神の血を継ぐ者
神代からその血を絶やすことなく受け継いできたフィサロン神聖王国の王統は、長きに渡り「神の後裔」を自認してきた。彼らは信じていた――神々が地上に残した最後の聖なる系譜こそ、自らの血筋であると。そしてその血が「人」の血と交わり薄まることを、何よりも忌み嫌った。
幾代にもわたり、フィサロン王家は近親の中から配偶者を選び続けてきた。異母兄妹、叔姪、従兄妹、あるいは双子の兄妹ですら。民衆はそれを神聖の証として受け容れ、王家の中に人ならざる秩序を見ることで、自らの信仰と忠誠を正当化してきた。
そして今、王の間に再び新たな命が生まれた。
ガラド二十三世陛下の王妃ロクサネ――かつての姉にして、いまや妃であるその御方が、第二子を無事出産されたのだ。
王女イレーネに続く男児、アロン王子の誕生は、王国中に歓喜をもたらした。王家の血統における正統な男子の誕生は十数年ぶりであり、将来の王として、民は声を上げてその名を讃えた。
けれど、三歳のイレーネ王女にとって、弟アロンは「王統の継承者」などという観念の象徴ではなかった。ただ、自分の部屋の奥にある扉の先、乳母たちが交代で世話を焼く小さな赤ん坊――それがアロンだった。
イレーネはアロンが好きだった。くるくるした指、柔らかな頬、泣くとしわくちゃになる顔。それらを眺めていると、何もかもが愛おしくてたまらなくなる。
けれど、その日。
幼き王女は、はじめて「好き」という感情の背後に、冷たい何かが忍び寄ってくるのを感じた。
***
石造りの回廊を、乳母の目を盗んで走った。裸足に触れる大理石の床はまだ朝の冷気を含んでいて、ぴしゃぴしゃと足の裏が冷たく感じる。それすらもイレーネにとっては遊びの延長だった。
長い裾の絹の上衣は、母であるロクサネが選んでくれたものだ。母はよく「神の娘には、それにふさわしい振る舞いが求められる」と口にしていた。
けれどイレーネは、その意味を深く考えたことはなかった。ただ母の言葉を、大好きな物語の一部のように思っていた。
乳児室の扉を開けて中へ入ると、香油の香りが鼻をくすぐった。アロンは、ゆりかごの中で静かに眠っていた。
やがて彼の小さな指が動き、くちびるがわずかに開いて、赤子らしい呼吸がこぼれる。
「おはよう、アロン」
イレーネは椅子を引き寄せ、背伸びしてその寝顔を見下ろす。赤子の肌は白くて、やわらかくて、小さな羽根のようだった。
そこへ、静かに扉が開いた。
入ってきたのは、母ロクサネだった。裾の長い白金の法衣に身を包み、まるで神殿の司祭のような気配を漂わせていた。
「イレーネ」
呼びかけられた声に、イレーネは振り返る。けれど、ロクサネの目に笑みはなかった。
「弟のことは、たいせつですか?」
「うん! アロンは、わたしの大事な弟」
「そう。ならば覚えておきなさい」
母は、白い指をそっとアロンの額に触れた。優しく見えて、その仕草にはどこか、儀式のような厳かさがあった。
「アロンは、いずれ王となる運命です。そなたは、その王の妃となる。フィサロンの神血を守る者として」
イレーネは言葉の意味を十分には理解できなかった。ただ、「妃」という言葉だけが耳に残った。
「……お母さまみたいになるの?」
「そう。母であり、妻であり、王妃として王を導く存在に。王の血を最も深く理解し、最も近くで支える者こそ、王妃なのです」
ロクサネの瞳が、静かにイレーネを見下ろす。そこには、母の優しさも、神の巫女の冷厳さも入り混じっていた。
イレーネは戸惑いながら、弟の寝顔をもう一度見つめた。
眠るアロンの小さな身体が、まるでまだ神さまの国とこの地上の間を揺れているように感じられた。
やがてロクサネは腰を屈めてイレーネの額に口づけを落とした。
「そなたは、王妃として生まれたのです。神の娘としての役割を、少しずつ知っていきましょうね」
その日から、ロクサネは毎朝、イレーネを自室に呼ぶようになった。
礼儀作法、歴代の王妃たちの名、神々の系譜、婚姻と血統について……彼女の語るすべては、イレーネの耳には難しくて、どこか遠い世界の話のように思えた。
けれど、それでもイレーネは母の声を聞き、母の所作を真似て、ただひとつ信じていた。
――アロンのそばにいられるのなら、それでいい。
まだ世界の理も血の宿命も知らぬ幼き王女は、兄妹としての愛情をそのまま胸に抱いたまま、王妃となる道を歩み始めたのだった。