《地球を拝んだ夜》
その日は、何ヶ月も前から「買おう」と思っていたものを、
ようやく買いに行く気になった日だった。
忘れていたわけじゃない。
思い出した時にはいつも時間がなかっただけだ。
今日は時間もあって、お金もある。
じゃあ、ゆっくり歩いて行こう——そう思った。
目的地まで約2.5キロ。
急ぐ必要なんてない。
むしろ遠回りして、この時間、この空気、この世界を少しでも味わいたかった。
下校中の子どもたち。
静まり返った住宅街。
すれ違う犬の散歩。
一匹の柴犬が、俺を見るなり近づきたそうにしながら、
恐れるように伏せてしまい、
飼い主が慌ててリードを引き上げた。
少し胸が痛んだが、どうすることもできなかった。
スポーツ用品店に入り、
好きなデザインは見つかったが、サイズだけがなかった。
店員さんが一生懸命探してくれたのに、
結局「すみません」と頭を下げて店を出た。
どこか申し訳なくて、少し疲れた。
歩き続けていると、スマホが震えた。
バイト先の若女将からだった。
「あなたの態度が良くないと、他の人から言われています。」
その一文で、
さっきまでの穏やかな気分なんて一瞬で吹き飛んだ。
証拠も場面もなく、
“誰かの言葉”だけで簡単に評価される。
腹が立つより先に、虚しさが胸に沈んだ。
どう返すべきか——
角を立てず、でも下に見られもしないように。
そんなことばかり考えながら歩いていると、
気づけばデパートに着いていた。
マクドナルドで新作メニューを食べながら、
ああでもない、こうでもないと返事を考えたが、
ふと「一日がメッセージ一つで壊れるなんて馬鹿らしい」と思えてきて、
そのまま頭から追い出した。
いくつかのぬいぐるみ屋を回る。
笑う羊。
愛嬌のあるワニ。
店員さんが梯子を片付けてしまい、
買うつもりもないワニを渋々レジに持っていく羽目になり、
そのまま店を出た。
なんとも言えず可笑しかった。
ダイソーで110円の掃除用具を買い、外に出ると、
今まで気づかなかった靴屋がそこにあった。
「28.5はありますか?」
いつもの質問に、店員さんはタブレットを取り出した。
今日初めてだ。
そこに俺の探していたサイズが揃っていた。
三足目を履いた時、
「これにします。もう疲れました」と言った。
正直すぎる本音だったが、店員さんは笑って頷いてくれた。
買い物を終えて外に出た時、突然腹痛に襲われ、
急いでトイレに駆け込み、
出てきた頃には店は閉店時間だった。
そして——
ここからが本番だった。
山道には街灯が一つもなかった。
そして霧が出ていた。
ただの霧じゃない。
まとわりつき、沈み、重く、呼吸のたびに肺に入り込んでくる霧。
スマホのライトはすぐ白く濁り、
足元すら頼りない。
前も後ろも、世界がゆっくりと閉じていくような暗さだった。
——怖い。
理由なんてなかった。
本能が「ここは危ない」と言っていた。
人の気配はどこにもない。
なのに、霧の向こう側では
“何かが静かにこちらを見ているような気配”
だけが張りついていた。
歩けば歩くほど、胸が苦しくなる。
寒さではなく、
恐怖で肺が縮むような感覚だった。
そして、霧がさらに深くなったあたりで、
心のどこかがはっきりとつぶやいた。
「……ここ、普通に死ぬ場所じゃない?」
冗談じゃなく、本気でそう思った。
ライトは届かない。
音も返ってこない。
歩けば歩くほど、
世界が俺ひとりを残して消えていくようだった。
それでも立ち止まるほうが、もっと怖かった。
俺はただ前へ進んだ。
恐怖の余韻が胸に沈む中、
ふと、心の底に“ある存在”が浮かび上がった。
本当の意味での母よ。
俺が立つこの大地。
生まれてから今日まで、
俺が一度も向き合おうとしなかった“母”。
歩きながら、
俺はその存在にそっと語りかけた。
「本当の意味での母よ。
あなたは俺に、すべてを与えてくれていたのに……
俺は一度もあなたを拝んだことがなかった。」
水も、空気も、食べ物も、
俺が歩いた道も、
今日の出来事のすべてさえも、
あなたがいなければ存在しない。
ライトが届かないこの闇の中で、
やっとその事実に触れた気がした。
俺は少し歩く速度を緩め、
息を整えて続けた。
「……もしよければ、
ほんの少しだけでいい。
力を貸してくれませんか。」
「この暗闇を抜けるまで、
俺のそばにいてくれたら……
それだけでいい。」
俺はあなたに何も返せない。
渡せるほどの何かを持っていない。
でも——
「あなたが俺をここに生かしてくれたのなら、
俺の残っている全部は、
あなたと共に生きるために使います。」
冗談でも、祈りの真似でもない。
霧の中を歩きながら自然にこぼれた言葉だった。
世界が静かに閉じていく夜道の中で、
あなただけは、
確かにそこにいた。




