秋告げの鐘
秋の訪れとともに、フィサロンの空気はどこか張り詰めたものへと変わった。
金の葉が舞い、石造りの宮廷を染め上げる季節。
神殿の鐘楼が三日三晩鳴り響き、街には香油の匂いと花飾りが満ちていった。
そして――その音は、ひとつの告知の前触れであった。
王女イレーネと王子アロンの婚約が、正式に発表された。
民は歓声を上げた。
二人の聖なる婚儀は、神々の意志であり、王家の血脈を保つための必然であり、なにより長く国を支えてきた伝統の継承だった。
だが、彼ら自身にとって、その一報は別の意味を持っていた。
発表の翌日、イレーネは王妃ロクサネに呼び出され、王妃専用の聖室に通された。
「これで、すべてが整いました」
母の声は静かで、凛としていた。
白磁のような指で紅茶の器を持ち上げるその姿に、イレーネは一瞬だけ、幼いころに見上げた母の背中を思い出した。
「お前は、見事にその器に育ってくれました。王の血を受けるに相応しい、神の娘として」
「……ありがとうございます、母上」
けれどその口元は、笑ってはいなかった。
イレーネは深く一礼し、聖室を後にした。
その足で向かったのは、庭園だった。
秋の風が吹き抜けるその一角には、すでにアロンの姿があった。
彼は背中を向け、風に舞う木の葉をじっと見つめていた。
長い外套がはためき、細身の背はどこか少年と青年のはざまにいるように見えた。
「アロン」
声をかけると、彼はゆっくりと振り返った。
その顔に、驚きや照れのような感情はなかった。
ただ、どこか遠くを見ていた目が、ようやく現実に追いついたような――そんな静けさが宿っていた。
「イレーネ……聞いたよ」
「ええ。私も、つい先ほど」
沈黙が、ふたりの間をひと巡りした風のように通り過ぎた。
「……怒ってる?」
不意にアロンが口を開いた。
「いいえ。怒る理由なんて、どこにもないわ」
「でも、イレーネは……本当に、これでいいの?」
その言葉に、イレーネは目を伏せた。
そして一歩、彼に近づく。
「私たちがどう思っていても、王家の血は止まるわけにはいかない。
それは“いい”か“悪い”かで決めるものじゃない。――“決まっていたこと”よ」
「決まっていた、か……」
アロンはうつむき、手のひらで風に舞った葉を受け止めた。
その指先でそれをそっと握り、もう一度、姉の顔を見つめる。
「イレーネ。……君が誰よりも美しいって思うよ。
でも、僕は、姉としてのイレーネしか知らないんだ。
王妃とか、婚約者としてじゃなくて、ただ“イレーネ”として、僕は……」
その言葉は、秋風に揺れて途切れた。
イレーネは微笑んだ。
それは、幼いころにアロンが花を持ってきたときに返した笑顔と、まったく同じものだった。
「それでいいのよ。たとえ今、そうであっても――
やがて王と王妃として共に生きるうちに、きっと新しい関係が芽生えるわ」
「……信じてる?」
「私は、信じていたい」
そうして彼女は、アロンの手にそっと触れた。
王女の手は冷たく、けれど確かに――力強かった。
秋の光の中で、ふたりの影が並ぶ。
幼い日々の名残を抱いたまま、彼らは静かに大人になってゆく。
そしてやがて、王と王妃として――血と責務と、見えない運命をその身に刻む日が近づいていた。