その9
(また濡れちゃう!)
目を瞑ったセシルだったが、被るであろう水はいつまで経っても来ない。
恐る恐る目蓋を開くと、オーディスが自分に覆い被さっていた。
彼が盾になってくれたのだ。
セシルは慌てて頭を下げる。
「わーっ!申し訳ありません、伯爵様っ!不注意でした!」
「気にするな。お前に水がかかっていなければ問題ない」
淡々とした声。
いつも通りの無表情。
だが、オーディスはびしょ濡れだ。
「で、でも…」
「こんなの着替えればいいだけの話だ。セシルが無事で良かった」
濡れた黒髪が額に張り付き、美しい顔立ちをかえって際立たせている。
ーー水も滴るいい男、という言葉を具現化したような姿。
それを見て、セシルは思わず言葉を失った。
突然のことに自分でも理由が分からず、視線を逸らそうとしても逸らせない。
セシルの視線に気付いたが、疎いオーディスはその意味を一切読み取れないまま、ジャケットの内側に手を入れた。
ごそ、と布が擦れる音。
取り出されたのは深紅の封蝋が押された一通の招待状だった。
「濡れていなくてよかった。これを渡しに来た」
「これは?」
「社交界の女傑、カヴァラリー公爵夫人がお茶会にお前を招待しているんだ」
「えっ…!わざわざありがとうございます!」
セシルは両手でそれを恭しく受け取り、再び深く頭を下げた。
その間にもオーディスの髪からは一滴、また一滴と水が落ちていく。
(…なんで、こんなに格好いいんだろう)
密かにときめくセシルと対照的に、オーディスは苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「…心して臨んだ方がいい」
「え?」
唐突なオーディスの言葉にセシルが首をこてんと不思議そうに傾げた。
オーディスはいつにも増して真剣な眼差し、まるで過去の戦場でも見ているかのように、庭園の遠くを見つめている。
「カヴァラリー公爵夫人は恐ろしい方だ…」
「えっ…。そ、そうなんですか?」
「まず、マナーに関して一切の妥協がない」
「ぴゃっ!」
セシルから小さく悲鳴が漏れる。
「食べ方・飲み方・順番・残し方。どれか一つでも間違えれば、笑顔のまま指摘される」
「え、えぇ…?」
「その笑顔が曲者だ。否定も怒号もない。ただ、『残念ですわ』の一言」
セシルは緊張からごくりと唾を飲んだ。
オーディスは静かに続ける。
「それで終わりだ」
「終わりって…?な、何がですか…?」
「社交界での評判」
「ぴゃっ!?」
セシルは思わず招待状を抱き締めた。
「更に恐ろしいのは会話だ。話題を振られ、答えに詰まった者は多い。曖昧な返答、浅い知識、場違いな冗談。彼女は全て覚えている」
「覚え…、られて…」
次の言葉を紡ごうとするオーディスの眉間に皺が寄った。
「適当にその場を凌いだとしても、次に会った時には『以前はそのように仰っていましたわね』と微笑まれる」
「ぴゃああっ…!」
完全に怯えたセシルは肩を竦めて震えている。
「そ、それってもう処刑じゃないですか…!」
「処刑ではない。もっと質が悪い」
オーディスは淡々としつつも、確信を持って言い切る。
「『自然に』社交界から居場所がなくなっている」
「ひぃっ…!」
「私の知人も出された焼き菓子を全て平らげただけで…」
「な、何がいけなかったんですかっ!それのっ!」
「さぁ…?だが、それ以降2度と舞踏会で見なかった」
「理不尽すぎますぅ…!」
セシルは半泣きになって、花壇の縁に後退る。
「お、俺、そんなところ行っちゃっても、大丈夫なんでしょうか…?」
オーディスはセシルを見下ろし、少し考える。
「…問題ない」
「ほ、本当ですか!?で、でも、俺まだ勉強中ですし…」
「心配するな、俺が同行する」
その一言はオーディスなりの最大限の庇護のつもりだった。
けれども、セシルは余計に青ざめる。
「そ、それって目立ってしまうのでは…!?」
「…え?」
「と、とにかく伯爵様はついてこないで下さいねっ!」
お茶会は始まる前から既に大騒ぎの予感しかしなかった。




