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栞を食む

作者: シンシア

 スー。


 絵の具は整えられた筆先を伝って、硬質紙へ落ちていく。鉛筆の頼りない下書き線をはみ出さない様、慎重に付けては動かされて離される。冷たさが紙を這っていく音。ただ、ひたすらにこの音が聞きたくて、手を、腕を、体までもを動かす。


雑音も雑念もここには存在しない。目の前のこれを完成させる。いや、本当にやりたいことはそんなことじゃない。明確な完成像なんてない。なんとなく、感覚的に色が欲しいと思うところに筆を持っていく。


案外これぐらいのことしか考えていないのかもしれない。



 チリン。


 綺麗な音がした。まるで夏を運んでくるかのような、あの鈴の音。あれ、今の季節はなんだっけ。



──夏?



 チリン、チリン。


 今度は二つ。ああ、そうだ。夏なのだ。


ん? 


 ふと目に入るのは紺色。筆を握る右手から伸びる紺色の衣服。ブレザーだ。夏にこんな厚いものを着る? まぁ私は、衣替え期間ギリギリまでブレザーを着るし、今は初夏なのだろう。特に気にせずに作業を再開し──。



「──マヤ」


「わ!」



 風鈴がいきなりささやいた!






「すごーい集中力だったね。何度呼んでも反応がないもんだから、心配になっちゃった」



 隣に座る肖子しょうこは頬杖を突きながらそっぽを向く。

 

 傷んだ木製の長机。香る画材の匂い。壁に掛けられた知らない絵画の数々。開かれた窓から侵入するのは花粉と清々しい暖かな空気。ここは美術室。今は各々が製作課題に取り組んでいる最中だ。耳を少し向けると教室のあちらこちらでぽつりぽつり、華やかな私語が聞こえてくる。


教卓だと思われる汚い机の付近に先生はいない。奥の部屋に引っ込んでしまっているからだろう。彼は基本的に授業中の私語を注意したりはしない。作品を期限内に提出するなら、授業の時間をどう過ごしてもよいという考えからだ。先生らしいというよりかは芸術家気質な男の人である。



「──ごめん。なんかこういうさぎょ……製作は嫌いじゃないんだよね」


「そうなんだ、意外……でもないか。ところでなに描いてるの?」


「うーんと、ねぇー。──歯車?」


「歯車?」



 課題内容は自分を象徴するアイコンの作成。四角い枠組みの中に自分の好きなものを表現したり、自分を表すようなモチーフを描けという、先生への自己紹介を兼ねている作品だ。おそらく、好きなものを描けばいいのではないかと私は解釈した。



「そ、そう。スチームパンク風。噛み合わさる歯車たちとか、蒸気機関とか。そーんな雰囲気が、伝われば」


「へー。ふーん、そっかぁ……。なんかカッコイイね。いやね、良かったよ! とんでもない厄介な怨念を描いてたらどうしようって」



 私は吃りながらも言葉を繋ぐ。それに対して肖子しょうこは歯切れの悪い相槌を打つ。彼女はこちらへ顔も体も向けようとしない。私の話し方を変に思っているわけでもないし、声色や返答の内容からして怒っているわけではないと思うが、頑なに体を動かさない。



「心配してくれてありがとね。いつもなら、ま、間違いなくてるてる坊主を描いてたね! それで、ショーコの方は何を描いているの?」


「ははは。──え。あー、わたしはね……」



 彼女は珍しく、はっきりしない物言いをする。見た方が早いと思ったが彼女の腕と体のせいで、座っている今の私の体勢では手元を覗くことはできない。よし、それなら。私は筆を置いて、長机に手を置き立ち上がろうとした。



「いた!」



 爪先に鈍い痛みが走る。肖子に足を踏まれたのだ。



「ごめん! マヤの靴に虫がいて」


「そんなわけないよ!」



 私はもう一度チャレンジする。すると、彼女は素早い動きで紙を裏面にして、その上に上体を預けた。



「あ! 机に大きな虫が! 気持ち悪いから私が隠しとくね!」



 くぐもった風鈴の音が聞こえてくる。



「別に見せたくないなら、いいよ。無理に見たりしないよ」


「そんなの知ってる」


「じゃあ顔上げてよ」


「いやだ」



 彼女は机に突っ伏したままだ。こんな肖子しょうこの姿を見るのは初めてだった。


 高嶺の花。これは学校中のみんなが彼女に抱くイメージだ。学生離れしたすらりと伸びる長身と、容姿端麗な見た目から、告白を申し出る生徒は後を絶たない。それでいて、勉強もスポーツも交友関係も完璧。まさしく、非の打ちどころがない高嶺の花なのだ。



「どうしたの? 早く進めないと終わらないよ」


「いいもん。放課後一人でやるから」


「え、今日は一緒に帰らないわけ?」



 私の言葉に反応するように肖子しょうこが顔を上げた。下がった目尻と一文字に結んだ唇。私のことを捉える両の眼に吸い込まれていく。大きくて黒い、丸い瞳。



「それは困る。終わらせる」



 彼女は機械的に言葉を浮かべると、私の横を意味ありげにゆっくりと指さす。


私を刺していた視線は、いつのまにか身体をするりと通り抜けていた。彼女の意識を私から奪うものの正体を突き止めなくては。不思議な感覚のまま、指の動きに従うように顔を向ける。


 風を受けて膨らむカーテン。纏まりを失い解き放たれ、隠していたものが明らかになる──。


 そこには何もなかった!


