最後の夜、姉として
結婚式を明日に控えた夜。
王宮の高窓には風が吹き込み、秋の夜気が淡く石壁を撫でていた。
夜更けに近い時間――イレーネの私室に、そっと控えめなノックが響く。
「……イレーネ。入っていい?」
その声に返事をする前から、彼女には誰かがわかっていた。
イレーネは書き物机の前に座ったまま、小さく頷いた。
「ええ。どうぞ、アロン」
扉が静かに開き、王子アロンが姿を見せた。
礼装を脱いだ後の気楽な服。けれどその顔には、儀式を目前に控えた者の緊張と、何かを確かめたいという想いが滲んでいた。
イレーネは立ち上がり、彼の前に歩み寄る。
「こんな時間に来るなんて、珍しいわね。眠れなかったの?」
「うん……少しだけ」
「それとも……不安?」
アロンは苦笑した。
「さすがにイレーネだ。全部、見透かされてるな」
イレーネも微笑んだ。その微笑みには、どこか柔らかい哀しみが含まれていた。
「……今日が、“姉と弟”でいられる最後の夜だと思ったの。だから来たの」
アロンの言葉に、イレーネは視線をそらすことなく、うなずいた。
「私も、少しだけ……そんなことを思ってた」
静かに、二人は並んで窓辺に腰を下ろした。
見下ろすと、夜の庭園が月光に照らされている。あの場所で、昔は花を摘み、追いかけっこをして、手をつないで歩いた。すべては、遠い記憶のようになりつつある。
「イレーネ」
「なに?」
「僕……時々、今でもよくわからないんだ。
どうして僕たちは、こんなふうに生まれて、こうして結ばれるのかって」
「血がそうだから、じゃ……答えにならない?」
アロンは首を振った。
「わかってる。神の血、王の義務、民の期待。全部わかってる。
でもそれでも、やっぱり“姉”だったあなたが、明日からは“妻”になるって、どこか現実じゃない気がして」
イレーネは息をついて、彼の肩にそっと手を置いた。
「私にとっても、同じよ。
あなたはずっと、私の弟で、幼い頃から手を引いてきた大切な人。
でも、だからこそ私は、あなたの隣に立てる唯一の存在になりたいって思った」
「……イレーネ」
「アロン。あなたが他の誰かと結ばれたら、私はその人に嫉妬したと思う。
あなたの悩みを知っていて、あなたの涙を見てきて、あなたの未来に一番近くで触れてきたのに――それを誰かに譲らなきゃいけないなんて、きっと耐えられなかった」
「……そうなんだ」
「ええ。だから私は、あなたの姉でいられたことに感謝してる。
そして、あなたの妃になることにも」
イレーネは手を握った。
アロンは、それを優しく握り返した。指先はかすかに震えていたが、それは恐れではなく、決意のあらわれだった。
「じゃあ、今日まで、ありがとう。姉上」
「こちらこそ、ありがとう。私の弟でいてくれて」
二人は、微笑みあった。
長い時間をかけて育んだ絆が、別のかたちへと変わる、その前夜。
その夜は短く、けれど、記憶の中では何よりも永く残る、姉と弟の最後の夜だった。
明日からは、王と王妃として。
新しい関係が、神と民と、この国の未来のために始まるのだから。