ナイトクラブのアイドル 3
ささやかな疑問を岳が抱いたのは、その後一時間ほど経ってからである。
「西島さんと秋野さん、お車とかじゃないよね? あ、けど仮にそうだとしても、さすがに自分たちでは運転しないか」
マナミと智花から追加オーダーを受けた岳が、カーテンの外に控えていた結子に注文用紙を手渡すと、やはり不思議そうな顔で尋ねられた。ダンスビュー・エリアでメインの食事を終えた二人は、他のVIP客も入り始めたからか、今はカーテン席へと移っている。
車の件に関しては本人たちに確認もしてあるので、岳はすぐに「ええ」と答えた。
「ここまでタクシーで来られて、帰りもその予定だそうです」
「ふーん。でもこれじゃ、クラブっていうより普通のレストランみたい」
結子が小さく笑うのも当然で、醤油ベースのドレッシングがよく合う『和風海鮮サラダ』や、スパイスの効いたアフリカ風ピラフ『ジョロフ・ライス』、野趣溢れる『骨付き羊肉のグリル』といった、アーステーブル自慢の料理をペロリと平らげたマナミと智花は、カーテン席に移動してからも、コーヒーをおかわりしながら今度は複数のスイーツを楽しんでいる。逆にアルコール飲料は一切口にしていない。
それこそが、岳も不思議に思うところだった。インタビュー記事や歌番組でのトークなどを見る限りだが、マナミは最近、
「去年二十歳になったので、今はカクテルにハマってます。美味しくて見た目も綺麗なオリジナルカクテルとかに出会えると、すっごく嬉しくて」
といったコメントをよく残しているからだ。岳たちVIPスタッフも事前にそうした情報は把握済みで、実際、彼女の公式SNSでは、青やピンクに彩られた綺麗なカクテルの写真も多数アップされている。
にもかかわらず智花とともに、ここまでお酒のオーダーはゼロ。
「三階にも行かなくていいのかな。イケメンコンビさんだっているのに」
小声で続ける結子に「ですね」と答えた岳だが、現状で特に問題がないことも伝えておいた。
「とりあえず今のところは、他のフロアに下りたいっていうご希望もないですし、コーヒーも含めてどれも凄く美味しいって、お二人とも食事に夢中です」
「ああ、うん。お皿が下がってくるの、早いもんね」
ふたたび笑った結子は「なら、いっか」と用紙を受け取り、カーテンで仕切られたバックヤードスペースの一つに向かおうとする。VIPルーム専用のバースペースとなっている場所で、アーステーブル及びユア・ヘヴンと料理やカクテルをやり取りする、「リフト」こと料理用小型エレベーターもそこに設置してある。
今回の追加オーダーは、ホットのチョコレートドリンクが二人ぶん。VIPルームの簡易バーでは用意できないメニューだし、ユア・ヘヴンもお酒がメインなので、ここまで同様、本職のレストランであるアーステーブルに用意してもらうしかない。
「あ、結子さん」
さっそくアーステーブルにオーダーを通そうとしてくれる彼女の背中を、岳は呼び止めた。
「うん?」
「一応、これも一緒に下ろしてもらえますか」
小首を傾げる結子に一枚のメモ用紙も差し出す。余計なお世話かもしれないし、少し迷ったのも事実だが、ダメもとでやってみようと思ったアイデアだった。
「何、これ?」
「念のためっていうか、ちょっと考えたことがあって。見てもらえればわかります」
「私も見ていいの?」
「はい」
「わかった。じゃ、一緒に下ろすね」
「ありがとうございます」
微笑んだ岳は、小さく頭を下げてからマナミと智花のいるカーテン内へと戻った。結局、流れのまま本当に岳が、彼女たちのカーテン席担当となったのである。だからこそ、できる限りのサービスをしたいと思う。
結子に渡したメモに、岳はこう記していた。
《他のノンアルコールドリンクで一階からのお勧めとか、無料でサービス可能なものとかはありますか? 五階の西島様と秋野様が、ずっとコーヒー系ばかり召し上がっていらっしゃるので。五階・蓮山》
「蓮山さん」
