。そんな雪の中に、ネアは薄い外套一枚で立っていた。
もちろん、本当に行き場のない孤児だったわけではない。
ネアは王国最大の裏組織、ネメシスの後継者だった。五歳にして、すでに毒の見分け方、短剣の握り方、泣き方の演技、相手の機嫌を取る言葉を叩き込まれていた。
ローゼンベルク公爵家へ近づくことも任務だった。
王国屈指の大貴族。その内部に入り込み、いずれ組織にとって都合よく利用する。そのために、ネアは門前で震える孤児を演じていた。
扉が開く。
現れたのは、アルベルト・フォン・ローゼンベルクだった。
公爵本人が出てくるとは思っていなかった。普通は使用人が対応する。ネアはすぐに表情を作った。怯えた子供の顔。守られ慣れていない、けれど助けを求めるしかない顔。
だが、アルベルトはネアの演技を測るような目で見なかった。
彼は雪の上に膝をつき、ネアの冷えた手を両手で包んだ。
「寒かっただろう。お腹は空いていないかい?」
ネアは返事に迷った。
名前でも出自でも目的でもなく、最初に空腹を聞かれるとは思っていなかった。
「⋯⋯少し」
「そうか。では、まず温かいものを食べよう」
その日、ネアはローゼンベルク公爵家に入った。
公爵夫人は、優しい人だった。子を持てない体だと聞かされていたが、その事実を寂しさとして見せることはなかった。彼女はネアを見て、可哀想にとも、拾ってやるとも言わなかった。
「今日から、ここがあなたの家よ」
ネアは、その言葉を信用しなかった。
家とは、隠れ場所か、利用できる拠点のことだ。人が人を無条件に受け入れる場所ではない。そう教えられてきた。
けれど、アルベルトと夫人はネアを道具として扱わなかった。
食事の席で、ネアが五歳らしからぬ完璧な手つきでナイフとフォークを使えば、アルベルトは感心するよりも先に困った顔をした。
「ネア。パンくらい、好きにちぎって食べていいんだよ」
「好きに、ですか」
「そう。家では、少しくらい行儀が悪くても叱られない」
ネアはパンを見下ろした。
好きにする、という言葉が分からなかった。
ネメシスでは、行動には必ず意味が必要だった。速く食べる。毒を警戒する。相手に隙を見せない。食事は任務を続けるための補給であり、楽しむものではない。
ネアは少しだけパンをちぎった。
アルベルトは満足そうに笑い、夫人は目元を押さえた。
その意味も、ネアには分からなかった。
ネアが六歳になった春、夫人は病で亡くなった。
短い一年だった。
たった一年。それでもネアにとって、その一年はそれまでの人生と同じ重さを持っていた。
夫人は最期の日、寝台のそばにいたネアの手を握った。
「ネア。あなたは、私たちの自慢の娘よ」
ネアは答えなかった。
泣けばいいのか、微笑めばいいのか、感謝を伝えればいいのか、分からなかった。人を殺す手順なら知っている。人を眠らせる薬も知っている。けれど、死にゆく母に返す言葉は、誰も教えてくれなかった。
夫人が亡くなった後も、ネアは泣かなかった。
ただ、夫人が使っていた白いリボンを、何日も手放さなかった。
その後、アルベルトは間を置かず再婚した。
公爵家には後継ぎが必要だった。ネアは養女であり、しかも出自を表向き曖昧にしている。ローゼンベルク家を守るため、再婚は避けられなかった。
新しい公爵夫人の名はマルグリット。
賢く、現実的で、社交に長けた女性だった。ネアを虐げることはなかった。衣装も教育も食事も、令嬢として不足なく与えた。ただし、決して娘とは呼ばなかった。
「ネアさん」
いつも、そう呼んだ。
ネアもまた、マルグリットを母とは呼ばなかった。
「奥様」
それで十分だった。
七歳の終わり頃、妹のクラリスが生まれた。
マルグリットの実の娘。アルベルトの血を引く、正真正銘のローゼンベルク公爵家令嬢。
屋敷は祝福に包まれた。アルベルトはクラリスを大切にした。マルグリットはもちろん、我が子を深く愛した。
ネアは赤子のクラリスを見下ろしながら、奇妙な感覚を覚えていた。
嫉妬ではない。愛情でもない。
ただ、アルベルトの娘なら守るべき対象なのだろうと考えた。
クラリスは物心ついた時から、ネアを見て育った。
