1 姫とゾール紙
連載が始まりました。
本編『ドラゴンがいなくなった世界』の外伝ですが、本編のみでもお楽しみ頂けるような作品にしたつもりです。本編を読んで頂いた方は、本編では語ることができなかったエピソードとしてもお楽しみ下さい。
この地は豊かな自然に恵まれていた。東に臨むのは恵み豊かなオットー山脈。そこから流れる水が集まってできたシーム川とその支流たち。その恩恵を受けた肥沃な大地。この恵まれた地に繁栄を極めた人間の国があった。名をテーゼル王国と言う。今テーゼル王国は大きな転換期を迎えていた。ゾール紙の開発である。
その開発責任者であるハンクは、日々ゾール紙の開発に追われていた。今日は国王へ開発の進捗を報告をしなければならないため、いつにも増して忙しい。開発は大きく遅れてはいないが、少しでも不安を与えてしまっては大きな失点となる。それだけは避けなければならない。
ゾール紙とは魔力を持たない人間が、魔法の力を使えるようなるための奇跡の紙である。羊皮紙に特殊な染料で魔法陣を描くと、その魔法陣が示す魔法の力が発動するものである。どの魔法陣がどんな魔法を発動させるのかについては、まだ完全に解明出来ていない。古来より魔力を持つ民族であるエルフ族の知識を基に、日々解明は進んでいた。ゾール紙は過去に一度だけ成功したことがあるが、それ以降は実用化に耐え得るものはできていない。過去に成功した際、火炎魔法が発動してしまい、記録は建物ごと消失してしまった。一刻も早く実用化させねばならない。ハンクはそんな使命を胸に日々奮闘していた。
準備を終えたハンクは、不安で胸が張り裂けそうになるのをぐっと堪えて、王への報告へ向かう。一緒に同行するのは部下のアンリだ。アンリはダークエルフ族の血を引いており、魔力に関する知識が豊富だ。エルフ族特有の長い耳と透き通った明るい髪色を持ち、その大人しそうな容姿からは想像もつかない程の切れ者だ。開発部隊では『美鬼』と呼ばれている。とはいえ本人は『美姫』と勘違いして、その呼び名を気に入っている節がある。このことがこの開発部隊に、不安定な均衡と、程良い緊張感を生み出している。
「ハンク様、本日の報告はどのようにされるおつもりですか?」
その『美鬼』いや、もとい『美姫』アンリがハンクに訊ねる。
「何を言っているんだ。『順調です』これだけでいいだろう」
「いえ、今オットー山脈の東側が、かなり物騒なことになっていると聞きました。王はこの危機に際し、大きな武器を早く手に入れたいはずです。この開発は『予定より進んでいます』と言っておかないと、変な追及をされてしまい兼ねません」
アンリは、いつも的確かつ、もう後には引けない覚悟を突きつけるような忠告をくれる。実に優秀な部下である。
「お、おう。分かっている。もう少し大袈裟に伝えておくとするよ」
そう伝えれば、その言葉を実証する必要がある。また部隊総出で徹夜が続くことになるかと思うと、ハンクはさらに胸が張り裂けそうになってきた。
そうこうしている間に、二人は王の間の前に辿り着いた。ハンクは覚悟を決めて、近衛兵に来訪を告げた。近衛兵の一人から『入れ』と返答があった。よし、いよいよだ。
王の間に入るないなや、王より直接声がかかった。
「ハンクよ、礼などよい。早く開発状況を教えてくれ」
その言葉に驚いたが、隣に座っている王女ミゼルが目で『いいから進めて』と言っていた。ミゼルは今年で十五歳になる王女だ。現国王には男子が産まれないままに、王妃が病で倒れた。愛娘のミゼルは幼少の頃、大きな病に蝕まれて、一度は危うい状態になったが、奇跡的に快復した。その奇跡以降、ミゼルは政治家としての才覚を発揮するようになり、今でも王の隣に座る許可を貰っている。そろそろ婚姻の話が出てきてもいい年頃だが、その才覚が故に、彼女を受け入れられる相手が見つかっていない。
「ハンク、父上の言葉は聞こえた? 遠慮なく進めていいからね」
ミゼルの言葉に勇気を貰ったハンクは報告を始めた。
「はい。ではお言葉に甘えて進めさせて頂きます。今回の報告は――」
ハンクが一通りの報告を終えた。一先ず国王からの最初の言葉を待つ。この瞬間はいつも緊張する。
すると、王から即座に言葉が返ってきた。
「ハンク、よく聞け。ゾール紙の開発は急がねばならん。理由は分かるか?」
唐突な質問であったが、事前にアンリから聞いていたため、ハンクは淀みなく答えることができた。アンリには頭が下がるばかりだ。
「そうじゃ。じゃが、それだけでない。今この地は混沌とし過ぎておる。オットー山脈の東側では、人間の国と獣人の国の小国が乱立しており、常に争いを繰り返しておる。北の大地ではドワーフたちが自然を切り開き、大きな繁栄をしておる。西に至っては、我々よりも大きな力を持った国があると報告があった。知っての通り、我々の国はオットー山脈とシーム川に挟まれた安全な場所じゃ。じゃが、それも文明の発達により、この川と山がいつまでも儂らを守ってくれるとは限らん。我々は自然ではなく、武力で国を守っていなければならないのじゃ」
王の言葉は切羽詰まっていた。ハンクは自国が置かれている状況が、これほど危ういものだという認識がなかった。王の言葉の通り、テーゼル王国はオットー山脈とシーム川に挟まれて安全だと思っていた。その認識は甘かったのだ。
「はっ、畏まりました。そのお言葉を胸に、開発を急がせます」
認識を新たにしてハンクは王の間を後にする。アンリと共に廊下を歩いていると、後ろからミゼルが声を掛けてきた。
「これは、ミゼル様。いかがいたしましたか?」
ハンクとアンリは慌てて膝をついた。
「いきなりごめんね、ハンク。立っていいから、話を聞いてほしいの。ほらっ、何してるの? 早く立って立って」
いきなり立ってと言われても恐縮してしまうが、あまりにも急かしてくるから、ハンクとアンリは目配せをしながら立ち上がる。
「呼び止めてごめんね。今日の話、どうだったかなって思って。いきなり過ぎてびっくりしなかったかな? ごめんね。父上には、まだそこまで言わなくてもいいのにって言ってたんだけど……」
「いえ、初めての話でしたが、開発を急がねばならないことがよく分かりましたので」
「そう。よかった。でもね、父上の言葉は誇張でも何でもないの。たぶん、この地で人間を含めたヒト族は増えすぎたの。増え過ぎてしまったが故に、人々は自然の恵みを取り合って争うようになった。生き延びるために、欲望を剝き出しにし過ぎてしまっている。このままでは何が起きるか分からない……」
「ミゼル様……」
ミゼルは話の続きをしようと思ったが、続きの言葉が出てこなかった。こんなことを話にきたのではない、もっと違うことを話しようと思っていたのに、思うように言葉が出てこない。
「ご、ごめんね。引き留めてしまって。今日はありがとう。じゃあ」
ミゼルは、そのまま振り返ってそそくさと戻っていってしまった。
「な、なんだったんだ……。なぁ、アンリ?」
アンリはため息交じりの声で答えた。
「私にはハンク様が鈍感過ぎて見てられません」
「はぁ、何だよ。それ」
アンリには、ミゼルのハンクへの気持ちが容易に理解できた。その気持ちが報われることがないという痛みと共に。