太陽の戦車
24作目です。そろそろTwitterアカウント開設をしたいところです。
1
この場所へ来るのは合計七回目だ。
最初に訪れた時で一回。そして、一年に一回ずつ、それで六回。
水牆岳の登山道を順路に従って進んで、渓谷に架かる橋の直前のカーブ。そこから、降りて、渓谷を流れる紲川沿いの巨石の前。小さな墓標が立てられている場所。
僕らは毎年、六月七日にここを訪れる。
墓標は簡素な造りで、太く長い枝を砂利に刺しただけのものだ。来る度に枝は交換している。湿気が多い場所なので、墓標はすぐに劣化する。墓標と言っても、ここには誰も眠っていない。眠っているのは魂のような概念だけだ。
墓標には白いヘルメットが置いてある。それは酷く歪んで、一見すると、とてもヘルメットには見えない。そして、白い中に点々と黒ずんだ場所がある。大きいものでは、何かが飛び散ったようになっている。六年経っても落ちないものなんだな、と僕は思った。同時に、その点々は僕の記憶を想起させる。普段は記憶の最下層に押し込めてある記憶が、この時ばかりは、鮮明に苛烈に現れるのだ。
今年は雨が降っている。六回のうち、三回は雨が降っていた。標高が高く、梅雨の時期でもあるので、雨は頻繁に降っている。登山道は泥濘るんで、普通に歩くことに気を遣わないといけなかった。紲川も若干、水位が上がっているようだ。
「今年も雨だなんて運がないな」
也東がそう言った。
「まぁ、場所と時期があれだからね、仕方ないよ」
中生がそう返した。
「線香、立てられないし、どうしようか?」
眼鏡の来澤が言う。
墓標の傍に、雨の当たらない場所はない。線香を諦めるのも三回目だ。概念のみが眠るこの地を訪れるのは、みんなの残酷なまでの優しさだ。敢えて、肉体ではなく、魂の在る場所を選んでいる。
「仕方がないし、お供えを置いて帰ろう。この天候じゃ、回復はしないだろうしさ」
階が言った。彼は先日、事故に遭い、頭には包帯を巻いている。
「そうしよう。来澤、コーラはなるべく岩の近くに置いておこう。風は来ないとは思うけどさ。中生と階もこっちを手伝ってくれ」
也東が指示を出している。彼がリーダー格であることは、グループの全員が認めている。
「風代」
也東が僕を呼んだ。
「何?」
「さっき見つけてきた枝を刺しといてくれ」
「わかった」
僕は石の傍に横たえてあった枝を手に取り、砂利を少し掘って刺した。思ったよりも安定しているようだった。土の中には何も眠っていない。そう思っているからか、刺す時に躊躇などはなかった。六年という月日が経過したことは、それと無関係とは言い切れなかった。
さらに雨足が強くなり始めた。
「ヤバいぞ、そろそろ、下りないとさ」
来澤が叫ぶように言う。強い雨で音の通りも悪くなっている。
「わかってるって。墓標も取り換えた、やることはやった、さっさと行くぞ。さもないと、おれたちまでここに眠ることになる」
也東がそう言って、みんなを纏め、僕らは山を下りていく。安物の戦争映画みたいな篠突く雨に、僕らは安物の呼吸をして、自分の存在を確かめながら進んでいくのだ。
途中、階が泥濘に足を取られて転んだ。怪我のことを考慮されたからか、必要以上の丁寧さで対処されていた。その対処で時間は奪われ、同時に体温も奪われていく。
「風代!」
也東が叫ぶ。
「お前も手伝え!」
「うん、わかった」
そうは言っても、人手は足りているし、別に階だって出血したとか、骨を折ったとかじゃない。みんなが過剰なのだ。当の階だって、気恥ずかしそうに顔をこちらに向けている。僕は首を振って、一応、手を貸しているように振る舞った。
結局、そこで無駄に時間を消費してしまった。登山道の途中、道路に抜ける場所があるのだが、毎年、そこに車を置いている。その場所に辿り着いた頃には、すっかり身体は冷え切っていて、明日、熱を出すだろう、という予感さえ過った。