 私はすぐに顔を戻したが、肖子しょうこは初期位置である、体全体で隠しながら作業を進める体勢に戻っていた。



「ねー、さっきの意味ありげな指──」


「わたし、小学生の時ね。図書委員だったわけ」


「え? こんな雑に回想シーンに入るの⁉」



 それから、彼女は手を動かしながらぽつりぽつりと、つぶやき始めるのだった。目線はあくまで自分の作品に向けたまま、口元がひとりでに動き出す。


「図書委員の仕事の一つに栞の絵を描くっていうのがあったの。図書室の本を借りる時に、自由に持っていっていいよってやつ」


「ああ、私もそれあったかも。ショーコはてっきり学級委員かと」


「えー、それ揶揄からかってるでしょ!」



 こちらから顔は見えないが、頬をふぐみたいに膨らませているのだろう。彼女の癖のような風船顔は想像に容易い。手作りの栞とは懐かしい話題だ。小学生の時に絵が上手い人は、運動神経が良い子の次くらいに話題があるイメージだ。その次は折紙が上手な子。



「そ、それで、ショーコも勿論栞の絵を書いたんでしょ? どんな絵なの」


「わたしはクマさんの絵……」



 明らかにひとつまみ分くらい、声のボリュームもトーンも下がった。クマさんね。熊ではなくクマさんなのが、なんとも可愛らしい絵柄を想像させる。おそらく一生懸命描いたのだろう。ふふ。



「ねぇ、今笑ったでしょ!」



 鋭い視線が向けられる。目が細められ、長い睫毛が強調されて見える。ドキッと心臓が掴まれたみたいなのに、不思議と悪い気はしない。



「ごめん。茶化したんじゃなくて……」


「どうせ、また一人で、頭で、ぐつぐつと考えたんでしょ。ほーんとこれだから厄介ファンはこわいねぇ」


「なんか今日火力高くない?」


「は? なに。続き聞くの、聞かないの」


「……聞きます」



 威圧されて上手く丸め込まれた気がする。今日は私の厄介な話よりも、肖子しょうこのクマさんの栞の話を聞きたいのは本当だ。私は素直に、彼女が口を開き始めるのを待つことにした。


 サッ。サッ、サッサ…………。


 鉛筆。それも色鉛筆だろうか。時折、カタンと机を鳴らして、ペンを置き持ち替えているのが分かる。絶妙なテンポの摩擦音は、創作意欲を掻き立てる。私も筆を手に取って作業を再開した。



「それである日ね。ふと、図書室に立ち寄ったわけ」


「……! え、あ、うん。聞いてるよ」



 何事もなかったかのように肖子しょうこは手を動かしながら、続きを話し始めた。



「そしたらね。私の栞を手にした男子たちがすごい笑い始めたの。『なにこれ、下手くそな絵』って。隣にいた友達が『それ、しょうこちゃんが描いたやつ……』みたいなことを言おうとしたから、慌てて止めたよね」


「あー、フォローしなくていい! って感じだよね」


「そうそう。もうなんかすごいやるせないっていうか、悔しいっていうかね。恥ずかしさも込み上げてきて。別にお前らのために描いたんじゃないし、みたいな気持ちもあって。その場で言い返せたらよかったんだけどね。あの頃の私は出来なかった」


「それ以来、絵描くの苦手?」



 彼女は首を縦に一度振った。何でも卒なくこなしてしまう、高嶺の花には弱点があった! ミーハーな新聞部員の連中が聞きつけたら、明日の見出しはこうなるのだろうか。新聞部なんてあったっけ。冗談はさておき、私は思考に集中する。


 匿名なものに対して、人間は無遠慮で無配慮になる節がある。だからこそ、ありのままを表現できるし、ありのままに評価されやすい。それは時に残酷な結果を生むこともある。


栞だって、描いたのが肖子しょうこだと分かっていれば、男子たちは馬鹿にはしなかったかもしれない。むしろ、可愛らしいとか、上手だ、味があるね。みたいな180度違う評価を得られたかもしれない。


 作品への評価なんてそんなものだ。誰が作ったのか。何歳なのか。男か女か。何作目か。人気はどうか。付随するキャプションは時に、中身にも多大な影響を与える。


仕方がないよね。作品が秘めている本当の価値なんてもの、創った本人にすら推し量ることなどできないのだから。


 もし、栞が低学年の生徒の手に渡っていたら、無邪気な笑顔で喜ばれていたかもしれない。


 そう考えると。作品の価値を、自分の粗末な価値観だけで判断したとも思わないような男子たちの反応も、無邪気な笑顔と言えるのかもしれない。


 それはそれとして。肖子しょうこのクマさんを見られないのが悔しいし、馬鹿にしたそいつらが不幸になれとも思う。なによりも、私の大切な人が、今生抱えて生きていくような記憶の中に、お前らみたいなものがいることが許せない。



