ノウリョク ノ ベンキョウ
今日も今日とて、人生に疲れた社畜がため息から始まる朝。29歳、童貞、彼女なし。
そんな俺のささやかな楽しみは、通勤中にソシャゲのログインボーナスを掻き集めることだ。
実家の心配性な母からの連絡に頭を悩ませつつ、いつも通り満員電車に揺られるはずだった。
だが、その日を境に、俺の日常はカオスへと変貌する。
突如背中を押され、線路へと突き落とされた俺を待っていたのは、まさかの異世界転生と、自らを『神』と名乗るご都合主義な存在だった。しかも与えられた能力は、世界そのものを書き換える『因果律の操作』というチート級。『世界を楽しめ』と一方的に言い放つ神。
静かに暮らしたいという俺の願いは叶うのか? それとも、チート能力を押し付けられ、怪異が跋扈する和風異世界で奔走する運命なのか?
これは、元陰キャ童貞が、不本意ながらも異世界で因果を紡ぎ、
怪異を解決しながら、新たな人生と居場所を見つけていく物語――。
ただし、童貞は継続中かもしれない。
紡は腕の中で眠る犬をそっと抱き上げた。フワフワとした毛並みが指先をくすぐる。
「お前ずっとついてきてるし、忠犬って感じだよな…」
「よし、じゃあ…お前は今日からカイだ。…どうだ?」
紡がそう言うと、腕の中の犬はピクッと耳を動かし、ゆっくりと目を開けた。
澄んだ瞳が紡を見つめ、小さく「ワフッ」と鳴いた。その声は、どこか嬉しそうに聞こえた。
紡はそっとカイの頭を撫でた。「気に入ってくれたか、カイ?」
新たに出来た家族と共に、その日は眠りについた。
翌朝、紡は朝食を済ませると、すぐに石凝と烏賀陽に呼び出された。
場所は管理局内の尋問室……ではなく、会議室のような場所だった。
「では、杜野紡。早速だが貴様の『廻環術』について詳しく話せ」
石凝は冷徹な視線を紡に向けた。烏賀陽は隣で楽しそうにペンを回している。
「廻環術ってなんですか? 俺、そんなの使った覚えありませんけど」
紡はとぼけた。
「とぼけるな。祠で怪異を消失させたのは貴様だろう。あれこそが廻環術の痕跡だ」
石凝の声が低くなる。
「え、あれが? なんか気がついたら勝手に……」
紡は正直に話そうとしたが、どこまで話すべきか迷った。
異世界から来たなんて言っても信じてもらえるはずがない。
烏賀陽が口を挟んだ。
「石凝室長、ここは私からご説明を。杜野さんも、まずは基本的な知識から知るべきでしょう」
烏賀陽はにこやかに紡に向き直った。
「杜野さん。まず、この神楽郷は、かつて神々が住まう『神の楽園』でした」
「ですが、ある時を境に神々は姿を消し、代わりに怪異と呼ばれる現象が現れるようになったのです」
「怪異……昨日の猫舌のやつとか、俺が見た見えないやつも?」
紡は思わず身を乗り出した。
「ええ、そうです。怪異とは、『因果の歪み』と言うものによって生じる現象の総称です」
「歪みは、人の負の感情や世界の綻びから生まれることが多く、猫が壁をすり抜けるような些細なものから、街一つを飲み込むような大規模なものまで、多種多様に存在します」
烏賀陽は、まるで専門家のように淀みなく説明する。
「そして、その怪異に対抗するために生まれた、ごく稀に一部の人間が発現する特殊な能力、それが廻環術です」
烏賀陽はにこやかに言った。
「特殊能力……?」
「ええ。祠であなたがやったことは、因果の歪みを修正し、怪異を存在しないものとして処理した、ということです」
「あなたの廻環術は現状、過去に類を見ない極めて稀な性質だと判断されており、その詳細な原理はまだ不明です」
烏賀陽は、紡の能力について語る時だけ、どこか探求心に満ちた、食いつくような眼差しを向けた。
「例えるなら、この世界が大きなプログラムだとして、怪異はそのプログラムのバグのようなものです」
