ジビエ料理と沐浴
「……………。」
ハインは串刺しになった鹿肉を口まで近づけてすんでのところで、何を思ったのか鼻にその肉を近づけたまま固まった。
一口大に切り分けて食べやすくされた鹿肉は、所々炭をかぶっているものの十分に加熱されていて、皮の内側の肉面はワインで染まったかのように紅いーーーーだから、何も問題はないはずなのだが。
ピュセルはハインの様子を見て少し眉を下げて苦く笑った。
(無表情だけど、ちょっと分かりやすいよね)
あの後、ピュセルはすぐさま申し訳程度に血抜き作業を行い、その後調理をしたが、牛乳やヨーグルトや麹が無い状態だったので、まだ臭みが残っていたようだ。
「これは、本当に鹿肉なのか?」
ハインはあり得ないとでも言うように呟くと、恐る恐る小さく齧った。
「……っ」
3回ほど咀嚼した後、ハインは無言で顔を歪めた。
(如何やら本当にきついらしい)
ピュセルはハインの苦闘する様子に苦笑いすると、鞄の中から小さな小瓶を取り出して、ハインに手渡した。
「本当はもっと美味しく出来るはずなんですけど、道具が足りなくて。もう少し落ち着いたら、もっと美味しいジビエが食べられますよ。」
「これは?」
ハインは受け取った小瓶を凝視すると、蓋を開け中身を覗いた。
「塩胡椒です。臭みはどうにも出来ませんが、味ならどうにかなりますよ」
ハインはそれを聞くと、すぐさま小瓶を数回振り、鹿肉に口をつけた。
「礼を言う」
何口か飲み込んだ後、ハインは徐にそう言うと、小瓶をピュセルに返した。
「はは、本当に気持ち程度にしかなりませんけど」
ピュセルはそれを鞄にしまうと、火に焼かれた一本の串を抜き、下品にならない程度に大きく口を開けて肉に食いついた。
(ううん、やっぱり臭みが強いなぁ。新鮮だからか硬さはそんなにないのだけど。)
咀嚼する度に、獣独特の臭みが鼻から抜ける。噛み締めると筋は少しあるものの簡単に解れていく。
(うん。おいしい)
ピュセルは食べ終わると、少しべとついた手をズボンに押し付けるように拭き、立ち上がる。
見るとハインはまだ鹿肉に苦戦しているようだ。ピュセルはそんなハインを横目に、鹿を焼いた火の跡を靴の裏で擦るようにして消す。積み上げた石は足で蹴り、どこかへと飛ばす。
(流石に休んだ跡とかで追手にバレたら構わないよ)
こういうことも教えた方がいいのだろうと思い、今日の夜にでも話そうと決める。今日もきっと森のどこかで野宿である。その時にでも話せば良い。
ピュセルはあらかた野営の跡が消えたのを確認し、ハインのすぐ横の地面へと腰掛ける。
ハインはなんだ、と言うふうに少し戸惑うような紫紺の瞳で見つめた。もう既に串には少しの残りもなく、綺麗に食べ終わっていた。ハインは無表情のまま恥ずかしむように口元を軽く擦ると目線を外した。
(心配だなぁ)
ピュセルは優しく息を吐き、笑いかけた。少しくつろぐような姿勢で座り、ハインを見る。
「では、出発しましょう。少しでも前へ進むために」
ハインはしっかりとピュセルの目を見て頷いた。
それから三日が過ぎた。
元より賢いのか、ハインはもう既に山での野宿に慣れていた。
朝日が二人を照らす中、昨日集めた木の実を食べて少しお腹を満たしてから、ハインはピュセルを気まずそうにちらちら見ながら言った。
「…………湯浴みをしたい」
「ーーお風呂ですか」
ピュセルはハインの言葉に目を瞬かせて小首を傾げ、逡巡するような素振りを見せた。
(確かに、貴族は毎日のようにお風呂に入るって聞くし、逆に今までずっと入らなかった方が不思議だったかもしれない)
まだ、少し不安そうに俯くハインを見ると、中々断る気も起こらず、安心させるように口角を上げた。
「進行方向から少し東に川が見えましたよね。……水浴びでよければ。」
ハインは僅かに目を見開いた後、少し嬉しそうにうなづいた。
ピュセルはハインの素直なその様子に思わず苦笑する。
(段々、無表情なハイン様の喜怒哀楽を読み取れるようになってきた)
それだけこの数日でハインが心を開いたって事だな、と思い、少しくすぐったい様な気持ちになり、笑みが溢れる。
ーーーーしかし、この決断を後悔するかも知れない事になるとは、ピュセルはまだ知らなかった。
夜更け。
やっとのことで森の少し小高くなった所にある川に辿り着き、ピュセルたちは水浴びを始めた。
少し木々が開けていて、満月が二人を優しく照らす中、見張りのために交代交代で水に浸かる。