カーテン席内に戻った岳は、待ち構えていたようにマナミから声をかけられた。智花も柔らかな表情を向けてくる。引き続きスイーツタイムを満喫中の二人は、今はキリマンジャロとモカのホットコーヒーをそれぞれおともに、大ぶりのスコーンをシェアして食べているところだった。
「はい」
何か注文し忘れたメニューでもあったのだろうか、と岳はオーダー用紙を取り出しつつテーブルに素早く歩み寄った。このタイミングなら、手間のかかるものでない限りは、さっきのチョコレートドリンクと一緒に上げてもらえるはずだ。
しかしマナミが口にしたのは、まったく予想外の質問だった。
「あの、メニューに載ってないものでも、言えば作ってもらえたりしますか? カクテルみたいに」
「え?」
「あ、ごめんなさい! 無理ならいいんです!」
なんの話かわからず訊き返してしまった岳だが、可愛らしくあたふたと両手を振るマナミを見てすぐに理解した。
「ああ、フードやノンアルコールドリンクについても、ということですね。よっぽどマニアックなものでなければ大丈夫です。厨房の料理長は、かなり詳しい人間なので」
アーステーブル料理長にして一階チーフでもある、島明日美の顔を思い浮かべながら、岳は笑顔で答えた。直接彼女の下で働いたのはたった三日間だが、明日美が〝できる〟人だというのは誰もが認めるところだ。
アップにした髪をコック帽にきっちり包んで、てきぱきと部下に指示を下しながら次々と料理を仕上げていく明日美の姿は、きりりとした美貌も相まって凜々しい女将軍のような格好良さがある。芹奈から聞いたところによれば、バーテンやフロアスタッフのように直接接客する身でないにも関わらず、彼女の姿を見かけた、特に女性客からファンレターのようなものを預かってしまうことも少なくないのだとか。もちろん料理の腕自体も抜群で、明日美が作ってくれるまかない料理は、リベルナのスタッフ全員にとって大きな楽しみの一つになっている。
それほどの人なので、VIP客限定ながら「○○を使った料理が食べたい」「シェフにお任せで」といった声が出た際は、
「可能な限り対応するから大丈夫。ただしアレルギーや苦手な食材だけは、忘れずに聞いておいて」
と、明日美本人も言ってくれているのだった。
「メニューに載っていない料理で、何か召し上がりたいものが?」
以前にも同様の注文を受けたことがあるので、岳はさっそくメモを取る用意をした。きっと次もスイーツだろう。明日美はデザート作りに関しても一流なので、要望さえ具体的に伝えれば問題ない。
「ええっと、もしできれば、でいいんですけど――」
これまた魅力的な上目遣いで、マナミが訴えかけてきたとき。
「失礼します」とカーテンが開き、トレンチと呼ばれる丸形トレイを手にした結子が現われた。
「お待たせいたしました、チョコレートドリンクになります」
「え? もうですか?」
智花が目を丸くした通り、運ばれてきたのは先ほどオーダーしたばかりのチョコレートドリンクだった。まるで厨房が予想していたみたいな素早さである。
銀色のトレンチにはさらに、別のカップも二人ぶん乗っていた。エスプレッソ用と同じくらい小さな、外周とソーサーにカラフルな模様の描かれた、持ち手つきの小さなカップ。中には表面をきめ細かな泡で覆われた、やはりチョコレート色の液体が九分目くらいまでしっかりと入っている。色こそ違うが、小型のカプチーノみたいにも見える。
「こちらのターキッシュコーヒーは、厨房からのサービスだそうです。細かく引いた豆から直に煮出しているので、コーヒーの粉が底に沈むのを待ってから、上澄みだけ味わってください。表面の泡が少し消えたくらいが目安です」
「えっ!?」
同時に驚きの反応を示したのは、さらに目を見開いた智花と、そしてマナミだった。
一方で岳は、ぽかんとするしかない。
ターキッシュコーヒーなるものがどんな飲み物かは知らないが、またしてもコーヒー? それも厨房からのサービス?
「結子さん、これってどういう――」
思わず素になって尋ねかけたところで、マナミの声が被さった。嬉しそうに。
「すごーい! どうしてわかったんですか?」