神々の見守る道行き
アロンが十七歳となり、イレーネは二十歳となった年の春。
青空は雲ひとつなく澄み渡り、フィサロン神聖王国の首都セラフィエの大気は、朝から甘い香油と白花の芳香に満ちていた。
その日、王家にとって、いや王国にとっても決して忘れられぬ一日となった。
アロン王子とイレーネ王女の結婚式――王と王妃の戴冠に先立つ、聖婚の儀である。
舞台は、神々の座すとされる白光の大聖堂。
千年の歴史を誇り、王家の代々が神に婚姻を誓ってきた神聖の地。
厳かな鐘の音が響く中、王族、貴族、神官、そして各国の使節たちが見守るなかで、イレーネは純白の法衣をまとい、ゆっくりとバージンロードを進んだ。
その歩みは、王妃としての自負と、王女としての気高さ、そして一人の女性としての覚悟を宿していた。
アロンは深紅の礼装をまとい、神官長の前に立っていた。
まだ幼さを残す顔に、それでも真剣な眼差しとまっすぐな姿勢を携えて。
隣に立つその瞬間、イレーネはふと思った。――自分が彼より先に大人になっていた時間は、もう終わるのだと。
神官長が婚姻の言葉を読み上げ、二人がそれぞれに誓いを口にする。
声は迷いなく、澄んでいた。
「我、神の御前において誓わん。
この者と共に歩み、共に統べ、共に祈り、共に在らんことを」
そして、王家の印を刻んだ指輪が交わされ、神殿の高窓から光が差し込んだ瞬間――
聖堂の中に、歓喜と祈りの歌が鳴り響いた。
式の後、イレーネとアロンは白馬に曳かれた金装の馬車に乗り込み、聖堂の正門から市中へと出発した。
それは、王家の婚姻と継承を民衆に示す、伝統の凱旋の道行きである。
城郭の門を抜けると、そこには数えきれぬ人々が詰めかけていた。
「アロン様!」「イレーネ様!」「神の加護を!」
声援が風となって押し寄せる。
子供たちは花を撒き、老人たちは膝をついて祝福を送り、青年たちは歓呼の声をあげる。
アロンは初めて見る大群衆に一瞬だけ目を見張ったが、すぐに顔を上げ、手を振った。
その手の動きはまだ完璧ではない。けれど、それが彼自身の心から出た動きであることは、誰の目にも明らかだった。
イレーネは、変わらぬ微笑を浮かべ、穏やかなまなざしで民衆を見つめていた。
その姿には威厳があった。だが、それは押しつけるようなものではなく、心を鎮め、寄り添わせるような静かな統率だった。
「……二人は、本当に美しい」
そう呟いたのは、道端の老女だった。
その言葉に、そばにいた若い娘がうなずく。
「この国は、きっと守られますわ」
馬車が通り過ぎたあとも、街にはその余韻が残り、王家の血を信じる熱はさらに強く民衆に浸透していった。
夕暮れ、パレードを終えた二人は王宮へ戻り、祝宴が始まった。
けれどアロンは、ふと静けさを求めてひととき宴を抜け出し、宮殿の中庭に出た。
そこにはすでにイレーネがいた。
「先を越されたね」
「ふふ。あなたなら、そう来ると思ってた」
中庭の泉に、夕焼けが映る。
ふたりの影が並び、沈黙がやわらかく包む。
「……怖くはなかった?」
「少しだけ。でも、あなたが隣にいたから」
イレーネは、そっと彼の手を取った。
その手はまだ若く、けれど確かな意志を持っていた。
「これからも、ずっと」
「ええ。ずっと」
そしてふたりは、夜空の下で、静かに見つめ合った。
神に誓い、民に示した愛が、ようやく始まろうとしていた。
これは、終わりではない。
神の血を継ぐ者たちが、人としての愛を知る――新たな物語の、始まりだった。