車を運転して来たのは中生で、彼は泥と水で車内が汚れることを嫌がっていたが、そんな駄々をこねることは無意味だと端からわかっていたのだろう、渋々、僕らを乗せた。雨が強いので、合羽を畳んでいる間にも僕らはびしょ濡れになった。
車に乗り、一息ついてから、山を下りた。文明の利器というもののありがたみがわかる。車がなかったら、あと一時間近くも歩く必要があった。少なくとも六年前ならやっただろう。でも、今は誰にもそんな気力はない。
「取り合えず、いつものところでいいよな?」
也東が言う。
「そこ以外、別にないでしょ」と階が笑いながら答えた。
いつものところ、というのは水牆岳を下りて少し走ったところにある喫茶店である。
「あーあ、憂鬱だなぁ」
そうぼやいたのは中生である。
「どうしたよ、中生」
「帰ったら、掃除しなくちゃいけない。それが面倒なだけ」
「心配すんなよ、手伝ってやるからさ」と也東。
「ふぅん。まぁ、それならいいけどさぁ」
中生は顔を曇らせたまま言った。恐らく、現在の曇りは偽装である。手伝ってやる、と言われた時点で憂鬱は霧のように消えているだろう。中生という人間はそういう性質だ。
僕は会話には交じらず、窓の外を眺めていた。景色は僅かに変化するが、激しい雨の所為でうっすらとしか見えない。同じところをループしていると言われたら、信じてしまうかもしれない。
あぁ、憂鬱だ。
誰にも聞こえない声でぼやいた。
本当は、こんなところに来たくはない。
別に、この四人といたいわけじゃない。
どうせ来るならひとり。
ひとりで、激しい雨の中を歩いて行こう。それしか選択肢はない。
「風代、生きてるか?」と来澤が言ったが、それが場を和らげようとしたのか、単なる皮肉なのかの判別は僕にはできなかった。
「生きてるよ」と簡単に返す。
その後に続くであろう、「だから何だよ」という言葉は飲み込んだ。
2
例の喫茶店に着いた頃には、雨は少し弱まっていた。弱まったと言っても、いつもよりは断然強い雨だ。
喫茶店は「エルミタ」と言う。フランス語の隠れ家を意味する「エルミタージュ」から取ったらしいが、それでは残りの「ージュ」は何処に消えたのだろう。
店主は六年間、全くの変化がない顔で出迎えてくれた。鈴山という人物なのだが、僕も含めて誰も名前で呼ぼうとはしない。名前で呼んだ瞬間に生じる不都合を恐れているからだろう。名前で呼ぶということは、それ自体に一定の意義を有していて、呼んだ瞬間、その対象物は特別な地位を得ることになる。雑多なものからの昇格。それをさせるのが面倒なのだ。
「マスター、今年もよろしく」と也東が先陣を切って言う。流石にリーダー格だ。六年間で判別できた鈴山の性質は、宛ら石である。感情が読み取れないのだ。名前で呼ばない理由は面倒よりも、単純に不気味だからなのかもしれない。
「あいよ」と一言。毎年恒例である。
ここの喫茶店で昼食も兼ねていくのだが、料理の腕には当たり外れがあるようで、パスタは絶品なのだが、シチューは泥も同然である。
それぞれが食べたいものを注文し、也東、来澤、僕はビールを注文した。運転手の中生と怪我を気にする階は烏龍茶を注文した。
エルミタでは珈琲や紅茶が提供されないので、喫茶店というより、ただの飲食店である。だが、ここは敢えて、看板の「喫茶店 エルミタ」の言葉を使おう。
最初に飲み物が届いて、その後、順番に料理がやって来た。僕が注文したのはカルボナーラで、一番最後に届いた。思えば、六年間、カルボナーラしか注文していないようだ。僕は猫舌でカルボナーラに手が付けられないので、取り敢えずはビールをゆっくりと飲んでいる。
「あぁ、もう六年も経つんだな」
也東がビールを一気に飲み干して言った。
「六年、つまり、六回、おれたちはここに来てるわけだな」
「どうした也東、もう酔ってんのか?」
来澤が言った。彼もビールを既に飲み干している。
「いやぁ、おれは六年間、一度もあいつのことを忘れたことはなかった。一秒たりともだ」