「そして廻環術は、そのバグを修正する、あるいは一時的に無視するパッチコードのようなものだと考えてください」
「我々術士は、いわばこの世界のバグフィクサー、あるいはデバッガーといったところでしょうか」
紡は頭を抱えた。
「プログラムとかバグとか……なんか俺がいた世界と似たような話だな……」
「なるほど、それは興味深い。貴方の出身も気になりますね」
烏賀陽は楽しそうに目を輝かせた。その視線に、紡は背筋が凍るような居心地の悪さを感じた。
石凝が冷たく言い放った。
「貴様の能力は、その怪異を消失させることが出来る。それは確かに強力な力だ」
「だが、同時に危険な力でもある。我々の監視下でその力を適切に使うべきだ」
石凝の言葉は、神の警告と重なった。「因果をねじ曲げすぎると、世界に『歪み』が生じて思わぬ反動が来る」という言葉が脳裏をよぎる。
(やっぱり俺に与えられた能力は結構ヤバめな奴だったんだ…神もチート級って言ってたし…)
「……あの、もし俺が協力しないと言ったら?」
紡が恐る恐る尋ねると、石凝は一瞬眉をひそめた。
「昨日も言ったと思うが『監視対象』から『排除対象』へと変わる」
「ここからは言わなくても理解できるな…?」
石凝は冷たい目で紡を睨みつけた。この男に、嘘や誤魔化しは無いようだ。
「廻環術の能力者は限られた存在です。そのため、その力の性質上、例外なく管理局への登録が義務付けられています」
「未登録で能力を使用した場合、即座に排除される対象となります」
烏賀陽がニヤリと笑った。
「え? マジで?」
紡は思わず声を上げた。なんだそれ。まるで漫画の超能力組織のルールみたいじゃないか。
「例えば、物を瞬間移動させる能力や炎を操る能力、あるいは自身の質量を自在に操作する能力や音波を操る能力といったものです」
「管理局では、そういった能力を『廻環術』と定義し、適切に管理しているのです」
烏賀陽は紡に、まるで秘密を打ち明けるかのように身を乗り出した。
「そして当然ですが、私と石凝室長も廻環術を扱えます」
烏賀陽は楽しげに自身の腰にぶら下がった、いくつもの特殊な形状をした音叉を指差した。
「私の能力は『音律支配』。特定の音や音階に干渉し、その音波を自在に操ります」
「音量を増減させるだけでなく、音の振動を凝縮させて衝撃波にしたり特定の周波数で相手の感覚器官を撹乱したり、音の流れを操って防御壁を作ったりと多角的に音を利用します。この音叉を打ち鳴らすことで能力を増幅させたり、より複雑な操作が可能になります」
烏賀陽は得意げに説明を続けた。
「そして、石凝室長の能力は『質量操作』。自身が触れた物体、あるいは特定の範囲内の物体の質量を自在に操作するんです」
「文字通り重さを変えるだけでなく、質量そのものを増減させることで衝撃力を高めたり、防御力を上げたり…あるいは敵の動きを封じたりすることも可能なんです」
「基本は素手での格闘術ですが、強力な怪異にはあの黒曜石のような質感の籠手を使います。あれに触れたものの質量を、より精密に操作できるんです」
「おい、烏賀陽」
石凝が低い声で制止した。その声には、一般人に能力の詳細をペラペラと話すな、という明確な警告が込められていた。
「あ、いけませんね、つい喋りすぎちゃいました。フフ、反省反省」
烏賀陽はヘラヘラと笑い、申し訳なさそうに頭を掻いた。しかし、その顔はまったく反省しているようには見えなかった。
烏賀陽の説明を聞き、紡は改めて二人の規格外な強さを認識した。
こんな能力を持つ人間が、この世界には当たり前のように存在し、それらを管理する組織があるのだ。
(俺の『怪異を消す』能力も、もしかしたらこの二人の能力くらいヤバいのか……? いや、それ以上なのか? 極めて稀って言ってたし……)