勉強も、礼法も、舞踏も、社交も、ネアは何でもできた。父はネアを誇り、使用人はネアを信頼し、客人はネアを褒めた。
クラリスも可愛らしい少女だった。明るく、甘え上手で、社交の場では愛らしい笑顔を作れた。だが、どれだけ褒められても、最後には必ず誰かが言う。
「ネア様は本当に素晴らしい令嬢でいらっしゃいますね」
そのたびに、クラリスの笑顔は少しずつ歪んでいった。
ネアが二十歳の時、第三王子セドリック・アルディシアとの婚約が決まった。
王都はそれを当然のように受け入れた。
ローゼンベルク公爵家の令嬢。完璧な教養と美貌を備え、王妃教育にも耐えうる知性を持つ女性。第三王子の婚約者として、ネア以上の候補はいなかった。
セドリックは真面目な王子だった。
恋を語る男ではない。甘い言葉を囁くこともない。だが、王族としての責任感は強く、法と秩序を何より重んじていた。
彼はネアを愛してはいなかったが、婚約者としては高く評価していた。
「ローゼンベルク公爵令嬢。次の慈善事業の予算案だが、孤児院への配分が多すぎる」
王宮の執務室で、セドリックは書類を机に置いた。
ネアは向かいに座り、静かに目を通す。
「冬を越せない孤児院が三つあります。今削れば、春までに死者が出ます」
「感情論ではないか」
「数字です。去年の死亡者数、薬代、食料価格、寄付金の減少幅。すべて資料にまとめてあります」
ネアは別の紙束を差し出した。セドリックはそれを読み、しばらく黙った。
「⋯⋯よく調べている」
「必要でしたので」
「君は優秀だ」
「ありがとうございます」
その程度の会話だった。
セドリックは一度もネアを名前で呼ばなかった。ローゼンベルク公爵令嬢、婚約者殿、君。そのどれかだった。
ネアも気にしなかった。
セドリックは家族ではない。恋人でもない。ただの婚約者であり、政治上の相手。それ以上でも以下でもなかった。
一方で、十五歳になったクラリスは違った。
彼女はセドリックに憧れていた。正確には、セドリック本人というよりも、第三王子の婚約者という立場に憧れていた。
王宮の夜会で、クラリスは一度セドリックに話しかけたことがある。
「殿下、私も姉のように、いつか王宮のお役に立ちたいですわ」
セドリックは少しだけ視線を向けた。
「勉学に励むといい」
「はい」
クラリスは頬を染めた。
それだけで、自分に可能性があると思った。
ネアは少し離れた場所で、それを見ていた。違いますよ、と教える気にはならなかった。
クラリスが何を望もうと、今のところアルベルトに害はない。ならば放っておけばいいと思っていた。
転機は、古い書庫から始まった。
マルグリットは公爵家の相続に関する書類を確認するため、普段は使われない奥の書庫に入った。そこで彼女は、封の甘い箱を見つけた。
中には、二十年近く前の書類が残されていた。
ネアが養女となった際の記録、平民街の孤児院に関する覚書、アルベルトの署名、初代公爵夫人の手紙。
そして、王家に提出された系譜とは異なる記述。
マルグリットは何度も読み返した。
ネアは、初代公爵夫人とアルベルトの子ではなく、遠縁の貴族の子でもない、完全な平民の孤児だった。そんな恐ろしい事実が判明した。
その夜、マルグリットはクラリスを自室へ呼んだ。
「落ち着いて聞きなさい」
「どうなさいましたの、お母様」
「ネアさんは、ローゼンベルク家の血を引いていないわ。それどころか、貴族ですらない。元は平民の孤児よ」
クラリスは最初、意味が分からないという顔をした。
やがて、その瞳に光が差した。
「お姉様が、平民⋯⋯?」
「声を落としなさい」
「では、お姉様は王子殿下の婚約者ではいられませんわね」
マルグリットは眉をひそめた。
「これは家の危機よ。王家に知られれば、ローゼンベルク家そのものが疑われる。アルベルト様も無事では済まない⋯⋯。だからこそ、先にお知らせするべきです。私たちは王家を欺く側ではなく、忠誠を示す側に立つのです。⋯⋯アルベルト様には、その責任を取ってもらう形にはなるでしょうが⋯⋯」
クラリスは胸の前で手を組んだ。
「うふふ。お姉様がいなくなれば、私が殿下の婚約者になれるかもしれません」
「クラリス。殿下はあなたを子供としか見ていないわ」