也東が顔を少し赤くして言った。やはり、酔っているようだ。
「本当か?」とニヤニヤしながら来澤。
「あぁ、本当さ、本当、本当。嘘だと思うなら、おれのパスタのマッシュルームやるよ。ああ、あいつほど、おれたちを駆り立てるやつはいなかったよなぁ。やっぱ、『流星』の異名は伊達じゃなかったもんなぁ」
「まぁ、僕らの中じゃダントツで速かったもんね」
「その分、悔やまれるよな。生きてたら、どんなに名を馳せる選手になってたことか。水牆岳に行く度に考えちまうよ」
「才能のあるやつの宿命って感じも凄かったよね。やっぱり、天才と美人は薄命なんだよ。でも、あの事故で、生前よりも彼の名前と評判は広まったわけだし、結果的に彼にとっても良かったんじゃないかな」
階がパスタを口に運びながら言った。
「いや、どうだろうな?」と来澤。
「何?」
「あいつの性格を考えろよ。名誉なんかに拘るやつじゃない。ただ、速いやつと競争して勝ちたい、それだけを原動力に動いてたわけだろ」
「うん、一理あるな」
階は何度か頷いた。
「あの事故が起こったから、あの大会の優勝は僕だったけどさ、全然、嬉しくなかったなぁ。何だか、僕が殺したみたいに思えてさ」
中生が言った。
「まぁ、でも、事故なんだから。警察もそう言ってたし。あいつがメンテナンスを怠っていたとは思えないけどさ、事故ってのは偶発的に起こるものなんだから、俗っぽい言葉で言うなら、運命ってやつだよ」
そう言った来澤はパスタを既に平らげて、追加でビールとつまみのポテトを注文した。
「運命……ね。でも、僕は事故って結論にあんまり納得してないよ。理由はわからないけれどね」
「まぁ、それはおれもだ。事故だったとは完全に信じちゃいないさ」
来澤は也東の背中を撫でながら言った。也東は酔いが回ったのか、机に突っ伏して黙っている。来澤は也東のパスタからマッシュルームではなく、ベーコンを奪って食べている。
「ねぇ、風代はどう思ってる?」
階が僕に訊ねた。
「別に何とも。事故って結論が出たんだから、今更、深く考える必要もないと思う。考えるだけ、気が滅入るだろうし」
「まぁ、それもそうかな」
ようやく、カルボナーラが食べられる温度になってきたので、僕はパスタをフォークに巻いた。僕と也東以外はパスタを食べ終え、デザートや追加の飲み物の注文をしている。
「なぁ」と来澤。
「何?」
「この集まりっていつまで続くんだ?」
「え?」
「もう六年、六年も経つんだぞ。いつまであいつの供養のために、態々、あんな山の中腹まで行かなきゃいけないんだ。墓参りでいいじゃないか。それも、全員で行く必要はない。おれは、これのために休日を奪われるのは正直、どうかと思ってる。別に、あいつのことを蔑ろにしたいわけじゃない。ただ、今のおれたちがやってることは儀式みたいだろ。このまま、ずるずると続けてたらダメな気がするんだ」
「区切りをつけたい、ってこと?」
「まぁ、そうだ。実際、あの川辺には何も埋まってないし、何だか空虚で方向性を間違えているようだろ?」
「僕もそれは思うよ。階と風代は?」
「異論はないよ」と階。
僕も首を縦に動かした。
「あとは、この酔っ払いが何て言うかだ。也東の呼び掛けで毎年集まってるわけだからな」
「取り敢えず、起こそうよ」
「ああ」
来澤が何度か背中を叩くと、也東は唸りながら顔を上げ、フォークを掴むとパスタを食べ始めた。
「おはよう」
「……おはよう」
「也東、取り敢えず、それ食べて」
也東は自分のパスタを黙々と食べている。具材から大量のベーコンが消えて、マッシュルームばかりになっていることには気付いていないようだ。三分ほどで平らげて、烏龍茶を注文した。
「よし、食い終わったな。なぁ、也東」
「何?」
「おれたちからの提案なんだけどさ」
「提案?」
「ああ。この毎年の集まりも、今年でラストにしようぜ」
「は?」
