名を呼ぶ声
アロンの誕生から、二年が経った。
彼はまだ幼く、言葉もたどたどしい。それでも、「イレーネ」と私の名を呼んでくれる時、その響きは王家の名誉や神の血統などというものからはるかに遠くて、ただ小さな弟のぬくもりだけが胸の奥に灯るのだった。
私のことを「姉」だと理解しているのかは、わからない。けれど、私という存在を「イレーネ」としてはっきり認識し、小さな声で、笑顔で、両手を伸ばして名を呼んでくれる。それだけで、私はこの上なく幸せだった。
「イェ、ネー!」
廊下をよちよちと歩いてくるアロンの姿を見ると、私は自然と笑ってしまう。絹のチュニックの裾を踏みかけて転びそうになると、侍女たちがあわてて駆け寄るけれど、彼はそんな気遣いをものともせず、また立ち上がって私の元へ来ようとする。
「アロン、こっちよ」
しゃがんで両手を広げると、彼は迷わず走り寄ってきて、私の腕に飛び込んできた。小さな身体はあたたかく、胸にあたる額はほんのり汗ばんでいる。
「イレーネ、だいすき」
その言葉を、どこで覚えたのだろう。私は口元を抑えたまま、そっとアロンの髪を撫でた。金の巻き毛は父に似ているけれど、瞳の色は私と同じ、琥珀を溶かしたような色だ。
ふたりは、いずれ結ばれることになる――そのことは、もう知っている。
母上、ロクサネ王妃からはすでに繰り返し、語られている。私たちはフィサロンの神の血を守る者であり、神に選ばれた王統を絶やしてはならぬと。異なる血と交われば、聖なる力は薄まり、神の加護も遠のくのだと。
母の言葉は、祈りのように、命令のように、私の耳に染み込んでいる。
けれど今は、それらすべてを遠くに感じてしまう。ただアロンが無邪気に私の胸に抱かれ、小さな手で私の指を握る――その姿だけが、私の心をいっぱいに満たしていた。
「イレーネ、おうた、して」
「いいわ。どの歌がいい?」
「いつもの」
いつもの歌。私が子守唄として歌っていた、王宮の古い旋律。神の名を讃える歌だったけれど、私は旋律だけを残して、言葉を変えていた。アロンには、まだ神と血統と儀式の重さを知らせたくなかった。
私たちは、ただの姉と弟でいたかった。
だから今日も、私は微笑みながら唄った。
神をたたえる代わりに、アロンの笑顔をたたえる歌を。
血の宿命を説く代わりに、「好きよ」と歌いかける歌を。
けれど――私自身はわかっている。
この幸せな時間は、長くは続かないのだと。
アロンが成長すればするほど、「弟」ではなく「王子」として扱われていく。私もまた、「姉」ではなく「王妃の器」としての教育を受けている。ふたりが結ばれることは決まっていて、それが「正しきこと」とされている世界で、私たちは育っている。
だとしても。
私は、アロンにだけは、できる限りの愛をもって接したいと思った。
それが姉としての愛なのか、妃としての愛なのか、それともその両方なのか――幼い私にはまだ、きっと判断できていなかった。
けれど、彼が笑ってくれるなら、それでよかった。
彼が私の名前を呼んでくれる限り、私は「イレーネ」でいられる気がした。
たとえ、いつかこの名が重い冠に変わる日が来たとしても――。