ケツマツ ト ハジマリ
今日も今日とて、人生に疲れた社畜がため息から始まる朝。29歳、童貞、彼女なし。
そんな俺のささやかな楽しみは、通勤中にソシャゲのログインボーナスを掻き集めることだ。
実家の心配性な母からの連絡に頭を悩ませつつ、いつも通り満員電車に揺られるはずだった。
だが、その日を境に、俺の日常はカオスへと変貌する。
突如背中を押され、線路へと突き落とされた俺を待っていたのは、まさかの異世界転生と、自らを『神』と名乗るご都合主義な存在だった。しかも与えられた能力は、世界そのものを書き換える『因果律の操作』というチート級。
『世界を楽しめ』と一方的に言い放つ神。
静かに暮らしたいという俺の願いは叶うのか? それとも、チート能力を押し付けられ、怪異が跋扈する和風異世界で奔走する運命なのか?
これは、元陰キャ童貞が、不本意ながらも異世界で因果を紡ぎ、
怪異を解決しながら、新たな人生と居場所を見つけていく物語――。
ただし、童貞は継続中かもしれない。
AM 6:45、いつもの朝を告げるアラーム音が部屋に鳴り響いた。
「はぁ……」
大きなため息一つで、俺の朝は始まる。
杜野 紡、29歳。独身。当然、彼女なし。
…おまけに童貞。
身支度をしながら、テーブルに置きっぱなしの書きかけの手紙が目に入った。
(あー、まただ。今日こそ切手買って帰らなきゃな……)
もう三度目の正直どころじゃない。4、5回目だ。ここまで来ると清々しいまである。
一度頭から消えちゃうと途端にどうでもよくなるんだよな、これ。
(俺だけじゃない…よな? おそらく世の中のほとんどの人間が経験してるはずだ)
と、自分に言い訳してみる。
そんなことを考えつつ、慣れた手つきで身支度を済ませた。昨晩から用意していたゴミ袋を片手に家を出る。
駅までの道のりを歩くのは、毎朝のルーティン…というか、ある意味でゲームのログインボーナスを獲得するための時間だ。
いや、歩きスマホがダメなのは百も承知なんだけどさ、俺みたいな陰キャ社会人の朝はこんなもんだ。
こういうささやかな楽しみがないとやってられない。
それにしても、さっきの手紙は困りものだ。
田舎に住む母さん宛てで、書き始めてもう二ヶ月になるのに一向に書き進められない。
母さん、スマホとかパソコンとか全然ダメで唯一連絡手段と呼べるのが、電話かメールくらい。
でも、メールも長文は苦手だから結局電話がメインなんだ。
たまに「元気?」とか「生きてる?」みたいな短文メールを送ると、数分後には必ず心配性な母からの着信が画面を埋め尽くす。
「一体どうしたの!? 何かあったの!? 変なこと急に送ってきたから!」
なんて言われるのがオチだからメールは最小限。むしろ送らない方が平和だ。
たまにはメールじゃなくて手紙の方が喜ぶかな。なんて、柄にもないことを考えたのが間違いだった。
普段話してることをそのまま文字にすればいいんだろうけど、いざ書くとなると気恥ずかしいし、書こうとするたびに頭の中であれこれ考えすぎて手が止まる。
いっそ、いつものように電話で済ませる方が楽だし明日にでもしてみるか。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか改札が見えてきた。
電車が遅延していないことにホッと息をつく。
仕方ないとは分かってるが、ただでさえ満員の車内がこれ以上カオスになるのだけは避けたかった。
その日の空は、今にも雨が降り出しそうなほど暗い灰色に覆われていた。
まるで、これから起こる出来事を静かに映し出しているかのように。
普段なら足早に駅のホームへと向かうところだが、その日はなぜか足が重かった。というのも、昨日から右腕のあたりが妙にゾワゾワする。
皮膚の下で何かが蠢いているような不気味な感覚だ。鏡を見ても何も異常はないのだが、視界の端で腕の皮膚が薄く波打っているように見えたり、血管が黒く透けているような錯覚に囚われる。
霊感とかそういう類は一切信じないタイプだが、こんな非科学的なことがよりによって体調の悪い時に限って起こるのだろう。
きっと仕事のストレスが溜まっているだけだと思い込むようにした。
そう言い聞かせてもその違和感は消えるどころか、じわりと存在感を増すばかりだった。
ホームに着くと意外にも人がまばらだった。
どうやら一本前の電車が出た直後のようで、焦って駆け込もうとしていたサラリーマンが残念そうに立ち去るのが見える。
何となく今日はツイてる気がするぞ。
俺はそいつを横目に、次の電車で少しでも楽をしようと迷わずドア付近のベストポジションを確保する。
スマホを手に、いつものようにログインボーナスで引けるガチャ画面をタップする。
すると普段はまず見れない、激レアキャラの演出が始まった。
「おぉマジか!キタコレ!」
思わず小さく声が出た。ハッとして周りを機渡したが幸い誰にも聞かれていない。
こんなのが聞かれたら間違いなく変な人認定されるだろう、気をつけねば。
ゲーム画面には、確かに欲しかった激レアキャラがそこにいた。
今日やっぱり運が良いよな、俺?会社の自販機でも当たるかな?
そんな事を考えながら電車が来るのを待っている最中、ふと視界の端で何かが動いた気がした。
振り返ってみるが、特に変わった様子はない。気のせいか、と再びスマホに目を戻した。
電車が来るアナウンスが流れるとともに、奥から電車が来るのが見えた。
今日はツイてるし座れるかなー…、と考えた時だった。
ドンッ!
背中に、強烈な衝撃が走った。
「うおっ!?」
不意打ちだった。誰かに突き飛ばされた? いや、そんな悠長なことを考えている暇はなかった。
体はあっという間にバランスを崩し、まるでスローモーションのように体が宙を舞った。
身体をひねるようにして衝撃が走った方を向くと、フードを深く被り顔は見えないが、その人物の口元がわずかに歪んで見えた。
突き飛ばされたんだ。そう確信した瞬間に鼓膜を破くかのような警笛が鳴り響いた。
「ま、マジか……」
人生って、こんなあっけなく終わるのか? 走馬灯のように脳裏を駆け巡ったのは、やり残した仕事、溜まった洗濯物、そして……。
童貞のまま死ぬのか俺は!?
そんな下らない…いや、ある意味死活問題な叫びが意識の奥底でこだました。まるで悪夢を見ているようだ。
しかし、それも次の瞬間には強い衝撃とともに、漆黒の闇に飲み込まれていった。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
「神にチートで世界を楽しめと言われまして」は、僕にとって初めての小説作品となります。
右も左も分からぬまま書き始め、至らぬ点も多々あったかと思いますが、それでもお付き合いいただけたこと、心より感謝申し上げます。
書きたいものが溢れてくる衝動に突き動かされて筆を執りましたが、仕事の合間を縫っての執筆となるため、どうしても投稿ペースがゆっくりになってしまいます。
ですが、彼の冒険を最後まで描き切りたいと思っていますので、気長にお付き合いいただけると嬉しいです。
この作品が、皆さんの日々のささやかな楽しみの一つになれば幸いです。
これからも杜野紡と、彼が紡ぐ物語をどうぞよろしくお願いします。