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血の証

アロンは十歳になり、イレーネは十三歳になった。


季節は春。宮廷の庭園に咲き誇る白い花々が、やわらかな風にそよいでいた。だが、その静謐な光景とは裏腹に、イレーネの心には小さな波が立っていた。


それは、ある朝、侍女が布ににじむ紅を見つけたことから始まった。


「……おめでとうございます、王女様」


落ち着いた声でそう言ったのは、幼い頃から仕えてきた侍女長だった。その言葉に、イレーネは思わず身をこわばらせた。知識としては学んでいた。「女性」となる証、それが「血の兆し」であると。しかし実際にそれを迎えたとき、自分の内に何かが決定的に変わったことを、体の奥から感じ取っていた。


ロクサネ王妃のもとに報せが届くと、母は間もなく私室へとやってきた。控えめな笑みを浮かべて、イレーネの額にそっと手を当てた。


「これで、そなたも本当の意味で“神の器”となったのです」


声には祝福と責任が混じっていた。イレーネはただ、静かに頷くしかなかった。


それから数日のあいだ、彼女の過ごす空気は微かに変化していった。侍女たちの視線には敬意が深まり、教師たちの言葉遣いもわずかに改まり、そして何よりも――ロクサネの眼差しが、娘を見るものから「継承者」を見るものへと変わったのを、イレーネは敏感に感じ取っていた。


ある日、イレーネは礼法の講義を終えたあと、宮廷の小さな聖堂に一人で足を運んだ。神の名が刻まれた石碑の前で跪き、胸に手を当て、目を閉じる。


この血は、神からの贈り物。

この身体は、フィサロンの王統を繋ぐためにある。

私は、ただの少女ではない。


言い聞かせるように、何度もその祈りを口の中で繰り返した。


けれどその直後、軽やかな足音が近づいてくるのが聞こえた。振り向くと、アロンがいた。


「イレーネ? 探したよ」


そう言って、にこにこしながら手を振ってくる弟の姿は、以前と何ひとつ変わらない――けれど、イレーネの心は以前とまったく同じではいられなかった。


「どうしたの? お祈り?」


「ええ。少しだけ」


アロンはイレーネの隣に来て、無邪気に膝を折った。祭壇に手を合わせるふりをしながら、ひそひそと声をかけてくる。


「アルレシャに、手紙を書いたんだ」


「そう」


「庭の花も押し花にした。イレーネも見る?」


イレーネはふっと目を細めた。もう嫉妬ではない。もはや悲しみでもない。ただ、静かに自分の立ち位置を理解している自分に気づいていた。


――アロンの関心がどこへ向こうと、私はその先にいるべき者。


血は告げた。身体は証した。


私は、選ばれてここにいる。

神の後裔として、女として、王妃として――。


「イレーネ?」


「あら、ごめんなさい。素敵ね、アロン。アルレシャもきっと喜ぶわ」


そう言って微笑むと、アロンは安心したように笑い返した。その笑顔に、ほんの少しだけ、面影が重なる。あのころ、手をつないで乳母室を歩いた日々――まだ彼が「王」ではなく「アロン」でいてくれたころの記憶。


けれど、今はもう違う。


イレーネは立ち上がり、アロンの頭を撫でた。

その指先には、かすかな震えがあった。


「さあ、行きましょう。礼法の稽古に遅れるわ」


「うん!」


イレーネは歩き出す。アロンがその後をついてくる。

ふたりの影が、長く聖堂の石畳に伸びていた。


春の光の下、それはまだ子どもの姿をしていたけれど――

やがて、その影は、王と王妃のかたちになってゆくのだ。

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