ナイトクラブのアイドル 1
コンクリート製の床に、窓から差し込む夕陽がまだら模様を描いている。
「――五階VIPルームは、十九時にアイドルの西島マナミ様が、女性マネージャーの方とお二人でご来店予定です。どちらも当店のご利用は初めてということですので、館内全体でいいサービスを提供して、是非楽しんでいただきましょう。その他のご予約は常連さん方ばかりですが、担当スタッフはいつも通り、予約台帳で時間を確認しておいてください」
VIPルームチーフにして店全体のアシスタントマネージャー、すなわちナンバー2でもある高木俊一郎が、黒革の台帳を掲げて笑顔で伝達する。
「はい!」
他のスタッフたちと同じく、蓮山岳も大きな声で返事をした。まだ入店して二ヶ月ちょっとだが、ほぼ毎日シフトに入っていることもあって、意外と体育会系な店の雰囲気にもすっかり慣れてしまった。まったく知らなかったが水商売の、特に夜間営業の飲食店は、概してこんな感じらしい。
銀座随一のナイトクラブとして知られる、ここ『リベルナ東京』も例外ではなく、オープン九十分前の十七時三十分から始まる「朝礼」は、四階ダンスフロアに時間厳守で全員集合という規則になっている。しかもただ集まるのではなく、担当する各フロアごとにスタッフは一列縦隊を作り、その全員を前にしてマネージャークラスをはじめとする幹部たちが訓示、及び重要事項の伝達を行うという、本当に部活か自衛隊のような形式だった。
「ホストクラブなんかもそうだし、ちょっと高級なバーとかでも、朝礼はビシッとやる店の方が多いはずだよ。制服の身だしなみも細かくチェックされるんだ」
入店間もない四月、朝礼終了後に呆然となっていた岳に、高木がやはり笑顔で教えてくれた。「……って、俺もそういう店は、研修で短期間修行させてもらった程度だけど。ああ、もちろんホストはやってないよ。ホール係だけね」ともつけ加えながら。
その高木チーフ率いるVIPルームも含めて、リベルナは五階建てのビル全体が店舗、もしくは関連フロアとなっている。
一階はランチタイムから営業する無国籍料理レストラン『アーステーブル』で、レストラン内からのものだけでなく、ダンスフロアやVIPルームからのフードオーダーも、従業員たちが「リフト」と呼ぶ、料理用小型エレベーターによって引き受けている。具体的には、プラスチック製の大型クリップに挟んだオーダー用紙をリフトで下ろし、注文の料理やドリンクが出来上がり次第、チェックがつけられた用紙とともに、ふたたびリフトを使って該当のフロアへ届けるという仕組みだ。
二階は表側がクラブのフロントと荷物を預かるクローク、お客さんから見えない裏側に従業員用のロッカーや休憩室、運営事務所といったスタッフルームがある。
フロントから階段を上がってすぐの三階に当たる場所は、バーラウンジ『ユア・ヘヴン』。こちらはBGMも比較的落ち着いたものがチョイスされ、ゆっくりとアルコールやドリンクを味わいたい人向けの空間である。
そして岳たちが今いる四階がナイトクラブならではのダンスフロアで、バスケットボールコート半面ほどの広々とした空間を、バーカウンターにDJブース、大型スクリーン、いくつかのスタンドテーブルやカウンター席が取り囲む。ダンスフロアは吹き抜けになっており、周囲三方向からこちらを見下ろすガラス張りの席は、五階VIPルームの一部だ。
ビルの最上階でもある五階VIPルームは、その『ダンスビュー・エリア』以外もすべてがソファ席もしくは椅子席で、簡単なドリンクやカクテルならば直接提供できる専用バースペースもあるため、ユア・ヘヴン以上に落ち着いた雰囲気で食事を楽しめるよう、配慮されている。また、ダンスビュー・エリアには四階への直通階段もあるので、踊りたくなったVIPはすぐに下へ行って参加することができる。
《銀座という街に相応しい、大人の客がスマートに楽しめるクラブ。メインを務めるDJワンの選曲もセンスがいい》
