その8
結局、リズリー伯爵領での夜以降、オーディスとセシルの仲が進展することはなかった。
日中は馬車の軋む音と蹄の規則正しい響きだけが彼らの間に流れ、夜になれば宿場町に立ち寄って別々の部屋で睡眠を取る。
そうして10日ほどの時間をかけ、2人は無事にヴェルナー伯爵領へと辿り着いた。
到着してからの同居生活も同様だ。
同じ屋敷で暮らすことになったとはいえ、朝食と夕食のほんの僅かな時間に顔を合わせるのみ。
オーディスは領主としての職務に、セシルは伯爵夫人としての勉強にそれぞれ多忙なのだ。
ただ、セシルと廊下ですれ違う時、食卓で視線が合う時、オーディスの胸の奥が騒ぐ。
オーディスの恋心は未だに一方通行であった。
同居してから数日後。
書斎の机に向かいながら、オーディスはいつものように淡々と書類に目を通している。
その表情は相変わらず硬く、感情の揺れは外からは一切伺えない。
だが、この日は机の脇に控えるカイゼリンに向けられた視線に無言の催促のようなものが滲んでいた。
「…カイゼリン、報告することはないのか?」
オーディスの短く促す声。
問いかけの内容は曖昧だが、優秀な執事であるカイゼリンはすぐに理解した。
誰のことを聞かれているのかを。
「はい。セシル様は大変愛嬌のある方でございますね」
執事の言葉にオーディスは静かに頷く。
だが、その瞳に僅か喜びの色が浮かぶ。
「性格も明るく、使用人たちへの物腰も柔らかい。初日から自然と場を和ませて下さって。皆、好印象を抱いております」
「そうだろう」
即答だった。
もう笑ってしまうくらいの即答。
まるで最初から分かりきっていた答えを確認しただけ、という調子である。
「セシルは可愛らしいだろう」
「はい、とても」
執事は微笑みながら肯定する。
その様子にオーディスは満足げに小さく息を吐いた。
やはり自分の見立てに間違いはなかった、と言わんばかりである。
「ただ…」
執事は一拍置き、少しだけ言い淀んだ。
「ただ?」
「少々、その…、おっちょこちょいなところも、おありのようで」
「…おっちょこちょい?」
「はい。伯爵家の役に立ちたいという気持ちがとてもお強いようで、時折お手伝いをなさろうとするのですが…」
「その度に何かやらかすと?」
「えぇ。花の水やりをされる際に勢い余って水を被ってしまわれるのは毎度のこと。今朝も早めに起きられたようで、ご自身で寝室のシーツの取り替えをなさろうとしたところ、見事に自分でシーツに絡まり、身動きが取れなくなっていたのを侍女が発見しまして…」
執事は困ったような笑みを浮かべる。
「ご本人は手足をもがき、『大丈夫です! すぐ直します!』と声を上げておられましたが、ぐるぐると巻かれたシーツの中で寝室中を転がっていたと侍女が申し上げるには」
言葉の端々に責める色はない。
ただ、どうしても滲み出る苦笑。
「皆、『可愛らしいけれど、少し目が離せない方だな』と」
「そうか…」
「ですので、オーディス様がセシル様のお側で見守っていただければと」
「え?」
「そうですね、今からでもいかがでしょうか?仕事も一段落されたのでは?ちょうどカヴァラリー公爵夫人からセシル様宛てにお茶会の招待状が届いておりますゆえ、オーディス様からお渡しいただけますか?」
カイゼリンは招待状を差し出しながら、にこやかに微笑む。
そこには有無を言わせぬ圧がある。
「…分かった、そうしよう」
オーディスは招待状を受け取ると、部屋を出て行く。
その後ろ姿を見て、カイゼリンは主人の夫婦仲を取り持つのも執事の大事な務めであると再確認したのだった。
それからオーディスがセシルに会いに行くと、彼は庭園にいた。
白い石畳に囲まれ、薔薇と季節の花が整然と並ぶその一角で大きめのじょうろを両手で抱えていた。
「よいしょ…、っと」
花に水を与えるのに夢中で、足元の小石に気付かなかったセシルはバランスを崩してしまい、その反動でじょうろを宙へと放り投げた。




