第4話
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。
学校を飛び出し、無我夢中に走っていると、ふと道端に目がいきました。今までは気にも止めなかったもの。そこに在ることさえ知りませんでした。道祖神? お稲荷さん? よく判りませんが、これだ、と思いました。狐狗狸さんが狐の霊だというのなら、こっちも狐で対抗するのです。
狐狗狸さんなんて居るわけない。気が触れたようになった生徒が居るのも、集団ヒステリーのようなことが起こったのも、全部全部気の迷いです。思春期の子どもにはよくあることです。本当に面倒臭いんですから。
A子たちがクラスメイトの秘密を知っているのも、何か卑怯な手を使って知っただけです。狐狗狸さんに聞いたなんて馬鹿げています。けれど、今のあのクラスは狐狗狸さんを信じています。私が何を言っても歯牙にも掛けず、まるで盲目的に信じています。
今日、私のことで狐狗狸さんをやると宣言されたのに、当の私が何も対抗手段を用いなかったということが判れば、また馬鹿にされます。
なので、馬鹿馬鹿しいと思いながらもこんなことをするしかないのです。
あんなクラスに当たるとは全く思っていませんでした。新学期が始まった時から私は不運だと思っていましたが、これは新学期が始まる前から私のこの一年は不運だと決まってしまっていたのです。クラスがあんな風だから、他のクラスにも先生にも馬鹿にされるのです。私の所為ではないのに! 私のクラスにA子なんて疫病神を入れた学校の判断が悪いのです!
学校から走ってきたのと、感情が荒ぶってしまったために余計に息が乱れます。こんなことも腹立たしい。私が走って教室を出る羽目になったのもA子の所為なのですから。
何とか息を整えて、道端にひっそりと建っている犬小屋のような小さな祠を見つめました。
……本当に、犬小屋みたいです。こんなボロボロなもの、私の家の隣の犬小屋の方が遥かに立派です。いつも私に吠える馬鹿犬ですが。
そういえば、狐狗狸さんの狗は狗なんですね。しょせん犬です。私だけに吠えてくる犬。狗だなんて格好付けていっても、あの馬鹿犬の仲間の狗です。何をこんなに怖がっているのでしょう。
本当に、全てに腹立たしい。
頭の中は怒りで煮え繰り返っていても、利用出来るものは利用するべきです。深呼吸を繰り返してから、ボロボロの小さな祠の前にしゃがみました。
ここに祀られているのは何なんでしょう? でも多分、助けてくれる神様には違いありませんよね、きっと。神様みたいな大物じゃなくとも、神様の親戚とか、手下みたいなものが祀られているのでしょう。だったら頼っても問題ないですよね。狐狗狸さんも狐だというし。
祠の狐の像を拝みます。
こんな道端に雨ざらしで捨て置かれていて、きっとお詣りする人も居ないのでしょう。祠にはお供え物も何もありません。でも神様なら、きっと困っている人を助けてくれるはず。助けてくれたら、私が何かお供え物を持ってきてあげてもいいですし。
何て呼び掛ければいいのでしょう。神様? 狐さん? 道祖神様? それとも狐狗狸さん? まぁ、呼び掛けなんてどうでもいいですよね。
ねぇ、助けてくれませんか。私、今凄く困っているんです。狐が祀ってあるんだから、狐狗狸さんとかにも効果ありますよね?
私、狐狗狸さんの標的にされているんです。何の祠か知らないけど、同じ狐ですよね? 助けてくださいよ。同じ狐なのに、迷惑な狐ですね。本当か嘘かなんて知らないけど、人様に迷惑掛けるなんて。
神様は人を助けてくれるんですよね。私も助けてくださいよ。狐狗狸さんなんて退治してくださいよ!
ついでにA子にも報いを与えてよ! 散々私に嫌なことしてきてるんだから!