「今は、でしょう?」
クラリスは笑った。
「私はローゼンベルク公爵の実の娘です。平民だったお姉様より、ずっと相応しいはずです」
マルグリットは娘を見つめた。
幼い考えだとは思った。けれど、娘の未来を守らなければならない一心で、その気持ちには何も言わなかった。
アルベルトとネアを売り払うことになってでも、自分と娘だけは絶対に守らなければならないと決意していた。
翌日、マルグリットとクラリスは王宮へ向かった。
セドリックは二人から差し出された書類を、表情を変えずに読んだ。
怒鳴りはしなかった。しかし、読み進めるほど、その目は冷たくなった。
「ローゼンベルク公爵は、この事実を知っていたのか」
マルグリットは深く頭を下げた。
「はい。少なくとも、ネアさんが平民の孤児であったことは」
「なぜ今まで黙っていた」
「私自身、最近まで知らなかったのです。知った以上、王家へお知らせしないわけには参りません」
クラリスも慌てて頭を下げる。
「私も、王家への忠誠を示したく⋯⋯!」
セドリックはクラリスを一瞥した。
その目に、女を見る色はなかった。
「よく知らせてくれた。下がれ」
クラリスは少しだけ唇を噛んだ。
もっと言葉をかけられると思っていたのだろう。だが、セドリックにとって彼女は証言者の一人でしかない。
二人が退室した後、セドリックは書類を机に置いた。平民が王族の婚約者になるなど、あってはならない。
たとえネアが優秀でも、美しくても、王家の隣に立つ資格は血統と法によって定められる。例外を認めれば、秩序が壊れる。
そして、それを隠したアルベルトもまた、罪を負うべきだった。
翌日、ネアとアルベルトは王宮へ呼び出された。
大広間には、すでに多くの貴族が集められていた。王家の重臣、騎士団の上層部、宮廷貴族。好奇、侮蔑、警戒。視線の種類は様々だったが、歓迎の空気ではない。
ネアは一目で理解した。これは確認の場ではない。
処分を告げる場だ。
アルベルトは隣で静かに立っていた。いつものように穏やかで、いつものように背筋が伸びている。
「ネア」
「はい、お父様」
「大丈夫だ」
何が大丈夫なのか、ネアには分からなかった。
セドリックが一段高い場所に立つ。
「ネア・フォン・ローゼンベルク。君の出生に関する重大な虚偽が明らかになった」
広間がざわめいた。
ネアは微笑みを崩さない。
「虚偽、でございますか」
「君はローゼンベルク家の血を引いていない。それどころか、貴族ですらない。元は平民の孤児である。間違いないな」
ざわめきが大きくなる。ネアは静かに答えた。
「私は、アルベルト・フォン・ローゼンベルクの娘です」
「血筋の話をしている」
「私も、家族の話をしております」
セドリックの眉がわずかに動いた。アルベルトが一歩前へ出る。
「殿下。ネアは私が迎えた娘です。この子に罪はありません。王家への説明に不足があった責は、すべて私にあります」
「公爵。あなたほどの方が、なぜこのような愚かなことを」
「愚かではありません」
アルベルトは真っ直ぐにセドリックを見た。
「私はこの子を娘として愛した。ただ、それだけです」
広間の空気が冷えた。
セドリックはしばらくアルベルトを見ていた。尊敬していた相手を裁かなければならない。その迷いが一瞬だけ顔に出た。
だが、彼は王子だった。
「王家の婚約に平民を紛れ込ませた罪は重い。ローゼンベルク公爵アルベルトを王家欺瞞の罪で拘束する。ネア・フォン・ローゼンベルクも同罪として拘束し、公開処刑に処す」
兵士たちが動いた。
ネアは抵抗しなかった。
アルベルトの腕が掴まれる。広間の端では、マルグリットが青ざめた顔で立っていた。クラリスは母の陰に隠れながら、それでもネアから目を離せずにいる。
ネアが処刑される。
その事実に怯えながらも、クラリスの奥底には消しきれない期待があった。
これで、お姉様はいなくなる。
ネアは一度だけクラリスを見た。クラリスは慌てて目を逸らした。それだけで十分だった。
アルベルトとネアは、別々の牢へ入れられた。
石造りの地下牢は冷えていた。壁は湿り、灯りは少なく、遠くで水の落ちる音がする。王宮の華やかさとは正反対の場所だった。
