第一話・【俯瞰視点】王太子殿下と婚約者
さわさわと小さく音を立てて、朝露に輝く緑葉樹の葉が揺れる。
白く長い壁。規則正しく連なる格子のガラス窓にそれが映る時刻になると、学園は徐々に賑やかになっていく。
特権階級が存在するこの王国には、貴族の通う学園が存在する。
経済的な事情から満足に学問を修めることができない者にも、相応の教育を施す為に設立された。
未来を担う若者を育てることは、国力の増加であり国の責務──そう考えた先々代の国王が創立者であり、まだその歴史は浅い。
「──あっ! 王家の馬車よ!!」
「どなたが乗ってらっしゃるのかしら!」
貴族の矜恃だ、教育だ、などと大層なことを言っても、通うのはまだ10代半ばの少年少女。それなりに厳しいルールがあるとはいえ、責任やその自覚というものと真に対峙するのは先。同年代が集まる学園生活には、やはり少々浮き足立つところもある。
特に見目麗しいふたりの王子、そして隣国の王子は生徒達にとってアイドルも同然。
「ウィルフレッド殿下だわ!」
馬車から出てきたのはこの国の第1王子であり王太子、ウィルフレッドひとり。
「今日もひとりか……」
誰かがそう呟いた。
王子達はそれぞれに宮を与えられている為、揃って登校することはまずない。だが──
ウィルフレッド・レヴァインにはイヴ・レインウォーター公爵令嬢というひとつ年下の婚約者がいる……らしい。
らしい、というのも、ウィルフレッドが彼女を伴っての登下校はおろか、共にいるのを見た者がいないからである。
寮住まいならともかく、王族や、王都にそれなりに大きなタウンハウスを持つ高位貴族は自宅通い。婚約者がいる場合、道の混雑を防ぐ面からも婚約者を伴った登校が推奨される。
勿論一番の理由は、婚約していることを見せ付ける為だ。
学園生活中はどうしても男女が気軽に接する機会が多い。貴族社会で生きる勉学の為の学園だが、通うのは浮かれた思春期少年少女達……恋愛に浮かれて自ら貴族として死にゆく者もいないではない。というか、毎年必ずいる。
恋にかまけて本分を忘れ、わざと婚約者に冷たくあたる者。或いはチヤホヤされたくて婚約を隠す者──
しかし、ウィルフレッドは基本的に全ての女性に冷たい上、彼は真面目だ。どう考えてもそれらには該当しない。
更に言うと、王太子の婚約者であるイヴは王妃教育の為、王宮で暮らしているという。
むしろ婚約者がいることを見せ付けた方が、構われなくていいのでは……
真面目な方なのに何故……
ほぼ一緒に住んでるようなものなのに……
と、その行動を不思議に思う者は少なくない。
「きっと、余程仲が悪いんだろう」
そして行き着くこの結論だが、他にも謎はあった。
「……っていうか、レインウォーター嬢って見たことある?」
「ないな……」
「本当はいないんじゃないの?」
「でもテストで一位だったわよ」
──イヴ・レインウォーター公爵令嬢。
その人の存在は認識していても、その姿を認識している者は非常に少ないのである。
✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼
学園内には王族用の休憩室がある。
なにぶんやんごとない身の上、他者に漏れてはいけない報告が入ることなどもあるからだ。
登校するとそこに向かったウィルフレッドは、部屋に入るなりソファに乱暴に身を預けた。
「──イヴ……」
「はっ! ここに」
婚約者とは思えぬ返事に思わず「いや『はっ!』じゃねぇ」というツッコみを入れるウィルフレッド。
ウィルフレッドはきちんと婚約者と共に登校していた。
しかし、イヴがそこに姿を現すことはない。
彼女は王太子・ウィルフレッドの『影』……暗部なのである。
「どうしてお前は普通の令嬢風に過ごせないんだ!!」
「ふふふ、お戯れを」
「いや全然戯れてないわ!」
「殿下はもっと他の方と戯れてくださって結構ですよ? 折角の学園生活でございます故」
ウィルフレッドはイヴの言葉に舌打ちする。
「……もういい!」
苛立ちを顕に立ち上がり、部屋を出ようとしたウィルフレッドだったが……
姿は見えねどまだ共にある、イヴの気配。
「……そこは空気を読めッ!!」
上から現れるイヴ。華麗に着地。
「お流石でございます」
「ついてくんな!」
ウィルフレッドはそう怒鳴りつけ、扉を思い切り閉めた。
やれやれ、と言わんばかりに「フゥ」と溜息を軽く吐くイヴに、護衛騎士であるシルヴィオが会釈をしてウィルフレッドを追いかけようとすると、その前に何故か再び扉が開く。
「──つーかお前も授業出ろッ!!」
「……真面目でいらっしゃ」
「煩いッ!」
イヴが『影』になったのは彼女自身の希望だが、それにはウィルフレッドの仕出かしたことが大きく関わっていた。
本当はイヴには『影』などやめて傍にいてほしいものの、彼はそれをキチンと口に出せずにいる。
罪悪感などもあるが、ほぼ彼の性格が原因である。
元々ウィルフレッドは、素直になるのが下手くそなのだ。
再び閉まった扉をそっと開け、イヴは遠ざかるウィルフレッドの背中を眺めていた。
……授業に出る気はないらしい。
「ウィルフレッド殿下はどうにも気が短くてらっしゃる……はっ! お食事の時に、こっそり魚の骨の粉を混ぜて差し上げたらどうかしら?」
イヴは真剣にウィルフレッドの為の『こっそりカルシウム摂取方法』を考えていた。
──性格に問題があるのは、お互い様だった。
これはそんなふたりの、ちょっとおかしな恋愛物語……になるかもしれない日常のお話。