第7話
女の内側を進んで、頭の方まで侵入る。ふと思い着いて女の目から外を覗けば、いつもと違う景色が映った。
───あぁ、ええな。こうやって人間の目で物を見るのはやっぱり見易い。
以前、人間に憑いたのは何年前だったか。打ち捨てられた祠を見付けて、後釜になって霊孤になってやろうと目指した時以来か。あの時は、ここの人間の世界の時代は慶長といっていたか。いつまでも野孤でいるのは口惜し過ぎる。
霊孤は仮にも神の眷族。人に憑き、人を殺めては霊孤への道は遠くなるやもしれん。けれど、弱過ぎる人間にも責任がある。己も徒に憑き殺したりはもうしていないが、侮辱した相手をそのまま野放しにしておくことも出来ぬ。云うなれば、今回はこの女への仕置き。
そして、それを邪魔する見当違いな雜霊雜鬼どもの制裁。稲荷大明神も己の事情を慮ってくれるやろう。
女の目から見ていると、昔の己が思い出されてくる。
己が騙した間抜けな人間。騙されているとも気付かずに、感謝の言葉を送ってくる。それが騙されたと知るや、醜く顔を歪ませて相手を罵る。その間抜け面。己の狐の姿を見せると襲い掛かってくるくせに、姿を現さず、如何にもそれらしい勿体ぶった言い方をしてやると簡単に制される。
肉体的にも、精神的にも脆弱な人間。欲望にだけは果てしなく貪欲で。
ほぉら、この女の身体も変貌してきた。狐に憑かれた人間───狐憑きに。目は吊り上がり、口は大きく裂け歯が伸びる。全身の産毛が伸び、背骨が丸まった。
あぁ、ええな。狐憑きに相応しい姿になってきた。
狐憑き───人間が、憑いた狐のものになる。それが狐憑き。狐に憑かれた人間は、狐の嫁になると言われる所以。久方振りの己の嫁。嫁といっても、人間の考える嫁とは違う。嫁はあくまでも己の力の糧になる存在。壊れたりすれば、すぐに棄てる。そうしなければ、悪霊になった場合面倒になるから。けれど、壊れるまでは己の役に立ってもらおうか。
景色を見ていると、視界の隅で憑かれた人間同士が仲間割れをしていた。余程腹が減っていたか、口で物を食べるという魅力に抗えなかったか。どちらにしろ、雜霊雜鬼どもが欲求を我慢することなどないが。
伸びた爪で互いを傷付け、歯で肉を噛み千切っている。あっという間に床に血溜りが広がった。それを冷めた気持ちで見る。雜霊雜鬼どもにはそうしている方が似合いだ。
「……な、何だ!?」
嘲笑しながら塵芥どもの馬鹿さ加減を見ていたら、第三者の言葉が飛び込んできた。あぁ、思わず夢中になってしまっていたな。他の人間が入ってきたことにも気付かなかった。
担任と呼ばれていたこの女の首を回して、新しく来た人間たちを見やる。抵抗を感じたのは、この女の僅かに残った罪悪感みたいなものか。馬鹿らしい。散々無様な姿を晒していたくせに、矜恃だけは一人前か。
「な、何だよ、これ!? 先生ッ!?」
「え、何!? これって血!?」
さて、口封じをするか、空間を歪めるかどうしようか。そんなことを考える一瞬の刹那にも、雜霊雜鬼どもの行動は素早かった。
「ぎゃあぁぁッ!」
「嫌ぁぁ! 助けてッ!」
手に入れた身体を使って、自らの飢えを癒す。人間の口を、歯を使い、霊として生気を奪い。血を、肉を、咀嚼する。まさに血に酔う魑魅魍魎───
あぁ、どうしても……刺激される。血に、悲鳴に。人間たちの浮かべる絶望の目に。野孤から霊孤になってやろうと、野孤の時代に堪能していた遊びからは手を引いていた。人間を騙し、貶め、最終的に死ねばその霊をも手玉に取って。その時の高揚が甦る。
───……あぁ、もう一度、やってもええよな。
この女にとっての邪魔な人間は排除してやった。己のやり方でな。願いは聞いてやった。やったら、己のやりたいこともやっていいはずや。己はまだ霊孤やない。
この女の身体を使って飛び掛かる。跳躍をするために踏ん張った足首が、それだけの衝撃で折れたようで、バランスが崩れた。首を狙って行ったのに、牙を立てられたのは腹だった。
「嫌ぁぁッ! 先生、止めてッ!」
「これ、本当に先生かよッ!? こんな顔じゃなかったぞッ!?」
己が憑いているんだから、顔立ちが変化するのは当たり前だ。そんなことにも気付けない馬鹿な人間どもよ。
「こ、こいつらも……もしかして、こいつA子かッ!?」
「嘘! そんなはずないよ! こいつら化け物みたいじゃないッ!」
狭い教室の中は、まさに阿鼻叫喚の図。あぁ、愉しい。あぁ、面白い。人間は昔から変わらない。変われない。
取り敢えずここに居る人間たちの生気は全て糧として頂くとするか。野孤の本性を取り戻したあとではまた一苦労だが、また霊孤も目指そう。
霊孤になれば、神の眷族の一員だ。誰も己を侮ることは出来ない。侮辱したり不敬を働けば、天罰を下すことも出来る。あぁ、楽しみだ。
それを思えば、この女が祠へ参拝したのは本当に良い切欠だったな。自己中心的な考えそのものだったが、そこだけは褒めてやろう。あとは、己が手に入れた、己の嫁になったこの身体を最後まで使い切ってやる。
あぁ、愉しい。本当に馬鹿な人間どもよ。孤狗狸などと適当な霊を呼び出して自分が喰われてりゃ世話ないな。そもそも孤狗狸などという霊なんぞ居ない。居るのは力も無いくせに欲望や怒りだけを募らせた雜霊雜鬼どもよ。そんなモノを呼び出していれば、いつかは暴走して自滅するは明白な理。
あぁ、馬鹿だ、馬鹿だ。己は愉しくて堪らない。
───孤狗狸さんなど、やってはいけない。
孤狗狸などと云っても、実際どんなモノが近寄ってくるか判らない。
占いというのはお呪い。お呪いは呪い。呪いは呪術。
しくじれば、全てが自分に返ってくる───……