ピュセルは手持ちの手拭いをゆっくりと水に浸し、それを体にじんわりと当てていった。夜の黒い小川にゆらゆらとピュセルの影が揺れる。
(早く終わらせないと)
背後で後ろを向いたままピュセルの水浴びを待っているハインを思い、ピュセルは急ぐようにぱしゃぱしゃと音を立てて体を濡らしていく。
(もし、私が薙刀を外している時に何かに襲われたら不味い)
月明かりは綺麗だが、それを見る余裕すらなかった。
春は夏や秋に比べると強いものは出ないが、それでも注意するに越したことはない。
そんな焦りを感じたのか、ハインは呆れるようにピュセルに振り返り、「そんなに焦らなくてもいい」と言おうとしたが、出てきた言葉は全く違うものだった。
「ーーーーお、んな、?」
ピュセルは思わず振り返った。
そこには自分の姿を見て、目を見開き、驚愕に打ち震える姿のハインがいた。
木漏れ日のような月光で照らされ、ピュセルの姿が明るみに出る。
それは、この世の者とは思えない、女神のような神々しい女の姿だった。
昼間とは打って変わり、身体を隠す衣を脱いで暴かれた丸みを帯びた体は、緩やかに胸の辺りで膨らみ、腰は抱き寄せたりしたら壊れそうに思えるほど細く、纏められていた白髪は蠱惑的で身体に纏わりつくように流れ、よくハインを優しく見つめてくれた瞳は見る者を奥底まで見透かし、離さないとでもいうように艶やかに染まっていた。
ハインは思わず息をのむ。
あまりにも人智を超えた美しさに時がとまったかのようだった。
そして、なによりも女だったという事実に、呆然として何も言えないハインを見て、ピュセルはハインが自分を見つめているのに気がつくと顔を一気に赤らめて、薄い布ですぐさま自身の体を隠した。
(ーーーっっっな!!)
ピュセルは壊れたロボットのようにぎこちなく慌て動いた後、しゃがみ込んだ。
そして、恨みがましそうにハインを見つめた。
(ていうか、どれだけ見つめてるの!?)
ハインは暫く驚愕のままに、魂を吸い取られるかの如くピュセルを見ていたが、己が何をしていたかを思い出し、耳を赤くし、ピュセルと同じように恥ずかしさで打ち震えた。
「ーーわ、悪い」
そう言うと、顔を手で隠すようにして後ろを向き、少し冷静になったのか、思案するように言った。
「女だったんだな」
ハインはその言葉がやけに自分の心にすとんと落ちた事に気がついた。
(別にそんなに問題でもないでしょうに)
ピュセルは不貞腐れたように唇を尖らせて黙ったまま、ハインが自分で勝手に男だと勘違いしたのを勝手に納得してくれるよう促した。
そもそも。ピュセルには性別などない。それが発展した前世の自国では当たり前だった。好きな時に自分の好きな性の姿をし、人々は皆、性別を気にせず好きな人と恋に落ちた。ある時は女性、ある時は男性とーー。
しかし、ピュセルは誰にも恋をした事がなかったので、赤子として生まれたときからのまま、汎と呼ばれる性別的特徴のない身体で前世の一生を過ごしたが、何故か今世では女性的特徴をもつ体として生まれていた。
それでも、そんな前世だったせいか、今世も性には無頓着である。ただ、同性だろうが異性だろうが裸を見られることには抵抗がある。
そうピュセルが前世での事を思い出してる内に、ハインは一人気持ちに踏ん切りをつけたようで、後ろを向いたまま少し真剣さを含む声で言った。
「もし女性だと話されていたら、私はもしかしたら手を取らなかったかもしれない」
「そうでしたか」
ピュセルはそう小さくつぶやいた。
(悪い意味ではないのだろうけど)
この世界では、女性差別があると思う。いい意味では女性が守られ、悪い意味では女性が虐げられる。
きっとハインは、危ない目に女性を合わせたくないという意味で言ったのだろうが、ピュセルからしてみればあまりそういうのは要らない気遣いである。そもそもピュセルはその辺の男性より何倍も強いーーーと、父さんが言っていた。
「じゃあ、これからも宜しくお願いします。ハイン様」
しかし、ピュセルはそんな思いを少しも出さず、優しく微笑んだ。正しいとは思わないが、この世界にはこの世界なりのルールがある。郷に入っては郷に従えというように、ピュセルはひとまず納得したふりをした。
「ああ」
ハインもそれを見て軽く笑った。
なぜ、ハインがピュセルのことを男だと誤解したかは後に説明があります。
あと、ピュセルは前世で姉さんと呼ばれていて性別があるじゃないかと思われた方もいると思いますが、これには理由があります。