也東が立ち上がった。アルコールの所為もあるだろうが、いつもより身振り手振りが大きい。
「お前ら、そんなに薄情者ばかりだったのか? あいつのことはもう、どうでもいいってのか?」
「違う。だけど、也東、考えてみろ。この先、十年、二十年と毎年集まって、あの誰も眠ってない墓に線香を上げに行くのか? おれたちも、そろそろ、あいつの影から離れる時が来たんじゃないのか? おれたちはもうガキじゃねぇ。社会人ってやつなんだよ。なぁ、也東、そろそろ、区切りをつけよう」
「……はぁ。まぁ、そうかもしれないか……。来澤以外もその考えで良いんだよな?」
「ああ」
「そうか……、なら、仕方ないよな。この集まりは今年で解散だ。次からは、各々、自由にしてくれ」
也東は烏龍茶を一気に飲んだ。
そこから先は終始、無言が続いた。この重い空気を前にしても鈴山の顔に変化はなかった。そして、重い空気を付随させたまま、僕らは同じ車で帰路についたのだった。
3
富貴純が死んだのは六年前の六月七日のことだ。彼は自転車部のエースで、将来有望な選手だった。メディアには『流星』と呼ばれて、ニュースでも度々取り上げられていた。
死んだ六月七日は水牆岳を舞台としたレースが行われていて、富貴や也東、中生たちが出場していた。僕は腕の骨折で欠場だった。レースはみんなの予想通り、富貴がダントツだった。しかし、予想通りではないことが起きたのは、富貴が紲川の上に架かる水牆橋という長い橋の手前の急カーブだった。富貴はそのカーブで、スピードを緩めることなく、渓谷へ落下していったのだ。
後の調査で、富貴の自転車のブレーキが壊れていたことが判明した。パーツが酷く歪んでいた。当初は、その大会で優勝した中生を始めとする、部活のメンバーである僕らが疑われたが、最終的に富貴がメンテナンスを怠ったか、偶発的なトラブルとして片付けられた。
僕と富貴の仲は良い方だったと思う。
部活以外での交流も多く、ふたりで県外の高原まで自転車で行ったのは良い思い出だ。この先、それ以上の思い出ができるとは思っていない。僕の人生の彩りは、富貴の死によってどんどん褪せていったのだ。
僕の自転車の技術とスピードは、富貴と比べて格段に劣っているとは言えなかった。スピードは富貴、技術は僕が上だという自負があった。富貴に自転車部に入ろうと勧誘したのは僕で、富貴にだけは負けたくないという意識は確実にあった。
富貴純という人間は僕の青春の重要なパーツなのだ。それは取り換えることのできない、唯一無二のオーダーメイド。也東や来澤は僕にとってはオルタナティブなパーツに過ぎない。
その富貴が死んだという報せは僕に鈍重な悲しみを背負わせた。唯一無二のパーツの欠損により、僕の青春の枠組みは大きく歪んで、オルタナティブばかりの普遍的でオリジナリティの薄い雑なものとなった。大学に受かっても、彼女ができても、その枠組みは依然として歪んだままだった。僕の青春は、富貴というパーツ以外が適合できないようになっているに違いない。
僕はたまに夢を見る。大抵はぼやけた写真のような夢なのだが、十回に一回程度は富貴の夢を見る。夢の中で、僕と富貴は何処かを目指して自転車を漕いでいる。けれど、未だにゴールしたことはない。その鮮明な夢だけが、今、僕と富貴を繋ぐ糸なのだ。
僕という人間は、富貴なしでは始まらないのだ。
「でも、殺したのでしょう?」
僕はその声に振り返る。そこには、金髪に青い眼をした人形のような少女が立っていた。今は夕焼けで赤く染まっている。
「マリーさん……」
「勝手に入ってきてごめんなさいね」
「問題ないですよ」
彼女は夕焼けを背にして、その整った顔を僅かに歪めた。その表情にも、不思議と肯定的な印象しか浮かばなかった。
「ねぇ、あなたが彼をどんなに持ち上げようと、あなたが彼を殺したことに変わりはないのよ」
「そんなこと、わかってますよ」
「本当に? あなたは、富貴純を唯一無二の存在だと半ば神格化して、自分の行いから逃げているように思えるけれど」