ネアは粗末な寝台に座り、両手にはめられた拘束具を見下ろしていた。
逃げようと思えば逃げられる。
牢の鍵は古い。見張りの交代時刻も把握している。廊下の奥にいる兵士の歩幅も、腰に下げた鍵束の位置も、呼吸の乱れも分かる。ネアが本気で動けば、この牢から出ることは難しくなかった。
けれど、ネアは動かなかった。アルベルトがまだ王宮にいる。
父を置いていくという選択肢は、ネアの中になかった。
夜更け、鉄格子の向こうに足音が近づいた。
「ネア」
その声で、ネアは顔を上げた。
アルベルトだった。両手を拘束され、兵士に囲まれていたが、表情はいつもと変わらない。娘の部屋を訪ねた時のように、穏やかだった。
「お父様⋯⋯!」
「怪我はないかい」
「ありません」
「そうか。よかった」
よかった、ではない。
ネアはそう思ったが、言葉にはしなかった。
アルベルトは鉄格子越しにネアを見つめた。
「ネア。私は、お前に謝らなければならない」
「なぜですか」
「私がお前を王族の婚約者にした。お前が望んだわけではないのに、私が、家のためだと判断した。結果として、お前を危険に晒した」
「違います」
ネアは即座に否定した。
「私は、お父様の判断を恨んでいません」
「それでも、父親として守りきれなかった」
アルベルトは少しだけ笑った。
「情けないな」
ネアは鉄格子へ近づいた。
指を伸ばせば、アルベルトの手に触れられる距離だった。
「お父様。私は————」
言葉が続かない。
助けます、と言えばいいのか。殺します、と言えばいいのか。王族も、貴族も、兵士も、この国にいる邪魔な者をすべて消せば、父を連れて出ることはできる。
だが、それをアルベルトは望まない。
ネアはそれを知っていた。アルベルトはネアの手に、拘束された指先をそっと重ねた。
「泣かなくていい」
「泣いていません」
「はは、そうかい」
気が付けば、ネアは生まれて初めて、演技でない涙を流していた。父に触れられた瞬間、これまでの思い出が走馬灯のように一気に思い出されたからだ。
アルベルトは、困ったように笑った。
「でも、悲しい時は悲しいと言っていいんだ。怒っている時は怒っていい。お前はいつも、全部自分の中にしまい込んでしまうから」
ネアは黙っていた。
「ネア。お前は私の娘だ」
「はい」
「血など関係ない。誰が何と言おうと、それだけは変わらない」
「はい」
言葉を返すたびに、喉の奥が痛んだ。
アルベルトは兵士に急かされ、牢の前から離される。
最後に彼は振り返った。
「生きなさい、ネア」
ネアはその言葉に返事をしなかった。
できなかった。
翌日の夕刻、アルベルト・フォン・ローゼンベルクの処刑が行われた。
王都中央広場には人が集められていた。王家を欺いた大罪人の処刑。その名目は、多くの民衆の好奇を引いた。ローゼンベルク公爵は民にも慕われていたが、王家の命令に逆らってまで声を上げる者はいない。
処刑台の上で、アルベルトは背筋を伸ばしていた。
見物人の中には、涙を浮かべる者もいた。だが、誰も助けない。誰も止めない。
セドリックが布告を読み上げる。
「ローゼンベルク公爵アルベルトは、平民の娘を貴族の血筋と偽り、王家の婚約に差し出した。これは王家の秩序を揺るがす重大な欺瞞である」
アルベルトは何も言わなかった。
ネアは兵士に拘束され、少し離れた場所からその光景を見ていた。
セドリックが彼女を見た。
「ネア・フォン・ローゼンベルク。君にも明日、同じ裁きが下される」
ネアは答えなかった。
彼女の視線は、父だけを見ていた。
処刑人が斧を構える。アルベルトは最後に、ネアの方を向いた。穏やかな笑みだった。
「ネア」
ざわめきの中でも、その声だけは不思議と届いた。
「お前は、私の自慢の娘だ」
刃が落ちた。
広場のどこかで悲鳴が上がった。ネアは瞬きをしなかった。
悲しみはあった。怒りもあった。だが、それらは熱ではなく、氷のように胸の奥へ沈んでいった。
父が死んだ。王国が殺した。
その事実だけが、はっきりと残った。
その夜、ネアは再び牢へ戻された。
翌日、彼女自身も公開処刑されることになっていた。王家はこの件を一日で終わらせるつもりだった。平民が公爵令嬢を騙り、王族の婚約者にまでなった醜聞。長引かせれば王家の恥になる。
