約束
くちゅ、ぐちゅぅと、生々しい音が、暗い部屋に響き渡っていた。
目の前には、ベッドに寝転んでいる小さくて病弱な、愛らしい妹。
──数日前にされた余命宣告と共に、家に帰ってきた、優しかった妹だ。
彼女は、青白い月夜の明かりに照らされていた。
儚げな印象を漂わせていたその部屋で、彼女は甲高い、耳を突くような声で笑い叫ぶ。
「──ン、パはァァあああっ! うんまいのぉっ! これほど甘美なのも近頃の世には珍しいものよのおっ! キャッハハハハハ!」
──少女の腸を片手に、部屋のあちらこちらに血を撒き散らしながら狂ったように叫んで、心からの歓びを全身で表現している彼女の傍で、黒い筒を片手に握り締めていた制服姿の少年がいた。
彼は俯き、目を大きく見開いて自分の手元を凝視して固まっていた。
──やがて、無残にも食い散らかされた妹の体は、中身がすっからかんになり元より細すぎた腕や脚も中途半端に食われた。
しかし、その静かな寝顔を浮かべている顔だけは真っ白で、汚れなどは何一つとして見られなかった。
「……ふぅ、食った食った! キャハハハハハ!」
最後に指をぱくんと口の中に放り込み、それを哄笑のもと、飲み込んだ彼女。その額には赤く滴る角が月明かりに映えていた。
「なあ……」少年が問う。
「ンぉォ? なんじゃ? 生きとったのか。動かんから死んでもぉてるのかと思ぅてたわ」
「……どう、して……妹を、食った?」
絞り出すかのような声で、少年は角を生やした同じ年頃らしき少女に問いかける。
「くっ、フフ……。どえらくバカな質問するもんじゃのぉ?」
小馬鹿にするように口元に手を当てて笑う少女。
よっ、と彼女は妹の寝転んでいたベッドからくるりと一回転して下り立つと、白く長い髪を赤く濡れた指でかき上げて、同じ色の尖った歯を見せて笑う。
「──腹が減れば物を食う。これは、世の摂理だろう?」
「…………」
少年は、手を眺めていた。
「それとも何か? お前、腹が減っても食わんと言うか? 無理じゃろう無理じゃろう。それが『世の摂理』だからなあ?」
少年は、ジッと自らの手を見つめている。
「……妹じゃなくても、良いはずだ……」
「クハっ! ハハハハ! あ奴は美味そうじゃったから食ったのじゃ。お前も、美味そうな飯かまずそうな飯か、どちらを食うかと聞かれれば間違いなく美味そうな飯を食うじゃろお? それじゃよ」
また、甲高い声で笑う彼女。
自分の手を睨む少年。
「──ぉ」少年が言う。
「お?」
顔を上げて、彼は、眉間に皺を寄せて彼女を睨みつける。
彼女は面白いものを見たような目で「ほーう?」と口にした。
「なんじゃ。文句でもあるのか。ほぉれ、言ってみぃ?」
まるで赤子に掛けるような口調で彼女は目を眇めて言う。
鋭い眼光を彼女に突き立てて、彼は、辿々しく告げた。
「──俺は……何も、言えない。……そして……何も……しな、い」
殊更、彼女は面白がるように「どうしてじゃ? 怖いのか?」と笑いを堪えている様子で少年に問いかけた。
「……妹と」無残に食い散らかされた妹の方を向いた。「約束、したんだ。……『どんな相手にも、愛はあるんだよ。仲良くなれるよ』って。『世界中の生き物と友達になりたかった』って……」
「……ふん、バカじゃな」
「ああ、バカだよ。──でも、アイツに、俺は、笑って欲しかったんだよ。残り短かった命だ。少しでも、笑って欲しかったんだよ。だから言ったんだ。『だったら、お兄ちゃんが世界中の皆と友達になって、紹介してやる』って」
彼は、唇を噛んだ。血が、顎を伝う。そして、笑った。
歪な笑みだった。眉尻は下がり、眉間に皺が寄り、頬は引き攣っている。
「……友達になる奴に、暴力はダメだろ?」
──彼女は、にやにやと笑いながら少年を見つめていた。
「約束のお? ふむふむ。約束は確かに大切じゃなあ?」
ただ、と彼女はにんまりと裂けたかのような口で赤い歯を見せつけて、言葉を付け足す。
「状況が状況じゃろう? 妹を、お前の目の前で食ろうた妾がおるのじゃ。しかも、目の前に。手を掛けられる距離にのう。憎いじゃろう。ムカつくじゃろう。怒るのは、怨むのは、当然の権利じゃ。それでもお前は、妾に手を掛けんと?」
眼前で、白髪の鬼畜は少年の黒い瞳を覗き込む。
そして、それを睨み返した少年は、握り締めていた黒い筒をその手で握り潰し、鼻息荒く「ああ」と短く返した。
「……殺さない。妹との、最後の約束だ。──絶対に、殺さない」
その強い光を見て、彼女は目を閉じて、少年から一歩距離をとった。
「……ふうん、なるほどのぉ」
少年の瞳から目を背け、彼女は小さく吐息した。
「すまんな」
「…………」
「妾よりも強いの、お主は」
「…………」
「どうすればそのように割り切れる? ──妾は、同胞を絶滅させた人間のことを、腸が煮えくり返りそうなほど憎たらしく、許せるわけもなく、殺し尽くしても、この怒りは消えんかった……。お主は、なぜ、そうまでして、敵を目の前にして、踏みとどまれる? どうやって、怒りを消した?」
瞬間、少女は、唸りを上げた拳を顔面に喰らい、尻もちをついた。
目を白黒させた少女は、鼻血を垂らした顔で少年を見上げて、その顔を見る。
「これが、怒りの消えた顔か?」
「…………」
「怒りは、ある。今にも爆発しそうだ。今すぐにでも、お前を思いつく限り残忍な方法で殺してやりたい。──けど、やらない。俺は『お兄ちゃん』だからだ。『家族』なんだよ。アイツの願いを叶えてやりたいと、そう思えるからこそ、俺は、努力している」
「……そうか」
「お前に、何があったかは知らないけど……」彼は眉間の皺を深くして言った。「家族に、幸せになって欲しいって願うのは、それだけは悪い事じゃ、無いはずだ」
少女は大きく目を見開いて、ゆっくりと立ちあがる。
真っ直ぐに、少年を見つめ返した。
「……償いを、させて欲しい」
「償い?」
彼女は、思い詰めた目で、告げた。
「妾は……この娘を食ろうた。憎かろう。……妾は、お主の側におる。いつでも、殺したい時に好きなように殺すが良い。その間、妾は、お主の約束を遂げる手伝いをしよう」
「……好きにしたらいい」
少年は、それ以上は何も言わなかった。
少女は、少しだけ笑みを浮かべた。
その笑みは、バカにするようなものではなかった。ただ、労るようなその笑みは、どこか自嘲みちていた。