「……確かに、逃げてしまいたい話ですけど」
「逃げるのは簡単。眠ってしまうとか、薬を使うとか、ベランダから飛び降りるとかね。やってみる気はない? それとも、ぴったりな商品を持ってきましょうか?」
マリーは笑顔で言った。
「未だに知らないんだけれど、どうしてあなたは彼を殺そうとしたの? それも、自分の手ではなく」
「……」
「黙ってるの? 私が思うに、嫉妬とかではないんでしょうけど」
「怖かった……」
「ん?」
「怖かったんです。彼が僕の手が届かない場所へ行ってしまうことが」
「あぁ、そういうね」
彼女は僅かに口角を上げた。
「あなたは、彼を独占したかったのね? それで、殺してしまえば、自分だけのものになるって考えたのかしら?」
「殺してしまえば、もう、先へは進まない。つまり、手が届かない場所へ行くこともない。僕の思い出の中で、色褪せることなく、朽ちることなく、残ってくれる。それに、あんな悲劇的な死をすれば、世間での評価も上がるだろうし、それが上がれば上がるほど、彼の価値も上がるんです」
「あぁ、そっちね。歪んでるのね」
「歪んでても何でもいいんです。僕が下した、最良の決断です」
「でも、それじゃあ、何で私に頼んだの? ブレーキに細工をするくらい、誰にだってできるでしょう?」
「最後の思い出を汚したくなかったので」
彼女は眼を細めて微笑んでいる。
「まぁ、あんなブレーキをちょっと弄るくらいなら誰にだってできるから、楽な仕事だったけれど。あの依頼なら今でも歓迎。今、ちょっと、資金不足なの」
「商売、上手くいってないんですか?」
僕がそう言うと、彼女は片方の頬を膨らませた。
「そうじゃないの。少し前のお客様に使った費用が大き過ぎるだけ」
「僕以外にも沢山、利用者がいるんですね」
「ええ。あなたはネットからでしょう? あなたが申し込んだサイト以外にもいくつもあるのよ。それに、お客様のもとへ自分からアプローチをかけることもあるし」
「『行商人』ってサイト名でしたけど、まぁ、その通りですよね」
「私たちのモットーは『万人の最大幸福』ですから。でも、流星群を呼んだのは痛い出費だったかしら……」
「そんなこともするんですね。確かに、それと比べたら、僕の依頼なんてあまりに簡単ですよね」
「そうね。人をひとり殺すなんて、早ければ数秒で可能だもの。命なんて脆いものよ。どんな方法を使っても殺せるんだから。多分、その心配はないでしょうけど、あまり、思い詰めないことよ。世界規模で考えれば、日々、人は死んでいき、その中には自然死でないものもざらに紛れてるんだから。まぁ、あんまり思い詰めるなら、また私の出番なんだけれどね」
彼女はそう言って微笑んだ。
「思い詰めてなんかいませんよ。僕が望んだことなんですから」
「それならそれでいいわ」
「そういえば、彼が死ぬ瞬間ってどうだったんですか?」
「え?」
「見てたんですよね?」
「うん、まぁ、そうね。えっとね、喩えるなら、パエトンかしら」
「パエトン?」
「知らない? ギリシャ神話の登場人物よ。太陽神アポロンの息子で、父親の戦車を勝手に操縦して、挙げ句の果てに暴走させて、地上のあちこちに大火事を齎した人物。最期は雷に打たれてエリダヌス川に落ちてしまった……、ストーリーこそ違えど、何だかそれを連想してしまったわね。あぁ、可哀想なお友達。独占欲のために殺されてしまったお友達」
彼女は態とらしく踊ってみせた。夕焼けも終わりに近付き、空は藍色になりかけていた。僕の部屋も赤から青に変化していった。僕は何も言わないで、彼女が舞うのを眺めていた。
「あら? 考え事?」
彼女は舞うのを止めて、僕の前に立った。
「あの時の自転車って直せますか?」
「現物があればね」
「ありますよ。事故のあと、ぐちゃぐちゃになった自転車は僕が預かったんです。あの時のまま、ただの金属の塊になって保存されてます」