ネアは牢の中で、父の形見を握っていた。
古い懐中時計。
アルベルトが以前、誕生日にくれたものだ。中には、幼いネアとアルベルト、そして初代公爵夫人の小さな肖像が入っている。
牢の外で、見張りが眠り込んだ。————自然な眠りではない。廊下の奥から、靴音が一つ近づく。
「ネア様」
鉄格子の向こうに立っていたのは、カイン——ネアがトップを務める闇組織、ネメシスのサブリーダー——だった。
黒い外套をまとい、王宮兵の鍵束を指にかけている。いつも通り、表情は整っていた。だが、その目には抑え込んだ怒りがあった。
「遅くなりました」
「お父様は」
カインは一瞬だけ沈黙した。
「⋯⋯間に合いませんでした」
「⋯⋯知っています」
ネアの声は静かだった。ネアは処刑された父の姿を見た上で、助けが間に合わなかったカインに八つ当たりしているのだ。ネアは自分の大人気なさに自重的な笑いを浮かべた。
カインは鍵を開け、牢の中へ入る。続いて、影のようにシオンが現れた。さらに廊下の奥にはクロードの姿もある。どこかでガイルが兵士を片づけ、ルシェルが逃走経路と処刑工作の手筈を整えているのだろう。全員、ネメシスの幹部たちだ。
ネアは立ち上がった。
「処刑は明朝ですね」
「はい。ですが、処刑台に上がるのはネア様ではありません」
クロード——ネメシスの諜報部門幹部——が軽い調子で言う。それは、今から無実の人間一人をネアの身代わりとして殺すというのに、あまりにも軽い物言いだった。
「王宮地下にいた女囚を一人、魔道具で偽装します。顔も髪も声も、遠目には区別がつきません。処刑後は遺体をすぐ焼却させる流れにしてあります」
「王家の記録は」
「改ざん済みです。ネア・フォン・ローゼンベルクは明日、民衆の前で確かに死にます」
カインが外套を差し出した。
「今夜、あなたは死者になります」
ネアは懐中時計を胸元にしまった。
「分かりました」
シオン——暗殺部隊幹部——が拘束具を外す。金属が床に落ちる音は、布で受け止められて消えた。
ネアは牢の外へ出た。
そこにはもう、公爵令嬢の顔はなかった。
王国最大の裏組織ネメシスの首領が、薄暗い王宮地下を歩いていた。
逃走は静かに進んだ。
見張りは眠っている。廊下の角に立つ兵士は、すでにガイル——武力部隊幹部——が気絶させていた。王宮の裏口にはルシェル——財務・物流部門幹部——が手配した馬車が待っている。
馬車の紋章は王宮御用達の商会のものだった。誰も疑わない。
馬車に乗り込む前、ネアは一度だけ王宮を見上げた。
父を殺した場所であり、自分を明日殺したことにする場所。
「ネア様」
カインが声をかけると、ネアは視線を戻した。
「行きましょう」
翌朝、王都中央広場でネア・フォン・ローゼンベルクの処刑が行われた。
処刑台に立つ女は、銀髪で、薄青の瞳を伏せていた。顔立ちはネアそのものに見える。民衆は遠巻きに見ているだけで、誰も疑わなかった。
セドリックは硬い表情で宣告を読み上げた。
「ネア・フォン・ローゼンベルク。王家を欺き、平民の身で王族の婚約者となった罪により、処刑に処す」
女は何も言わなかった。
斧が振り下ろされ、首が落ちる。民衆の間にざわめきが広がった。
セドリックは目を閉じた。
これで終わった。王家の秩序は守られた。彼はそう信じた。
その日の夜、王国の裏側では、別の扉が開いていた。
王都地下深く、古い水路を抜けた先にある黒い広間。
ネメシス本部。
巨大な円卓の奥に、黒い椅子が置かれている。そこは首領だけが座る場所だった。
ネアは黒い喪服に着替えていた。髪を結い、顔色を整え、父の懐中時計を胸元にしまっている。
広間には五人の幹部が揃っていた。
副首領カイン。武力部門幹部ガイル。諜報部門幹部クロード。暗殺部門幹部シオン。財務・物流部門幹部ルシェル。
五人全員が膝をついた。
「ネア様。お帰りなさいませ」
カインの声が広間に響く。ネアは黒い椅子に座った。
「ただいま」
その一言で、五人の目がわずかに揺れた。
ガイルが低く唸るように言った。
「命令を。俺はもう、我慢できねえ」
