ナイトクラブの夫婦 2
初日の、それも平日ながら、十九時のオープンからノスタルジック・ナイトは大盛況だった。若い常連客はもちろんだが、特に六十~七十年代当時をリアルタイムで過ごしたと思しき年配のお客さんが、いつも以上に多い。中には孫と連れ立ってのペアやグループもいて、館内に入るなり、
「おお、懐かしい! 『マイ・ガール』だ!」
「ローリング・ストーンズは、あんたたちの世代でも知ってるんじゃない?」
などと嬉しそうに語り始める姿も、頻繁に見受けられる。DJブースからワンが流す音楽は、アーステーブルとユア・ヘヴン以外のすべてのフロアへ届くようになっているのである。
VIPルームも例外ではなく、普段はせいぜい一組か二組というオープン直後の時間帯にもかかわらず、今日は早々に六つものテーブルが埋まっていた。もちろんダンスフロアを上から見通せるダンスビュー・エリアは、四つすべてが利用中もしくは予約済みだ。
「『懐かしのディスコフード』という限定メニューですが、こちらは名前の通り、かつてのディスコで提供されていたようなお食事になります。ピラフや焼きそば、カレーにナポリタンといった、昭和の定番メニューを是非召し上がってみてください」
「高木さん、ピーシャンもライシャンも、手前のボトルから出しちゃっていいんですよね?」
「五卓の高橋様、お誕生日だからケーキサービスも忘れないで!」
岳と結子も含めて、今日は五人出勤しているVIP担当のアルバイトスタッフも、全員が既に大忙しだ。ホールでもバックヤードでも、大小の声が盛んに飛び交っている。
「悪い、岳君。次のお客様がいらっしゃる時間だから、お出迎えとアテンドよろしく」
岳が高木から指示を受けたのは、いかにも昔のアメリカン・ディスコっぽい、けれども明日美の手によるため味は絶品の、『ディスコティック・ハンバーガープレート』を運び終えたあとだった。あまりの慌ただしさに、今日はチーフの彼みずからフードやドリンクを運ぶ場面も増えている。
「わかりました」
素早く頷いた岳は、急いで出入り口へと向かい扉を開いた。たしか二十時からのご予約は――。
ほぼ同じタイミングで、二階フロントの大井川チーフからインカムが入る。
「二階、大井川です。二十時から五階ご予約の西島マナミ様とお連れ様、チェックインされました」
「五階蓮山、了解です」
ピンマイクに素早く返してから一分と経たないうちに、正面のエレベーターが開いた。
「こんばんは、岳さん!」
キュロットパンツにノースリーブのカットソー、足下も踵の低いサマーサンダルという、踊る気満々のスタイルで現われたのはマナミである。
「いらっしゃいませ、西島様」
「もう、マナミでいいって言ったじゃないですか」
「あ、すみません。こんばんは、マナミさん」
最近ようやく慣れてきた呼び名とともに、岳はマナミの隣にも笑顔を向けた。そこにはアロハシャツを粋に着こなした年配の男性がいて、しかも彼女にしっかりと腕を取られている。
「紹介させてください。私のおじいちゃんです」
「こんばんは。孫がいつもお世話になっています」
「こんばんは。とんでもありません、こちらこそ、いつもマナミさんにはお世話になっております。ようこそ、リベルナ東京へ」
男性にお辞儀を返しながら、岳は「へえ」と内心で大いに感心させられていた。
さすがと言うべきか、マナミの祖父はお世辞抜きに格好良い人だった。孫娘に似て顔立ちがくっきりしているし、脚も長くてスタイルがいい。髪の白さから相応の年齢だとはわかるが、そうでなければ五十代前半といってもじゅうぶん通用しそうなくらいだ。
すると、岳の胸元にちらりと目をやったマナミの祖父が、浮かべていた笑みをさらに深くした。
「あなたが蓮山さんですね。この子がいつも、岳さんが、岳さんが、って話してくれるんです。なるほど、いい男だ」
「ど、どうも」
曖昧なリアクションしかできない岳の眼前で、「もう、おじいちゃん! 岳さんが困ってるじゃない!」とマナミが祖父の腕を揺する。なぜか岳は、ほぼあり得ないにもかかわらず、周囲に芹奈がいないことを確認してしまった。
「あの、お二人とも、どうぞこちらへ。今日はダンスフロアが見える方のお席を、ご用意させていただきました」
頬を赤くするマナミを逆に正視できず、岳はあたふたと仕事の話に戻ってごまかした。そのまま先に立って歩き始めたタイミングで、結子と、やはり同僚の越知という男性アルバイトがこちらを見て笑っている様子が窺えたが、あえてスルーしておく。
「わあ!」
「ほう、あんなミラーボールまで」
《Reserved》という三角プレートを立てておいたダンスビュー・エリアの席に案内すると、落ち着きを取り戻したマナミはもちろん、お祖父さんもぱっと顔を輝かせてくれた。膝から下の目隠し部分を除いてほぼ全面がガラス張りになっているテーブル横から、ノスタルジック・ナイト限定でわざわざ取りつけた、これまた昔ながらの巨大ミラーボールがよく見える。もちろんその下では、乱反射する光を浴びて沢山の人々が楽しそうに踊っている。
「あ、ワンさんだ! こんばんはー!」
DJブースから顔を上げたワンが、こちらに気づいたらしい。すっかり常連のマナミとガラス越しに手を振り合う。隣に立つお祖父さんとも会釈し合った彼は、直後に流れるような動作で手元のマウスを操作した。
流れていた音楽がちょうどいいタイミングでフェードアウトし、次の瞬間、岳たちの真正面に位置する大型スクリーンに、何かの映像が映し出された。