《かつての人気店『ベルナデッタ』の雰囲気を色濃く受け継ぐ、まさに〝Re・ベルナ〟の名に恥じない上品なナイトクラブ。ドレスコードもあり、クラブ初心者の女性にも安心してお勧めできる》
《惜しまれつつも閉店した六本木ベルナデッタから、優秀なスタッフが数多く移籍している。当然サービスの質は一流で、外国人にも人気が高い》
二年前のオープン以来、各種メディアによるレビューはもちろん、ネットの口コミなどでも、リベルナ東京の評価はかように高い。立地や設備もさることながら、記事にもある通り、総支配人の石川航平ゼネラルマネージャーをはじめ、業界ではそれと知られた幹部スタッフが揃っている事実が何より大きいのだろう。
かくして「健全に夜遊びしたければ、リベルナへ」というのが、特に銀座近辺で働く社会人たちの間では、すっかり根づいているらしかった。
「じゃあ、あとは私から」
一階のアーステーブルから順に、各チーフが伝達事項を話したところで、その石川が一歩前に進み出た。石川は四十代半ばの大柄な男性で、肩幅の広い身体に、ナイトクラブの幹部らしいダークカラーのワイシャツ&ネクタイ姿が完璧に馴染んでいる。ただし強面というタイプではなく、彫りの深いひげ面を崩して笑う姿は存外人懐っこいし、岳たちアルバイトの名前もすぐに覚えて優しく接してくれる、気のいい親分肌といった印象のトップだ。
「キンキンさんの動画チャンネルが取り上げてくださったこともあって、アーステーブルでのご飲食のみというお客様も増えています。ピークタイムは厨房もホールも相変わらず忙しいと思うけど、どうしても手が足りなければ、引き続き他のフロアから応援に回ってもらったりもするので、どうか頑張ってください。みんなのお陰で今のところクレームはないし、ネットを確認した限りでは料理やサービスに関して、むしろ嬉しいレビューばかりをいただけています。本当にありがとう。というわけで、今日もよろしく!」
「よろしくお願いします!」
先ほどと同じように大きく答えながら、岳は十メートルほど先にさり気なく目をやった。三人の同僚を間に挟んではいるが、視線を感じたらしくアーステーブル担当スタッフの列から、ちらりとアイコンタクトが返ってくる。
今日も頑張りましょうね。
とばかりに微笑む彼女――アルバイト仲間の東日下芹奈に、岳も笑顔で頷いてみせた。
朝礼が終わり、それぞれが持ち場のフロアへと戻る直前、芹奈の方から声をかけてきてくれた。
「岳さん!」
「お疲れ様、芹奈ちゃん」
「お疲れ様です。……って、まだお仕事始まったばっかりですけどね。あはは」
うなじのあたりでまとめたセミロングヘアを揺らして、芹奈が軽やかに笑う。男性としては小柄な百六十五センチの岳よりもさらに頭一つぶん背は低いが、スレンダーな肢体に真っ黒いワイシャツと細身のパンツが、相変わらず似合っている。
ナイトクラブのスタッフユニフォームは、伝統的に黒いものが多い。クラブを「ディスコ」と呼んでいた数十年前のような、古きよき時代の香りを受け継ぐリベルナも例外ではなく、アーステーブルの厨房スタッフを覗くほぼ全員が、黒一色のワイシャツもしくはブラウス、そしてパンツルックという規定である。熱気が立ちこめる四階ダンスフロアの担当だけはバーカウンター、フロア問わず襟なしのシャツでも可とされるが、やはり色は黒のみと決められている。
さらに各フロアのチーフ以上になると、夏場以外は黒色のジャケット、もしくはスーツの着用を義務づけられ、それこそが通称「黒服」と呼ばれる、幹部スタッフの証というわけだった。
「西島マナミさん、本物は写真とかよりもっと可愛いんでしょうね」
高木が言っていたアイドルについて、芹奈が目を輝かせて訊いてくる。二十歳の女子大生らしく、このあたりは興味津々のようだ。
「そりゃ、芸能人だからね」
苦笑とともに岳は答えた。まるで自覚はないようだが、芹奈ちゃんだって負けてないよ、とでも言ってやりたくなる。そんな台詞を軽く口にできるほど女性慣れしていないし、勇気の欠片もないのが悲しいところだが。