クロードも笑っていなかった。
「王宮の情報は全部抜いてあります。王家の密書、貴族の不正、騎士団の補給線、どこからでも崩せます」
ルシェルが静かに続ける。
「商会網はいつでも止められます。小麦、塩、薬草、馬、武具。王都は三日で悲鳴を上げます」
シオンは何も言わない。ただ、ネアの命令を待っている。
カインが深く頭を垂れた。
「ネア様。どうか、ご命令を」
ネアはしばらく黙っていた。
父の最後の言葉が耳に残っている。
生きなさい。自慢の娘だ。その言葉を思い出しても、ネアの中に慈悲は生まれなかった。
父は優しかった。だから殺された。ならば、自分は優しくならない。
父はきっとこんなこと望んでいないだろう。だからどうした。自分の唯一愛する父を殺されて、黙っていられるような善人ではないのだ。
「ローゼンベルク家への不可侵命令を解除します」
五人の空気が変わった。
それは、ネアが長年守ってきた最後の境界だった。
「対象は、アルディシア王家。王宮中枢。公爵家を断罪した貴族。マルグリット・フォン・ローゼンベルク。クラリス・フォン・ローゼンベルク」
ネアは淡々と告げた。
「セドリックは最後です」
「理由をお聞きしても?」
カインが問う。
「自分の守った秩序が、何を壊したのか見せます」
広間に沈黙が落ちる。
やがて、カインが頭を下げた。
「御意」
続いて、ガイル、クロード、シオン、ルシェルも頭を下げる。
「御意」
ネアは父の懐中時計に指を触れた。
「王国を滅ぼします」
誰も止めなかった。
止める理由など、誰にもなかった。
◆
最初に消えたのは、マルグリットだった。
アルベルトの葬儀は行われなかった。王家を欺いた罪人に、正式な弔いなど許されない。ローゼンベルク公爵家の屋敷には、王宮から派遣された兵士が出入りし、書類や財産の調査という名目で屋敷中を荒らしていた。
マルグリットは応接室で震えていた。
クラリスは隣の椅子に座り、何度もハンカチを握り直している。
「お母様⋯⋯本当に、私たちは助かるのよね?」
「ええ。私たちは王家に忠誠を示したのです。殿下もそう仰ったわ」
「でも、殿下は私に何も⋯⋯」
「今は混乱しているだけよ。ネアさんは死んだ。あの子がいなくなった以上、ローゼンベルク家の血を引く令嬢はあなたしかいない」
マルグリットは自分に言い聞かせるように言った。
その時、部屋の扉が静かに開いた。入ってきたのは、黒衣の男だった。
マルグリットは立ち上がる。
「誰です。ここはローゼンベルク公爵家です。無礼ですよ」
「存じております」
黒衣の男————カインは丁寧に一礼した。
「だから参りました」
その背後から、ネアが姿を見せた。
黒い喪服。整えられた銀の髪。薄青の瞳。マルグリットの顔から血の気が引いた。
「そんな⋯⋯!あなたは⋯⋯処刑されたはず⋯⋯!」
「ええ。王国では、そういうことになっています」
クラリスが小さく悲鳴を上げた。
「お姉様⋯⋯?」
「私は、あなたの姉ではありません」
ネアは淡々と言った。
マルグリットは椅子の背を掴む。
「ネアさん、待ちなさい。私は家を守ろうとしただけです。クラリスを守るために、母として当然のことを——」
「ええ」
ネアは否定しなかった。
「だから私も、娘として当然のことをしに来ました」
「アルベルト様は、こんなことを望まないわ!」
その名を聞いた瞬間、ネアの目がわずかに細くなった。
「お父様の名前を、あなたが口にしないでください」
マルグリットは息を呑んだ。
「私は⋯⋯私は悪くない。王家に逆らえるわけがなかった。ネアさん、あなたも分かるでしょう。私は現実を選んだだけなの」
「分かります」
ネアは静かに頷く。
「あなたは、私とお父様を切り捨てた。自分と娘を守るために」
「そうよ。母親なら当然でしょう!」
「では、私があなたを切り捨てることも当然です」
ネアは振り返らなかった。
「シオン」
「御意」
影が動いた。
マルグリットの声は、それ以上続かなかった。
マルグリットの頭が地面に転がり、その虚ろな目がクラリスの目と合う。クラリスは椅子から転げ落ち、床を這うように後ずさった。
「いや⋯⋯いや⋯⋯お母様⋯⋯!」
ネアはクラリスを見下ろした。