スパイ映画のようなBGMとともに、三×三列で映し出される男女九人の顔。それが一文字ずつのアルファベットに切り替わり、『URAHUNTER』というロゴが完成する。高層ビルをバックに彼らが横一列で微笑んだあとは、役名と演じる俳優の名前とともに、一人一人がフィーチャーされるアクションシーン。
「『裏ハンター』だ!」
「懐かしい!」
「九十九里誠一、若い!」
ダンスフロアから歓声が上がり、ふたたびこちらに視線を向けたワンが、得意げにウィンクを送ってくる。
「おお、裏ハンターか。私も毎週観てたなあ」
マナミのお祖父さんも相好を崩し、ありがとうございます、とでも言うようにワンに向かって再度会釈した。ワンはお祖父さんたち世代へのサービスとして、当時人気だったドラマのオープニング映像を流してくれたようだ。
「さっすがワンさん! お礼もしなきゃだし、さっそく踊りに行っちゃおうかな。おじいちゃんも一緒に行こうよ!」
「じゃあ、そうさせてもらおうか。同世代のお仲間も多いようだし」
祖父の同意も得たところで、くるりと振り返ったマナミが、豊かな胸の前で可愛らしく両手を合わせてくる。
「ごめんなさい、岳さん! ドリンクとかフードとか、踊ったあとの注文になってもいいですか?」
「もちろんです。ご遠慮なく、ダンスフロアも存分に楽しんでください」
「はい! ありがとうございます!」
にっこりと頷いたマナミは、「行こう、おじいちゃん!」と祖父の手を引いて、嬉しそうにダンスフロアへと下りていった。ぱっと見だけでなく足取りもしっかりしているお祖父さんなので、階段の利用もダンスもまったく問題ないだろう。ノリのいいマナミのことだから、逆に二人でど真ん中に進み出て喝采を浴びてしまうかもしれない。いずれにせよ四階のスタッフも優秀な人たちが揃っているし、なんの問題もなく楽しんでもらえるはずだ。
《五階、蓮山です。VIPの西島マナミ様、お連れのお祖父様と一緒に、四階ダンスフロアへ下りられました。一応、報告まで》
素早くインカムを飛ばし、階段の踊り場から手を振ってきたマナミに同じ仕草も返してから、岳は次のサービスに向けてまた動き始めた。
一組の夫婦について岳が気になり始めたのは、さらに一時間ほど経ってからのことである。マナミたちのあと、二十時三十分にVIPルームへ入ってきたその老夫婦は、石川の知り合いだという初めてのお客さんだった。
「越知さん」
アルバイト仲間では一番の古株であり、VIPルームのサブチーフも務める越知聖之輔とすれ違ったタイミングで、岳はあらためて状況を確認してみようと思った。
「うん?」
「一卓の小門様ですけど、どんな感じですか?」
「え? どんなって言われてもなあ。別に問題はないよ。アルコールは召し上がらないけど、お二人で音楽を聴きながら、まったり楽しんでらっしゃる感じかな」
猿顔の越知が、くりっとした目を回すようにして答える。身体も小柄な彼は、本当に猿のような素早さで各テーブルを回りながら、お客さんたちのご要望を先んじて察する優秀なサービスマンだ。年齢も三十近いし、むしろ社員になってもおかしくないほどの人なのだが、いつかは自分のバーを持ちたいという夢のために、アルバイトという形の契約を本人が希望し続けているのだという。
越知が逆に尋ねてきた。
「なんで? なんか気になるの?」
「あ、いえ。それが珍しいなって、ちょっと思っただけです」
「まったり楽しむスタイルが、ってこと?」
「はい」
岳が気になっているのは、まさにそこだった。カーテン席の一卓に入った小門さん夫妻は、ずっとテーブルから動く様子がないのである。
「年齢的なものもあるんじゃない? お二人とも七十は超えてる感じだし」
「でも、歩き方とかは全然問題ないですよね。靴だってウォーキングシューズっぽいのを、お揃いで履いてらっしゃいます」
「ああ、なるほど。たしかに」
越知にささやかな反論をしながら、岳は小さく首を傾げるしかなかった。
マナミたちのように入店後すぐ踊りに行くほどではないにしても、せっかくノスタルジック・ナイトに来てくれたのに、ダンスフロアを覗かないのはやはりもったいないのでは、と思ってしまうのだ。今言った通り、夫婦どちらも足が悪いふうにも見えない。
もちろん明日美が用意してくれる数々のフードや、三階のイケメンコンビによるドリンク類は、贔屓目抜きにして絶品と言っていい。けれども、ただでさえ古きよき時代のディスコらしさを色濃く残すのがリベルナという店だし、盛り上がっている四階にも是非足を運んでもらいたい、というのが正直な気持ちだった。
「オッケー。楽しみ方は人それぞれだし、もちろん無理強いはできないけど、俺の方でも気にかけてみるよ」
「すいません、逆に余計なお世話かもしれませんが」
「いやいや、ちゃんとお客様のことを見てる証拠じゃん。ていうか岳君、そろそろ休憩じゃない? 小門様のことも任せて、今のうちにしっかり休んできなよ」
言われて壁の時計を見ると、たしかに二十一時を過ぎていた。今日の岳は早番なので、終電間際の二十三時三十分までの勤務シフトだ。リベルナは月曜が定休日、火・水・木・日曜日が深夜零時まで、金・土曜日のみ朝四時までという営業スケジュールで、むしろ金・土は岳も遅番勤務で入る場合の方が多い。だが今日は「イベント初日だし、スタートの時点でベストメンバーを揃えておきたくてね」という高木の意向もあって、越知や結子とともに早番となっている。見たところ他のフロアもこなれたスタッフばかりなので、石川からも指示が出たのかもしれない。
ともあれ岳は、お言葉に甘えて予定通りのタイミングで休憩をもらうことにした。