第二話
12
「亜矢ちゃん、お客さんが来てるわよ」
「高階様?」
「ううん、男の人」
「着付けが終わったら行くから」
バックヤードでハーフモデルのマリアちゃんの着付けを手伝っていた。
今度の秋物の売り出しで撮影がある。服の試着と全体の仕上げの確認だった。
マリアちゃんの背中のホックを留めてやり、
「ごめんね、ちょっと待ってて」
と店内に出た。
なぜか入口に人だかりがしている。店奥の棚のそばにいるお客さまもちらちらと入り口に視線をやっている。女の子のスタッフの動きが妙にぎこちない。
入り口を見て視線がくぎ付けになった。洋服とマネキンが立ち並ぶ中で、その男は存在感が負けていない。がっしりとした上半身ながら全身がスマートで均整がとれている。
一瞬撮影で呼ばれたモデルかと思った。しかしオールバックでなでつけた髪と涼し気な目元に見覚えがあった。
ポケットに手を入れてポスターを眺めていた男は、近づく私に顔を向けとかすかに口元をゆるめる。
「……莉奈のおねえさん?」
「そうです」
男はポケットから手を出して私に向き直る。
「亜矢さんだね、よろしく。槇岡美津です」
引き締まった顔立ちがほころぶと、男らしさと好ましさが入り混じった。
ツイードのジャケットに長く垂らした純白のスカーフ。かすかに紳士物の香水が匂った。
「一度ご挨拶をと思ってました」
「別荘に招待するつもりだったんだけど近くを通ったんで。こっちも挨拶だけしとこうと」
「あらご丁寧に」
服のセンス。接する時の立ち居振る舞い。
うちの店は何百人ものセレブもお客にし女優やモデルも仕事で付き合う。
この男はどんな相手にも引けをとらないだろう。たまたま金を手に入れた人間のような下品さもない。
自然とその美貌とスタイルに引き込まれる。
(……今回ばかりはえらくいい男見つけたじゃない)
莉奈を祝福してやりたい気分だった。
「別荘ってどちらに……」
「あちこちにいくつかあります。夏ならヨットでも良かったんですけど、お姉さんは仕事であまり遠くにはいけないって伺ったんで。横浜の方でどうですか? 夜景も見せたい」
「まあ素敵」
「それじゃ莉奈とも話してまた日にちを連絡します」
「ええ、よろしく」
槇岡が帰ってからもしばらくその独特の空気感が漂ってるかのようだった。
義弟になるかもしれない相手という緊張感以外にも男の強烈な魅力の残り香がこちらを酔わせる。
「ねえ、今の人誰ですか? すっごいイケメン」
アルバイトの短大生の美和ちゃんが近づいてくる。キャピキャピした明るさはこの子の特徴だ。
「高そうな車が駐まったから芸能人か誰かと思ったら……あの人俳優じゃないですよね?」
「ちょっとした知り合い。うちの家族の」
「へー、機会があったら紹介してくださいよ! ぜひぜひ」
「はいはい」
先輩社員の佐田さんも寄ってきて好奇心も露わに言う。
「あなた槇岡さんと知り合い?」
「佐田さん、あの人知ってるんですか」
「知ってるも何も有名人じゃない。槇岡グループの跡取りでしょう。時々雑誌に出てるじゃない」
「……そうでしたか」
だから写真で見覚えがあったのだ。
「元々はね、財閥の分家筋の家柄の人。大昔は石油事業から造船もやってて。会社は新聞やテレビ局の大株主。戦後はあちこちの会社は分かれたらしいけど、昔は槇岡コンツェルンって言えば財界じゃ凄いところだったんだって。そこの御曹司」
……莉奈もえらい男をつかまえたものだ。バックヤードに戻りつつ期待とも不安ともつかぬ気持ちがわいてくる。
ドアのところにマリアちゃんが立っていた。
「ごめんね、お待たせ」