「次はあなたです」
「お願い、お姉様!私は悪くないの!お母様が勝手に王家へ密告したのよ!私は止めたのに!」
「嘘はやめなさい。お父様が処刑されると気付いていながら、あなたは自分の欲望を優先した」
クラリスは泣きながら首を振った。
「止められなかったの!怖かったの!私だって、どうすればいいか分からなくて⋯⋯!」
「私はもっと怖かった」
ネアの声は冷たかった。
「でも、お父様を助けたかった」
「ごめんなさい!ごめんなさい、お姉様!私、王子妃になんてならなくていい!もう何も欲しがらないから!」
「欲しがったものが違いましたね」
ネアは言った。
「あなたが欲しかったのは、王子の隣の席。私が守りたかったのは、お父様でした」
クラリスは言葉を失った。
ネアは短く告げる。
「ガイル」
「ああ」
ガイルが前に出た。
クラリスは最後まで命乞いをしていた。
その声も、すぐに消えた。ネアは二人の亡骸を見なかった。アルベルトが愛した家族として、最後の慈悲で一思いに殺しただけ、二人は幸せだっただろう。
「カイン」
「はい」
「二人の首を、セドリックへ」
カインは一瞬だけ目を伏せ、それから深く頭を下げた。
「御意」
その夜、王宮に箱が届いた。
宛名はセドリック・アルディシア。
箱を開けたセドリックは、そこに入っていたものを見て息を止めた。
マルグリットとクラリス。
二人の首が、恐怖の表情を残したまま収められていた。
兵士たちは悲鳴を上げ、文官は腰を抜かした。
セドリックだけは、しばらく動かなかった。
箱の底には、一枚の紙が入っている。
『次は、断罪に賛同した者たちです』
差出人の名はなかった。
だが、その日から王宮は死の気配に包まれた。
アルベルトの処刑を進言した宰相は、翌朝、自室で冷たくなっていた。
ネアを「血の穢れ」と嘲った侯爵は、護衛に囲まれて眠ったはずの屋敷から姿を消し、昼には王宮の門前に遺体となって戻された。
処刑命令書へ署名した文官たちは、一人ずつ消えた。
断罪の日に笑っていた貴族たちは、誰も笑わなくなった。
扉を閉ざしても無駄だった。
護衛を増やしても無駄だった。
王都から逃げようとした者は、街道で見つかった。
屋敷に隠れた者は、寝室で見つかった。
教会へ逃げ込んだ者は、懺悔室で見つかった。
誰も犯人を見ていない。
誰も足音を聞いていない。
ただ、標的だけが確実に死んでいく。やがて、王族にも刃が届いた。
第一王子は、朝食の席に現れなかった。
第二王子は、騎士団の護衛を連れていたにもかかわらず、馬車の中で息絶えていた。
王妃は祈りの間で倒れていた。
国王は玉座に座ったまま、二度と目を開けなかった。
王宮は混乱した。
誰もが疑心暗鬼に陥り、味方を疑い、部屋に閉じこもった。だが、閉じた扉の内側にいても安全ではないことを、彼らはすでに知っていた。
セドリックだけが生かされていた。
彼は何重もの護衛を置き、玉座の間に留まった。
剣を手放さず、眠らなかった。
それでも、夜が深くなるにつれて、広間から一人、また一人と護衛が消えていく。悲鳴はなく、争う音もない。
気づけば、残っている兵士の数が減っている。
「誰だ」
セドリックは剣を構えた。
「誰がいる!」
返事はない。
やがて、玉座の間の扉が開いた。
入ってきたのは黒いドレスの女だった。その後ろに、五人の男が続く。
セドリックは女を見て、目を見開いた。
「⋯⋯馬鹿な」
剣先が揺れる。
「お前は、死んだはずだ」
「王国では、そういうことになっています」
ネアはゆっくりと歩いてくる。
セドリックは数歩後ずさった。
「ネア⋯⋯!」
「初めて名前を呼びましたね、殿下」
「処刑されたのは⋯⋯」
「私ではありません。すみません、私も代わりに殺された方の名前を知らないのです。興味が無かったもので」
セドリックは顔を歪めた。
偽装処刑、王宮への侵入に貴族たちの暗殺。極めつけは王族の死。すべてが一つにつながっていく。
「まさか⋯⋯ネメシス⋯⋯!ただの噂では無かった、ということか⋯⋯!」
ネアは立ち止まった。
「はい」
薄青の瞳が、セドリックを見据える。
「王国最大の裏組織ネメシス。その現統括が、この私です」