とはいえ、芹奈がチャーミングなのは誰もが認めるところで、男子ロッカーでも「一階の東日下さん、いいよね」「あんだけ可愛けりゃ、絶対彼氏いるんだろうなあ」などと、他のスタッフがよく噂している。女子高出身だからか、じつは今まで誰ともつき合った経験が無いという恋愛歴や、本当は食べることが好きで大学での専攻も家政学科、将来は管理栄養士を目指していること、ちょっと変わった名字に関する「祖父が京都出身なんですけど、あっちの地域にはちょっとだけある名字みたいです」といった情報などは、少なくとも男性スタッフの中では、岳だけが知る事実らしかった。
本人いわく、
「うーん。クラブで働く人って、お話とかは上手だけど、やっぱりちょっとチャラく見えるっていうか。あ、岳さんは別ですよ!」
だそうで、デートに誘われてもあっさりと断り続けているらしい。加えてアーステーブルの女性料理長にして、一階チーフも務める島明日美が、
「うちの子たちにちょっかい出したら、ただじゃおかないよ」
と、タカラジェンヌばりの凜々しい目を、常に鋭く光らせているのもあるようだ。
それほどまでにガードの堅い芹奈と岳が仲良くなったのは、ひょんなきっかけからだった。
二ヶ月ちょっと前に大学を卒業した岳は、思うところあって定職に就かずフリーター生活を選択、そこそこ高い時給と昼間の時間が使えるという条件に惹かれて、リベルナに新人アルバイトとして入店した。ただ、学生時代にカフェでのバイト経験こそあったものの、夜の飲食店業界に関してはまるで素人、カクテルの名前などもほとんど知らない自分を、総支配人の石川がなぜ採用してくれたのか、理由はいまだにわからない。
いずれにせよ都内有数のナイトクラブ(という知識すらなかった)で働くこととなった岳は、最初の半月ほどは「君の適正を探らせてくれ」という彼の意向もあって、各フロアを数日間ずつ、順繰りにヘルプ勤務させられたのである。
「医者だって研修医のうちは、いろんな科で勉強するだろう?」
とも石川は言っていたが、ナイトクラブと病院を一緒にするのは、さすがに無理があるのではないだろうか。
内心でつっこんでしまった岳が最初に送り込まれたのが、一階の無国籍料理レストラン、アーステーブルだった。
だが予想に反して、三日間のヘルプ勤務中、岳はかなりスムーズに働けた。多少なりともあった飲食店での経験に加え、芹奈をはじめとする先輩スタッフたちからの指示が常に具体的でわかりやすかったこと、銀座という土地柄からか、お客さんたちも上品で余裕のある人たちばかりだったことも大きい。何より、店内全体を広く見渡しながらサービスを必要としているテーブルを見つけ出すのが得意という、持ち前の視野の広さが周囲からも好評だった。
慣れてきた最終日などは、こんな出来事もあった。
夕方前の比較的空いている時間。ママ友らしき二組の主婦がお喋りに興じるテーブルへ、食後のドリンクを持っていきつつ、岳は二枚のナプキンを「はい、お二人にはこれも」と隣の席へすっと差し出した。
「わあ! 夏三郎だ!」
「小豆ちゃん! めっちゃ上手!」
小学校低学年くらいだろう、主婦たちはそれぞれの娘と思しき女の子を、一人ずつ連れていたのである。行儀のいい子たちだったが、メインの食事も終わってさすがにつまらなくなってきたようで、そわそわし始めている様子が見て取れた。真っ先にそれを察した岳は、手が空いている時間を使って、大人気アニメのキャラクターを素早くスケッチし、彼女たちにプレゼントしたのだ。
「まあ! ありがとうございます」
「すみません、お気を遣わせちゃって」
恐縮するお母さんペアに、岳も笑顔で首を振ってみせる。
「とんでもありません。今は空いていますし、私も描きたかったので」
頭を下げて「引き続き、ごゆっくりどうぞ」とホールスタッフのステイエリアに戻ると、続いて歩いてきたウェイトレスが、
「凄いですね! 蓮山さん、絵描きさんなんですか!?」
と、今の子どもたちと同じような笑顔で尋ねてきた。切り揃えた前髪と、少しだけ茶色がかったつぶらな瞳。初日の時点で、可愛い子がいるんだな、とひそかに感心していた同い年くらいの女性だった。
