第5話
A子を見た生徒は、いつものA子ではないと思っただろう。いつも小綺麗にしているA子は、一度たりとも化粧を施していない顔で登校してきたことはない。髪も梳かしていないなどとは有り得ないだろう。自慢の長く艶やかな爪先は、何か硬い物を触ったのか全て折れていた。
異様な立ち姿。
彼女は渇いた口から「お、おはよう……」と何とか絞り出す。いつもなら「おはよー。今日はまともに勉強したいわね、えっちゃん」と嫌味を返してくるのを、A子は沈黙を通す。
A子が教室の中に入ってきた。彼女は怯みつつも、いつもと違うA子の様子に何故か優越感を感じた。今なら威厳を取り戻せるかもしれない。
「……あ、朝の挨拶は!? ちゃんと言いなさい!」
薄汚れた赤い前掛けと破った狐狗狸さんの紙をA子の机に押し込んだ、という事実が彼女に力を与えていた。微々たることでも仕返しが出来た。吃りながらも精一杯大声を出す。
「わ、わた、私はあなたの担任ですよ! きちんと敬意を払いなさいッ!」
教師としての、大人としての矜恃。プライドを取り戻すための戦い。そのためには今、A子に立ち向かわなければ。何か判らないけれど、A子は今弱っているように見える。いつもは嫌になるくらい完璧に磨き上げているのに、今日はそんなオーラもない。珍しいことに今日は取り巻きのひとりも居ない。
いけるかも。否、かも、ではない。このまま教師としての誇りを取り戻す。今のこの瞬間は、絶好の機会だ。彼女は握り拳に力を入れた。
顔を上げたA子には、表情がなかった。黒目の焦点は合わず、だらりと開いた口からは涎を垂らしている。それを見て、彼女はようやく異変を察した。
「な、に……?」
自身の身の危険を感じて後退る。決して、生徒の身を案じて近付くことはしない。そのA子の口から、何か黒い靄が溢れた。何、と思う間もなく次々と溢れてくる。溢れたそれは、どこか狐のような形を作った。その形を見た瞬間、彼女は怒りに支配された。
失敗したんだ! 狐狗狸さんなんてくだらない遊びをしてたから、失敗したんだ!
失敗したら呪われるという話だが、担任としての彼女に生徒を心配する気持ちは微塵もない。あるのは、腹の底からの怒り。
馬鹿馬鹿しいことばかりしているから! 私に迷惑掛けてッ!
恐怖より怒りが勝った。黒い靄を掴んでA子に返してやろうと思い、一歩を踏み出す。その途端に、A子の机の中からより黒い靄が爆発するかのように吹き出した。
「!?」
悲鳴を上げる暇もなく、全身がどす黒い靄に包み込まれた。
何もない、漆黒の闇───……
包まれた瞬間、咄嗟に瞑ってしまった目を恐る恐る開く。刹那に飛び込んできたのは、自身のすぐ目の前に居たA子だった。眼前に立っている。
「ひッ!」
喉の奥で悲鳴がこびり着く。A子は下から焦点の合わない虚ろな目で担任を見上げていた。黒い靄の狐はA子の背後で揺らいでいる。
いつの間に入ってきていたのか、A子の後ろには取り巻き連中が並び立っていた。全員がボロボロの格好で、虚ろな目をしている。担任は激しく鼓動する心臓を押さえて、悲鳴が漏れないように必死に堪えた。
見くびられてはいけない。私にもプライドがある。これ以上侮られるのはご免だ!
今までにない強気さで、担任は目の前の生徒たちを睨み付けた。何故か心が高揚している。どす黒い靄に包まれた瞬間は動揺したが、包み込まれたあとは妙な闘争心が沸いていた。闘争心……というよりは、憎しみに近い思い。日頃感じている理性は黒い靄に吸い込まれてしまったようだ。
「何よ、あんたたち! 私に向かって何のつもり!?」
怒りが頂点に達した担任は、いつにない大声で叫んだ。こんな風に誰か他人を怒鳴り付けるなど、生まれて初めてのことだった。
けれど大声で怒鳴っても、目の前の生徒たちは全く変わらない。虚ろな目を担任に向けて、どこか呆けた表情を浮かべているだけ。
カッとした担任は、躊躇いなくA子の頬を思い切り叩いた。叩かれたA子は床に転がる。その無様な姿。信じられないことに、床に転がったまま反撃をしようとしない。取り巻き連中も同様だ。
攻撃心と嗜虐心が激しく揺さぶられる。教師として、生徒に理不尽な体罰を加えてはならない……そんな理性はどこかに消えてしまった。そのまま続けて打撃を加えようとした時───
狐の形になっていた黒い靄が、ガバッと口を開いて担任を頭から呑み込んだ。
「……ッ!?」
悲鳴すら上げられず取り込まれる。取り込まれたのは担任だけではなかった。床に這っていたA子も取り巻き連中も一緒に靄の中に居る。しかも、各々が担任にしがみついて全く身動き出来ない状態だった。それを見て、再び担任の怒りに火が着く。
「離しなさいッ!」
口を開けた瞬間に、黒い靄が口の中に侵入ってきた。恐ろしいほどの圧迫感が全身を襲う。口を閉じたいのに閉じられない。
目の前には狐の形の靄。狐のはずだ。狐狗狸さんのはずなのだから。なのに、全く狐には見えない恐ろしいモノが居る。
落ち窪んだ眼窩は暗く爛れて、耳まで裂けた口には尖った歯が無数に並んでいる。顔の上にある耳は酷く細長くなっていた。
別に担任は動物に詳しくない。狐の顔の特徴もそんなによく知らない。知らないが、これは確実に狐ではないということは判った。そんなモノが、自分の身体の中に侵入ってくる。抗いたいのに、押さえ込まれていて抗えない。
何かが思考を覆ってくる。暗い、昏い───歪んで穢れた思考。
穢れた何かが、喜んでいる。贄になった担任の身体の内側から、歓喜の声を上げている。
何を言っているのか、何に喜んでいるのか言葉としては判らないけれど、思念は伝わってくる。
───手に入れた。手に入れた! 人の身体を手に入れた!
その狂った思考に……戦慄した。