第1話
「───狐狗狸さん、狐狗狸さん……おいでください」
薄暗闇が漂い始めるころ、何処かの教室で呟かれる呪い言葉。今では誰もやらない遊び───古い古い、占い遊び。
占いというのはおまじない。おまじないは、お呪い。呪いは呪術。呪術とは、超自然的な方法によって意図する現象を起こそうとする行為。善きことも、悪しきことも起こす。呪いは諸刃の剣。知識も覚悟もない人間が行ってよいものではない。
けれど、名を変え手を変え───力の足りないおまじないは生き続けている。
「エンジェル様、エンジェル様。教えてください」
「キューピッド様。いらっしゃいますか?」
「分身様、分身様。わたしの恋は実りますか?」
「キラキラ様。あの人はわたしを好きになってくれますか?」
「守護霊様、守護霊様。おいでください」
どんな名で呼ばれようと、呪術には変わりない。名を変えて、如何にも親しみを持たせて、寝首を掻く。他愛ない恋愛話をしているだけならまだ引き返すことも出来よう。
「狐狗狸さん、狐狗狸さん……あの子に何か痛い思いをさせてくれませんか?」
「私の邪魔をする奴なんて、死ねばいいのよ」
「邪魔なあいつを懲らしめてください」
誰かの不幸を願った時───……呪いは発動する。
* * * *
───……教室には、ザワザワと喧騒が広がり始めています。
その中心に居るのは、決まって彼女です。名前も口にしたくありません。仮のA子としておきましょう。
A子はこのクラスの女王です。いえ、このクラスだけでなくこの学年の女王です。確かに美貌でA子に勝る者は居ません。しかも家は金持ちです。
A子がやること成すこと、全てが正しいのです。お追従する調子のよい人間たちがいつも群がっています。
A子が今気に入っている遊びが、『狐狗狸さん』です。随分昔に流行った遊びだそうで、余りの流行り具合に学校が禁止指示を出したほどらしいです。
もちろんA子がそんなことを知るはずがありません。お追従の誰かが自分ひとりが抜き出るためにA子に吹き込んだのでしょう。それに今は検索すれば何でも判りますしね。
「ねぇA子、今日は誰の何を訊こうか」
「……んー、そうねぇ」
授業が終われば、A子の取り巻きが今日の提案をします。その瞬間に、ピリッとした空気が流れました。一瞬にしてクラス中が異様な雰囲気に包まれます。
それは、支配する側とされる側……スクールカーストの下位に属された人間は、拒否したくともその権利を持たないのです。そしてそんな人間は、狐狗狸さんにうってつけです。
「今日の主役はねぇ……」
A子はその細い指先でクラスメイトを指差ししていきます。私は逃げるタイミングを失ったと感じました。綺麗な色を咲かせた指先が、私をピタリと突き刺します。
「決めた。えっちゃん」
A子のその一声に、教室内がシンと静まりました。
えっちゃんというのは、私のことです。私の名前に由来する渾名ではありません。親愛の気持ちを込めた渾名でもありません。何処にでもいる、一生脇役の立場から脱け出せない、その他大勢の人。その他大勢etc.という意味のえっちゃんです。
A子に面と向かってそう言われた時は、A子の底意地の悪さを思い知らされました。
「あらー、とうとうえっちゃんも行く?」
「いいんじゃね? たまには気分も変えないとな」
「えぇ、もしかしてあたし、間違えちゃった?」
「何言ってるの、A子。A子が間違えるわけないじゃん」
「本当? 良かったぁ」
白々しいやり取りがA子と取り巻きの間で交わされます。本当にわざとらしい。
「えっちゃん、何か訊きたいことある? あたしたちが訊いておいてあげるから」
「あ、それとも。一緒にやってみたら? 楽しいぜ」
「それいいじゃん、ちゃんと自分でプライベートなことも訊けるしね」
他のクラスメイトは固唾を呑んで成り行きを見守っています。自分が標的にならなくて済んだことと、私がこのあとどんな対応するのかという興味があるのでしょう。
クラス中の視線と、無責任な悪意が膨らんでいきます。それが陽炎のように揺らいで見えました。
勝手に唇が震え出します。顔から血の気が引いていくのも感じます。私の答えは───逃亡しかありませんでした。
ギャハハハハハッ!
逃げ出してきた教室から下品な嗤い声が追い掛けてきます。聞きたくありません。耳を塞いで走りました。きっと、誰でも逃げるでしょう。対抗出来るならとっくにしていました。出来なかったからこそ、今こうなっているのです。
誰でも逃げるはずです。こんな狂ったクラス。狐狗狸さんが支配するクラスなんて、狂っているとしかいいようがありません───