「直すのは簡単。費用は、どうしようかな……千円でいいわ。本当はもう少し欲しいけど、サービス」
「わかりました」
僕が頷くと、彼女は自転車を直し始めた。僕の知らない器具で、知らない手法で、それはみるみるうちに六年前の形を取り戻した。
「ありがとうございます。では、僕はちょっと、これに乗ってきたいので。費用は僕の財布から抜いて下さい。大丈夫です。どうせなら、全部、中身は持っていって下さい。僕には要らないものですから」
僕は外に出て、自転車に乗り、ペダルを漕いだ。僕の住んでいる場所から少し進むと長い下り坂がある。僕は下り坂を全力で漕いだ。風になって、肉が擦り切れてしまうかと思うほどの速さで、夕闇の中、外灯が点々と照らす道を走った。
僕は今、幸せだった。
富貴の自転車に乗って、まるで、彼と一緒に走っているような気分で疾走する。このままの速度で行けば、宇宙にだって飛び出せるような気がした。もし、宇宙に飛び出たなら、地球の軌道上を無限に廻ろう。
下り坂の終わりが近付いている。そこにはT字路があり、信号もある。でも、奇跡的に信号は青だった。マリーの瞳とは違う人工的な青い光を放ちながら、信号は僕に道を譲った。そして、最後、T字路の向こうには川。道路から水面までの高さは約六メートル。だけど、その前にはガードレールがある。
瞬間的に、僕はマリーを見た。
「サービス」と彼女は言った。僕が自転車修理のお代を多く払ったからだろうか。何にせよ、彼女のお陰で、僕の身体はガードレールをすり抜けて夕闇に青くなった水面へ。
落ちる時に、脳内で騒がしく行き交うのは無数のカラフルなイメージ。どれもこれも、富貴とのイメージ。それが、今、圧縮されて、捩れて、風化していく。二度と戻らなくなっていく。ああ、これが走馬灯か。
ああ、なるほど、まだ、死にたくない……。
けれど、僕の身体は大気に揉まれて動かせず、ただ、捏造された思い出の自転車と一緒に、水面へ猛スピードで進んでいく。
ああ。こんなにも青いのか。
走馬灯が圧潰した。
「依頼は終了したわ」
「ありがとうございました」
「時間がかかってしまったことは申し訳ないわね」
「そこは気にしないで。終わり良ければ……って言うだろ?」
「お心遣い感謝。……それでも、本来の予定なら、二年程度だった筈だから、やはり、ごめんなさいね」
「風代の罪悪感があまりになかったのがいけないんだ。マリーさんの不手際なんかじゃないよ。それに、限定的な注文をしたのは僕だしね。やってくれただけで感謝だ」
「それじゃあ、これで満足かしら?」
「うん。これで、解放される。あの時のメッキの施された優勝からね。富貴の死で僕が繰り上がり優勝みたいになったのは、どうにも我慢ならないことだ。僕が優勝するには? そう、富貴を殺したやつを殺せばいい」
「ええ、そんな感じの依頼だったわね」
「これで僕が優勝ってわけだ。ああ、六年の重荷が空気になった」
「それはそれは……」
「あ、料金は……」
「そうね、千円で大丈夫」
「そんなに安いの? 商売上がったりってことにならない?」
「問題なし。さっき、風代様の依頼の報酬として、彼の全財産を頂いたもの……」
「なるほどね」
「それに」
「それに?」
「人を殺すのに、金なんて要らない」
「そうだね。殺すのなんて、弾ひとつあればいい、その辺の石がひとつあればいい、最終的に、身体さえあればいい。いくらでもできる」
「その通り。私は、彼を自由にしただけ。彼の望むように……」
「ねぇ、もし、人を生き返らせてって依頼があったらどうするの?」
「勿論、全力で応える。ただし、予算の範疇で。今は無理ね。この前、説明したように、流星群を呼んだ所為で資金不足なの」
「ああ、そんなこと言ってたね……」
「それでは、もういい? こう見えて、依頼は以外と多いのよ」
「うん、ありがとうございました」
「はい。またのご利用、お待ちしております」