「いえ、ちょっとそういう勉強をしてるだけです」
「ひょっとして、美大とか芸大とかの学生さんですか?」
「この間卒業しちゃったので、今は単なる絵描き志望のフリーターですけどね」
苦笑とともに岳は肩をすくめた。
都内の総合系芸術大学で日本画を学んだ岳は、イラストレーターになるという少年時代からの夢を叶えるべく、様々なコンクールへの参加や、並行して企業への売り込みなどを行うために、あえてフリーター生活を選んだのだった。とはいえ同級生の多くも似たようなもので、絵の仕事だけで食べていくことを目指す仲間たちは、同じくフリーターやカルチャースクールの講師などを務めつつ、創作を続ける者がほとんどだ。デザイン学科出身者ならば、広告代理店や出版社にデザイナーとして就職できるケースもあるが、「プロの絵描き」という道は、大部分がフリーランスでの自立を目指すしかないのである。
ただし、そこは岳も最初から覚悟のうえだったので、必要以上の悲壮感を抱きながら生きているというほどではない。まだ二十二歳だし、少なくとも自分自身で見切りがつくまでは、やるだけやってみようと思っている。
これらの事情をすべて説明したわけではないが、ウェイトレスの女性は引き続き目をきらきらさせたまま、予想外の言葉をかけてくれた。
「でも、目標に向かって頑張ってるんですよね。格好いいなあ」
「ど、どうも」
ストレートに、それも魅力的な女性から「格好いい」などと言われたのは、初めての経験だった。頬や耳に熱さを感じながら、彼女の名前を脳内で確認する。「明日美さん」こと島チーフや他のホールスタッフからは、たしか「セリナちゃん」と呼ばれていたはずだ。初対面の際に、一度だけ聞いた名字はたしか――。
「あ、蓮山さん、私の名前忘れてるでしょう」
「そ、そんなことないです、セリナさん」
「じゃあ名字は?」
「……すみません」
いたずらっぽく笑った彼女は、隣に並んでホール全体へと目を配りながら、「最後に教えてあげます」とだけ伝えてきた。
そうして、ともにアーステーブルでの勤務を終えた二十三時半。二人してロッカールームへと戻る際に、「まだ配属が決まってないんですよね。明日美さんも欲しがってるし、是非一階に来てください」と岳本人が決めようのないリクエストをした彼女は、周囲を素早く見回したあと、二つ折りにしたオーダー用紙を差し出してきた。
「はい、答えです」
「え?」
「じゃ、お疲れ様でした! 他のフロアでも頑張ってくださいね」
胸の前で可愛らしく手を振った姿が、くるりと身を翻して女子ロッカーに消えていく。
きょとんとして開いた紙には、《東日下芹奈》という珍しい漢字を使うフルネームと、メッセージアプリのIDが記してあった。
彼女の希望に添うことはできず、五階VIPルームへの配属となった岳だが、以来、芹奈とは定番のメッセージアプリ『キズナ』でよく話すようになり、今では直接電話もする仲である。リベルナでのバイト歴は、向こうが半年ほど先輩ということもわかったが、
《私の方が年下だし、敬語じゃなくていいですよ。他の皆さんも下の名前で呼んでくれるし》
とのことで、お言葉に甘えてそうさせてもらってもいる。逆に芹奈は敬語のままなので、むしろ岳の方が先輩のような感じになってしまったけれど、そうしたやり取りも含めて非常に気の合う間柄だった。
ただし残念ながら、リベルナ以外で二人で会う関係、要するに世間では「デート」と呼ばれるような段階にはいまだに至っていない。向こうは勉学に励む女子大生だし、自分の方も様々なコンテストへの出品作を手がけたり、そうでなくてもポートフォリオと呼ばれる営業用のサンプル集を作ったりと、何かと忙しいからだ。
「芹奈ちゃん」呼ばわりさせてくれるだけでも、ありがたいと思わなきゃな……。
なんとも優柔不断なまま、それでもいつかは、とひそかに願いながらスマートフォンの通知表示に一喜一憂する岳なのだった。