紡は混乱しつつも、自分の置かれた状況の重大さを理解し始めた。
「廻環術の能力者は、適性によって配置が決まります」
烏賀陽は先ほどの制止を意に介さないような口調で語りだした。
「例えば、物を遠隔で運ぶ『転送』能力を持つ者は物流部門へ、電気を生み出す『発電』能力を持つ者は電力供給部門へといった具合に、戦闘向きでない能力者は町のインフラを支える部署に配属されます」
「対して、炎を操る能力や結界を生成する能力など、戦闘に直接活かせる能力を持つ者は、異事管理局の調査員として怪異討伐に配置されます。この配置決定権は、我々異事管理局が全権を握っています」
烏賀陽の表情はにこやかだが、瞳の奥は獲物を見つけた蛇のように鋭かった。
(は? マジかよ……俺、戦闘とか無理なんですけど……)
紡は血の気が引いた。
「とにかく、貴様は廻環術師として我々に協力する義務がある」
「今日から貴様の廻環術の詳しい調査と、怪異に関する基礎知識の習得を行ってもらう」
石凝の言葉に、紡は観念するしかなかった。
その日の午後から、紡は烏賀陽による廻環術の基礎学習を受けることになった。
会議室の隅に簡易的なホワイトボードとテーブルが用意され、烏賀陽は楽しそうに講義を始めた。
「さて、杜野さん。廻環術には様々な種類がある、と先ほどお話ししましたね。あなたの廻環術は詳細不明ながら因果の歪みを修正し、怪異を消失させる力です」
「対して、一般的な廻環術者の多くは、因果を一時的に捻じ曲げ、望む現象を引き起こすタイプが多いです」
烏賀陽は、まるで子供に絵本を読み聞かせるように穏やかな口調で話す。しかし、その瞳の奥には、変わらず好奇心の炎が揺らめいていた。
「例えば、あなたが『コップの水が温かくなる』という現象を望むとします。通常、水が温かくなるには熱を加えるという『原因』が必要です」
「しかし、廻環術を使えばその『原因』をすっ飛ばして、直接『結果』である『水が温かくなる』という現象を引き起こせるのです」
「いわば、ショートカットみたいなものですね」
烏賀陽は流れるようなジェスチャーで説明した。
「すごいな……魔法みたいだ」
紡は素直に感嘆した。
「ええ、魔法のようなものですよ。ただしこのショートカットには代償が伴います」
「因果を無理やりねじ曲げると、その反動で『歪み』が生じる。歪みが蓄積しすぎると術者の身に危険が及ぶか、あるいは怪異を呼び寄せる原因となってしまうのです」
烏賀陽の声のトーンが、わずかにシリアスになった。
なるほど、神様が言ってた反動ってやつか……
紡は神からの警告を思い出した。彼の能力はこの世界の「バグ修正」ではあるが、同時に副作用もあるということか。
「あなたの廻環術は、この歪みを修正する力なので歪みが少ないうちは安全です。むしろ歪みを減らすことに貢献します」
「しかし使いすぎれば、やはり反動はあります」
烏賀陽は、紡の能力の特性について、深く考察しているようだった。
数時間の講義を終え、紡はぐったりと疲れていた。異世界に来てからの情報量が多すぎた。
「今日はここまでにしておきましょう。次からは実戦形式で、あなたの能力の特性を探っていきます。ワクワクしますね!」
烏賀陽は楽しそうに言ったが、紡は全くもって楽しくは無かった。
てとまるです。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
今回は少し短いですが、能力と仕組みについてのお話でした。
廻環術。我ながら中二病全開だと思っていますが、良い案が浮かばずでして…
自分にもっとセンスと知識があれば、と悔やんでいます。
さて、次回ですが新たなキャラクターを登場させる予定です。
出来るだけ魅力があるようにしたいと思いますので、お待ちください。
それでは、よろしくお願いします。