ハッと気が付いた時には、私はそう声に出していました。いけない、口にしてしまってはどこの誰に聞かれるか判ったものではありません。願い事というのは自分の胸の内だけで呟くものです。
───けれど、一種の清々しさもあります。
これが紛うことなき私の本心です。これぐらい、可愛いものですよね? 本当にA子には散々な目に遭わされてきているんですから。
お祈りをして顔を上げると、不思議なことに狐の像が変わっているように思います。狐の表情なんて判りませんが、何だか怒っているような? よく判りませんが、もしかしたら私の怒りに同調してくれたとか? だとしたら、この狐は私に味方してくれているんですね。
そんなことを考えて思わず頬が緩んで、自分も馬鹿だと思いました。私、何を言っているんでしょう。この狐もただの像。願い事がある時や初詣の時くらいは神様に縋ったり存在を信じたりするけれど、しょせんまやかしですよね。神様なんて居るわけないですし。
ちょっと気が晴れました。立ち上がろうとすると僅かに頭がふらつきます。案外座り込み過ぎて立ち眩みを起こしたようです。それもこれも全てA子と狐狗狸さんの所為です。
このあとは真っ直ぐ家に帰ることにしましょう。何処かに寄る気力もありません。真っ直ぐ帰って温めのお湯に浸かって、さっさと寝てしまいましょう。
嫌な現実の世界に、いつまでも起きていたくありません。
───……朝、起きると頭が重く、身体も妙に凝っていました。朝っぱらから嫌な気分です。
睡眠もたっぷり取ったのに、体調は芳しくありません。精神状態が良くないからに決まっています。A子の所為です。身体の調子は精神に左右されるんですから、何もかもA子の所為です。
行きたくもありませんが、仮病を使って休んだと思われるのも癪です。ノロノロと、学校へ行くための用意をしました。朝食を摂っても美味しくありません。
憮然としながら家を出て歩いていると、昨日の狐の祠がありました。今までもこんな処にあったのでしょうか? 全く関心もなかったので何も気付きませんでした。
ボロボロの祠を見つめていると、何故か段々と腹立たしい気持ちになってきました。目に見えない、居もしない狐狗狸さんなんかに振り回されている現実に怒りが募ります。
思わず手が伸びて、狐の首に掛かっている赤い前掛けを取ってしまいました。野晒しにされていた年月を物語っているように、何の抵抗もなくポロッと取れました。
何のための前掛けかは知りませんが、少し溜飲が下がりました。だってこの狐と同じ狐に私は苦しめられているんですから。これくらい可愛いものです。仕返しにもならないくらいです。それに、ただの像にこんなもの必要ありませんよね。
手に取った前掛けは、裏を返すと何か書いてあったような跡が薄っすらと残っているような気がします。気のせいかもしれません。取ったはいいけれど、気味の悪さも覚えました。汚いし。
そうだ、これをA子の机の中に入れてあげましょう。一矢報いるほどでもなくとも、少しくらいは反撃したい。この赤い前掛けは、それにうってつけです。触るのも嫌なくらいの汚い前掛けは、さぞや気味悪く感じるでしょう。
そう思い付いた時、私は冷えた身体が暖かくなる気がしました。そうよ、私にも出来る。A子にやられっぱなしじゃいられない。そう思いながら、私はついさっきまでは行きたくなかった学校への道のりを、足も軽く歩き出しました。
私は後ろは振り返りませんでした。だから───見ませんでした。怒りを纏った狐の像が、私を睨み付けて立ち上がっていたことを───……
教室に着くとやはり緊張します。けれどまだ誰も来ていないうちに、この赤い前掛けをA子の机に入れておかなければ。A子が机に手を入れた時の驚いた顔を思うと、頬が緩みます。どれほどの間抜け面を見せてくれるでしょう。
A子の机の前に屈んだ時、斜め前の席の椅子の下に白い紙が落ちているのが目に入りました。拾い上げてそれを見た瞬間、息を呑みました。
奇怪しい文字の羅列。A子たちが狐狗狸さんで使った紙です。
思わず息を止めていました。いえ、正確には呼吸をするのさえも忘れていました。A子たちは、私の何を訊いたのでしょう。狐狗狸さんなんて居ない、狐狗狸さんなんてインチキだと思っていても、他人が自分の秘密を暴くかもしれないというのは非常に不愉快です。
もし、私のあの秘密がばれたら……
いえ、ばれるはずがありません。誰にも言っていない、誰も知らないことなんですから。改めて、A子に怒りが湧きます。どうして人の嫌がることをするのか。家が金持ちだからとか、人より優れている容姿とか、どうしてそんなことだけで他の人間より優位に立っていると思うのか。お追従している人間も同罪です。
私は手にしていた狐狗狸さんの紙を破りました。破って、赤い前掛けと一緒にA子の机の中に押し込みました。たったそれだけのことですが、今までやられっぱなしだった私が初めて反撃出来たことに微かに満足していると……
ガタン、と激しい音がして、後ろの扉が思い切り開かれました。予期していなかった事態に心臓が竦み上がる思いです。そして振り返って誰が来たのかと確認して、私は確実に震え上がりました。
───A子が、立っていたのです。