なぜかマリアちゃんは眉を寄せて不快そうな顔をしている。
「いまの……槇岡美津じゃない」
「……どうして知ってるの?」
「うん……」
マリアちゃんが顔を曇らせたままなのが引っかかった。
「亜矢ちゃん、まさか誘われたりした? 食事とかどこかに遊びに行こうって」
「ううん。ちょっとした身内の知り合いなの」
「……そう。ならいいけど」
それ以上は深く語らず、マリアちゃんは打ち合わせに戻った。
13
「神戸まで服を届けろって?」
「ご指名なんですよ、高階様が。亜矢さんを」
「あっきれた。人を使用人か何かと思ってんじゃないの」
すまなそうに美和ちゃんは箱一式をテーブルに置く。
「郵便で送ればすむ話じゃない」
「服の着付けをどうしてもお願いしたいって。それとカタログに載ってた新作のカーディガンと帽子について相談したいって言われてました」
「着付けって背中をリボンで結ぶぐらいしかないでしょ」
「でもあのドレス、結び方ですごく印象が変わるじゃないですか。着物の帯みたいに。だから亜矢さんじゃないとできないからやってほしいって……」
「カタログ見れば済む話じゃない。なんでも言うこと聞いてもらえると思ってるのね」
菅谷さんが口をはさんでくる。
「ほら今度神戸コレクションがあるでしょ。その帰りに行ってきなさいよ」
「一日空きますよ」
「いいわよ。帽子とか他のもどんどん売りつけてきなさい。呼びつけたんだからきっと買ってくれるわよ」
スタッフの間で“ドル箱おばちゃん”と呼ばれてるのも私も知っていた。
「十年来の大事なお得意様よ。あんたも店長になるんだから太客はきっちりキープしときなさいね?」
片目をつむって菅谷さんは笑う。
「……分かりました」
14
「亜矢ちゃん悪いわね」
言葉とは裏腹にまったく悪びれない態度で高階の奥様は言った。
波止場ではヨットのイベントが開催しているらしく、ヨットや船舶がずらりと並んでにぎやかな音楽が響いてくる。色とりどりの飾りの旗が鮮やかで、あちこちの食事や展示ブースで人だかりがしている。
高階様の別荘は高台にある二階建の洋風建築だった。小じんまりとしているが、場違いに縦長の煙突が付いている。
部屋着に眼鏡をかけた高階様は私を寝室に招き入れる。
「ごめんね、夜にパーティーがあるんだけど着付けする自信なくって」
「だいじょうぶですよ」
着付けやリボンの結び方。手先を動かして教えながらこんなもの子供でもできると内心思う。
しょせん“自己満足”の問題でしかない。
「ありがと。亜矢ちゃん、お茶入れるわね」
海を一望できるバルコニーに案内された。
遠目に映る真っ白なヨットがまぶしい。その中でひときわ目を引く巨大な船が係留されている。イベントに来た人たちもカメラを持って周りにたむろっている。
「綺麗な船……」
「ああ槇岡さんところの船よ」
「……槇岡? 槇岡美津さん?」
「あら知ってるの?」
「ちょっと……」
あれがこの前言っていた船か。船上でパーティーもできそうだ。
「毎年見えてるのよ。槇岡さんも。一度ご一緒したことがあるわ」
急に波止場から歓声があがる。タラップからひときわ背の高い人影が下りてくる。
黒のジャケットにカバンを肩に携えている。
サングラスをしていても槇岡の均整のとれた身体と目鼻立ちの美しさは際立つ。
女の子たちが色めき立って近寄っている。中にはずっと出てくるのを待ってたと思しき人影もある。
その中で槇岡の後ろの人影が私の胸を刺した。
ウェーブにかかった長髪と薄茶色の髪。赤のワンピース。芸能関係者の匂いがする。