セドリックは息を呑んだ。
「そんなものが⋯⋯なぜ、ローゼンベルク家に⋯⋯!」
「最初は任務でした。けれど、お父様が私を娘にしてくださいました」
「アルベルト公は、知っていたのか」
「知りません。お父様は最後まで、私を普通の娘だと思っていました」
セドリックは声を荒げた。
「ならば、なおさらだ!君は王家を欺いた!裏組織の統括が王族の婚約者など、許されるはずがない!」
「ええ」
ネアは頷いた。
「私は元平民で、裏組織の人間で、碌な人間では無いでしょう」
「そ、そうだ!分かっているじゃないか!君がしていることは、ただの逆恨みだ!」
「逆恨みで結構です」
静かな声だった。
「あなたは、お父様を殺しました」
セドリックは言葉を失った。
「私は、王国を滅ぼすつもりなどありませんでした。ネメシスにも、ローゼンベルク家には手を出すなと命じていました。お父様が生きている限り、私はこの国を壊さなかった」
ネアは一歩進む。
「この国は、お父様のおかげで生きていたのです」
「私は、秩序と血統を守っただけだ⋯⋯っ!」
「そうですね」
ネアは否定しない。
「あなたは正しさを守ったのでしょう」
「ならば——」
「私は父を守りたかった」
セドリックの顔が歪む。
「アルベルト公は⋯⋯」
「お父様です」
ネアの声が、初めて少しだけ低くなった。
「あなたが守ったものは、お父様を殺しました。ならば私は、それら全てを巻き込んで、あなたを殺します」
セドリックは剣を構えた。
「私は王族だ!」
「もう王族はあなたしか残っていません」
「私は、王国の秩序を————」
「もう王国はありません」
ネアの後ろで、クロードが肩をすくめる。
「王家派の貴族は全員いなくなりました。王宮の文官も、騎士団上層部も、もう殿下の命令では動きませんよ」
ルシェルが穏やかに続ける。
「王都の商会は、今朝から新しい契約先を探しています。王家と結ぶ者はいません」
ガイルが大剣を担ぐ。
「護衛もいねえ。逃げ道もねえ」
シオンは何も言わず、ただ背後の扉を塞いでいた。
カインが一礼する。
「これが、ネメシスです」
セドリックは笑った。
乾いた笑いだった。
「最初から、勝ち目などなかったのか⋯⋯」
「はい」
ネアは答えた。
「あなたが、お父様を処刑した日から」
セドリックは剣を握り直し、ネアへ向かって踏み込んだ。
その刃は届かなかった。
カインが受け止め、ガイルが弾き、シオンが喉元に刃を添える。
セドリックは動きを止めた。
「最後に、一つだけ聞かせろ」
「何でしょう」
「アルベルト公は⋯⋯幸せだったのか」
ネアは少しだけ瞬きをした。
答えは決まっていた。
「ええ」
ネアは静かに言う。
「私という娘がいましたから」
セドリックは目を伏せた。
「そうか」
それ以上、言葉はなかった。
ネアはシオンへ視線を向ける。
「終わらせなさい」
「御意」
刃が動いた。
第三王子セドリック・アルディシアは、玉座の前で崩れ落ちた。
こうして、アルディシア王家は終わった。
数日後。
ネアはローゼンベルク家の墓地を訪れていた。
アルベルトの墓と、初代公爵夫人の墓。
二つの墓石の前に、白い花を置く。
「終わりました」
ネアはそれだけ告げた。
謝罪はしなかった。許しを乞うこともしなかった。
父が望んだ娘になれなかったことは分かっている。
それでも、父を奪った者たちは全て消した。
それが、今のネアにできる唯一の弔いだった。
少し離れた場所で、五人の幹部が待っている。
カインが一歩前へ出た。
「ネア様。お帰りになりましょう」
ネアは墓石を見つめたまま、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと振り返る。
「ええ」
彼女にはもう、アルベルトも初代公爵夫人もいない。
けれど、帰る場所は残っている。
ネアは五人の幹部と共に歩き出した。
王国を滅ぼした悪の令嬢。王国最大の裏組織ネメシスの首領。そして、アルベルト・フォン・ローゼンベルクの娘。
それが、ネア・フォン・ローゼンベルクだった。
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