「──殴ってやりたいよ。できないけど」


「へ? また考え込んでると思ったら、急にどしたの?」


「ううん。ショーコと同じ、小学校だったら良かったなって」


「えー、マヤと同じね……。やだよ、厄介だもん。当時の私にはとても捌ききれないよ」



 彼女は笑いながら、こちらへ体を向けて、腕でバツ印をつくる。首を傾げると長い黒髪がひらりと跳ねる。何度彼女に厄介だと言われても、悪い気はしない。面倒な私。それでも良いと肯定されているような気分になるからだ。



「ねぇショーコ? 絵、見せてよ」


「えー。嫌だって言ってるでしょ」


「わ、私。見ようと思えば今見れたんだよ。腕上げた瞬間!」


「じゃあ、何で! 見なかったのさ」


「──っそ…………れはさ」



 彼女はグイッと私の方へ身を乗り出す。私は思わず、椅子から落ちる限界まで身を引く。大きな二つの黒色は決して私のことを離しはしない。



「…………嫌われたくないから」



 切実な願いだった。あなたの記憶に私が残ったとしても、思い出すのが苦しい思い出の中には居たくなかった。私はじっと彼女の返答を待つ。



「私がすぐにマヤに見せなかったの。マヤが悪いんだからね!」


「へ?」



 肖子しょうこは机に向き合うと、紙を拾い上げて、こちらへ見せる。



「……!」



 そこに描かれていたのは、風に揺れる木々と金魚、風鈴。夏の昼間を感じさせるモチーフが連なっていた。



「わ、私があげたハンカチ?」



 私の問いに彼女はニヤリと笑った。目線を下ろした酷くアンニュイな顔。



「そう。だってあの柄はあなたから見た私のイメージそのものなんでしょ」



 私の頭に付いているヘアクリップが光ったような気がした。これは私が肖子しょうこに貰ったものだ。夜空に輝く星をあしらったデザインの宝物。



「ごめん。私気に入りすぎて」


「分かってるから、マヤが大切にしてくれてることくらい。あなたの今を飾ることができて、わたしは十分嬉しいからさ」



 言葉が返せなかった。吃っているからではない。返す言葉が分からないからだ。彼女は私が夜空をモチーフとした絵を描いていることを期待しただろうか。



「どうなの? 私の絵は。あんなに見たかったものだよ」



 私はもう一度、絵を良く見る。



「この金魚私すき。目がおっきくて、なんだか──」


「えー!」



 肖子は驚きの声をあげた。



「どうしたの!」


「これ、デメキンじゃなくてリュウキンなんだけど!」


「え! あ、出目金じゃなくて琉金……! いや、違くて! 飛び出しててカワイイじゃなくて!」


 

 琉金。これまたポピュラーな金魚である。しかし、肖子が描いた金魚は明らかに出目金だ。目が飛び出していてカワイイし、そこがいいのだが、彼女が琉金をモチーフとして描いたのなら大事件だ。



「やっぱりわたし、絵ダメなんだね」


「い、いや、カワイイんだよ。すっごくね。いいじゃん私には出目金に見えただけで、ほら、見た人の感性にね、よって変わるとかあるんじゃない?」


「あ、そういうこともあるか! よし、ちょっとみんなに見せてくる」


「しょ、ショーコ……」



 肖子はすぐに席を立つと、絵を持って他の机へ向かった。案の定、みんなが金魚に触れ、出目金が上手い、可愛いといった感想を口にした。



「え、あ、うん! これはデメキンよ!」



 席に戻ってくる頃には、肖子の琉金は出目金へと姿を変えていた。



「まぁ、みんな絶賛してるみたいだし、いいんじゃない?」


「そ、そうだよね。うん! あー、あの頃より絵上手くなってて良かったー」



 肖子は腕を上げて伸びをする。もしかしたら、肖子はクマさんを描いたつもりでも、みんなには何か違うものに見えただけかもしれない。小学生の浅い知識の中で評価された、あの栞にはまだ、検討の余地があったのかもしれない。



「ショーコ、ありがとね。私もハンカチ気に入って使ってくれてるの知ってるから」


「うん。擦り切れるまで使うつもり。私も頑張らなきゃ」


「なにを?」


「スチームパンク? や彼にも勝てるような。すんごいものをマヤに教えたいからさ」


「ふ。根に持ってるでしょ」


「いやさ、結構強烈な体験だったと思うんだよね。ロリータ服」


「っ! もーう、やめてよ。それは二人だけの内緒でしょ」



 肖子は恥ずかしがる私を見て、満足げな表情を浮かべ「二人ね」と、含みを持たせた言い方で呟いた。


 やっぱり、私は君が後生抱えて生きるような思い出になりたい。

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