第3話
「そういう遊びって、どんな……?」
取り巻きのひとりが、判っている上で敢えてどんな遊びか確めるように小さな声で訊き返した。
判っていながら。流石にそれは犯罪だと叫ぶ理性を押し込める。ここで怖気付いていることを悟られてはならない。悟られたら、あっという間にこの地位から転落してしまう。それを充分に理解していた。
「うふふ。だってぇ、そろそろ狐狗狸さんも飽きてきてたんだもん。みんなのこと色々訊いたからもういいかなって」
無邪気な顔で悪意を垂れ流す。狐狗狸さんでクラスの人間の秘密を暴きたてておきながら、飽きたの一言で片付ける傲慢さ。
「初めてだったらちょっと可哀想かなぁって思ってたけど、初めてじゃないなら、いいよね?」
誰かに許可をもらうことではなく、本人に許しを得ているわけでもない。仮に許しを得ていたとしても、人として許されるものではない。
人としての尊厳を踏み躙る悪意。
「……も、もう嫌ッ!」
「あ!?」
「ちょっと……ッ!」
ガタン、という音とともに三者三様の声が上がる。何かと思ってA子たちが視線を移せば、狐狗狸さんをやっているはずのひとりが椅子から崩れ落ちている姿があった。両手を床に着いて。つまり。
「ちょっと、まだ狐狗狸さん帰ってないのに……ッ!」
「おい、何で指離すんだよ」
A子の取り巻きたちが不機嫌も露に声を荒げた瞬間、空気が変わった。正式なやり方とされる方法で狐狗狸さんを帰さなかった。離してはいけないところで指を離してしまった。それは即ち───呪いの失敗。失敗した呪いは、呪いとして返ってくる。
ザワリ、ザワリと……空気が騒いで異変が深くなる。
「どうしたのぉ?」
この場に余りにも場違いな暢気なA子の声が響く。
「どうしたのって……狐狗狸さん失敗しちゃったのよ! あたしたちまで呪われちゃう!」
悲痛とも感じる声音で取り巻きが叫ぶと、A子はきょとんとした顔をした。「何言ってるの?」とでも言いたげな顔で、実際そう口にした。
「何言ってるのぉ? そんなのただの噂でしょ。ネットの噂なんか信じてどうするのよ」
どこまでも軽いA子の発言に、教室の中に居た一堂は唖然とする。
やっぱり狐狗狸さんなんて嘘? でも、だったら何でみんなの秘密が知られてるの? 奇怪しくなった子たちは? 狐狗狸さんをやらされた所為じゃないの?
───狐狗狸さんなんて、居ないの?
心の内で思っているだけならばまだ救われたのに、それを舌に乗せて口にしてしまえばこの世に生まれた声になる。声に乗るのは言霊───力の籠った生きた言葉。
その言霊の影響は、生きている者だけに留まらない。寧ろ実体を持たない、存在が曖昧な者に多大な影響を及ぼす。善きことにも、悪しきことにも。
善き方向に向ければ、実りに。悪しき方向に向ければ、それは害悪に。
存在そのものを侮っていたと判れば、それは───
「遊びでしょー? 狐狗狸さんなんて、居るわけないじゃない。みんな結構真剣にやってたみたいだけど、みんなそんなの信じてたの? ちょっと考えれば判ることじゃない」
きゃははは! と、この空気に似つかわしくない嗤い声が上滑りする。
「信じてないなら、何で私たちにこんなことさせるのッ!?」
「え? きゃああ!」
狐狗狸さんをさせられていた生徒が、我慢の限界とばかりにA子に飛び掛かる。
「ちょっと、止めてよ! 離れてッ!」
「あんたたちの所為で、今までの子たち奇怪しくなっちゃったんじゃないッ! 信じてないなら何で自分でやらないのよッ!」
一瞬呆気に取られた取り巻きたちが慌ててA子から引き剥がす。後ろから羽交い締めにされた生徒の頬を、A子は躊躇いなく平手打ちした。
「何なのよ、もう! あたしに酷いことしないでよ。たかが遊びに何本気になってるのよ」
取り巻きたちは反射的にA子を庇ったが、A子の言い分に納得はしなかった。だから同調も頷きもない。
「何、その顔。このあたしに何か言いたいことあるの?」
それはこのクラスの、この学年の女王として君臨しているA子の傲慢な意識。羽交い締めにした男子生徒も、いつもなら彼女に見つめられたら心が踊った。彼女に見つめられていることが嬉しかった。けれど今は……目を、合わせられない。その時───
ギシャアァァァァッ!
聞いたことのない叫び声が教室に響いた。
「な、何だッ!?」
「ギャアアァァウゥゥッ!」
叫び声の主は、羽交い締めにされた生徒だった。目は血走り、歯を剥き出しにした口からは涎が垂れている。
「何だッ!?」
拘束していた取り巻きが慌てて身体を離すと、そのまま手と足で床に這う。膝を着かずに、獣のように四つ足で彷徨いた。
「きゃあああッ!」
「な、何だ! うわ、来るなッ!」
「ガアアァァゥゥッ!」
生徒は歯を剥いて跳ねて飛び掛かる。犬歯は有り得ないほどに伸びているように見える。一堂は一瞬にしてパニックに陥った。
「来ないで! 来ないでぇぇッ!」
「早く、退いてよ! ここから出るのよ!」
「ちょっと! 自分たちだけ逃げるつもり!? この子どうするのよッ!?」
「そんなの知らないわよッ! あんたが何とかすればいいじゃないッ!」
「A子ッ! あんたの所為よッ!」
「何であたしなのよッ!?」
口々に互いを罵り合いながら出口を目指す。その扉の前に、跳ねて立ち塞がった。たった一度の跳躍でその距離を詰めた。人間では有り得ない跳躍力。
「や、やだ! 何なのッ!?」
「狐狗狸さんでしょッ! ちゃんとしたやり方で帰さなかったから! だから狐狗狸さんが怒ってるんでしょッ!」
未だに現状を理解出来かねているA子に向かって取り巻きが苛立ちも露に叫ぶ。
「ほ、本気で言ってるの?」
「そうじゃなかったら、これどう説明するのよッ!」
目の前に居るものは、眦を釣り上げて、口から頬に向けて皮膚が裂けたかのように大きく剥き出しにした歯を見せている。身体は四つ足で動く。その動きに、人間らしさはない。まるで───狐のような動き。
はあ──、はあ──ぁ、と聞こえる獣の呼吸音。
「こ、狐狗狸さんに、取り憑かれたってこと……!?」
A子の声に、生徒だったものはニタァと嗤った。その、人間では有り得ない醜悪さ。悪夢の化身のようなそれが、身体を屈める。目の前の獲物に飛びかかんとして助走を付けるために。
「ひいぃぃッ!」
「嫌ぁぁッ! 助けてッ!」
外からは何も聴こえない。閉ざされたかのような異質な教室の中。
本能で感じる身の危険に、教室内に居る全ての生徒は今までの人生の中で、最大の恐怖を感じていた───……