寄り添うように槇岡とともに歩き、二人で出迎えの車に歩いていく。遠目にも親しげなのは見て取れた。
――莉奈ではない。
胸が激しく痛んだ。
あれほど美形で大金持ちの御曹司だ。人気が出るのは仕方ないのだろう。
しかし婚約済みの男が大勢の女性にちやほやされ、恋人のような相手まで連れている……
妹が裏切られている光景を眼前に突き付けられるのは苦しかった。
槇岡は女たちに軽く手を振ってBMWに身を入れる。
乗り込みざま、ふと槇岡の目がこちらを向いた気がした。
15
スタジオでカタログ用の撮影が終わると、マリアちゃんが声をかけてきた。
「亜矢ちゃん、ちょっと」
「え?」
スタジオの隅で腕組みをして何やら言いにくそうにしている。
「あのね……」
「どうしたの」
「この前のことだけど」
「この前?」
「槇岡……槇岡美津のこと」
「ああ」
私は笑った。
「あの人がどうしたの」
「前も少し聞いたけど……もしかして声からけられてる? 遊ぼうとか? お店の人から何か約束あるみたいって聞いたから」
「ううん、そうじゃないのよ。実はね」
莉奈の婚約のことは誰にも打ち明けていなかったが、マリアちゃんにだけ話してみる。
事情が分かるとつれてますますマリアちゃんの顔つきが険しくなる。
「妹さんならやっぱり問題」
「なにが?」
マリアちゃんは何でもはっきり口にする性格だ。
「やめさせたがいい」
「えっ」
「余計なお世話かもしれないけど。私もこの業界いるでしょ。モデル仲間も多いから男の噂も入ってくる」
船から降りてきた槇岡の姿が脳裏によみがえる。嫌な予感がした。
「……評判悪いの」
嫌悪感を浮かべてマリアちゃんは舌を出す。
「どれだけ知り合いの子が泣かされたか……」
吐き捨てるような感じで言う。
「大金持ちでしょ。しかもとびきりのイケメン。口説く時はすっごく情熱的なのよ。だから女の子ものぼせあがって……でも最初だけ」
「そんな……」
「飽きたらね、女の子がどんなに夢中でもおかまいなし。ポイって。一方的に」
全身から血の気が引いた。
「親にも紹介済みで、あいつのために仕事辞めた子もいるのよ。でもあいつにはどうでもいいこと。全部自分の気分次第。相手のキャリアがつぶれようがお構いなし。大勢の遊び相手の一人。アクセサリー程度にしか女のこと思ってないのよ」
心が冷え込んでくる。莉奈もそうなるのだろうか。
「でも……妹とは婚約までしてて」
「関係ないわ。結婚の約束してたのに捨てられた子もいた。欲しいものは必ず手にいれるけど、飽きたらそれまで。後で泣きをみるわよ」
高階様の奥様を思い出される。
しょせん何不自由なく育ってきたぼんぼんなのだ。
身体が震えだす。どうしよう。マリアちゃんはそんな私を見て気の毒そうに続けた。
「いっときのおもちゃなのよ。私だったら誘われても絶対いかないわ」
16
後片付けが終わってからも私はスタジオの片隅で呆然としていた。
マリアちゃんの言葉の残した衝撃が心から消えない。
莉奈の、心の底から喜んでいる姿が脳裏にちらつく。
『今度こそは間違いないの』
生まれて初めて結婚の約束までたどり着き、幸せの絶頂にいる。
あの移り気で、恋多き子が心から惚れてる。
莉奈らしく全身で、人生のすべてをかけて、愛してる。
それが崩れたら……
前に手ひどく失恋してずっと泣き暮らしていた莉奈を思い出す。
もう外に出ない、死ぬとまで泣きわめいていた。
父さんたちを失った時のように心が打ち砕かれてボロボロになるかもしれない。
莉奈は槇岡の裏の顔を知らない。
……どうすればいいの。
私は唇を噛んで頭を抱えた。