第一話
1
莉奈から電話がきたのは高階様を接客中の時だった。
ポケットで震える携帯の画面を確認し、あえて放置する。
高階様に向けた笑顔を崩さないようにしながら試着室にエスコートした。
「色は素敵だけど、おなかがきつそうなよのねえ」
五十も半ばをすぎたマダムの言葉に思わずうなずきそうになるも、さかんに自己主張するおなかの肉から目をそらして
「こちらはですね、上着の紐がベルト状になってまして。自由に調節できるんですよ」
「あら、ほんと」
目の前に掲げて紐を引っ張って開け閉めしてみせる。
試着させるまでの勝負だ。
一度気に入ってしまえば値札の数字など気にせずに「これちょうだい」と手渡してくる。
神戸では地元の長者番付に入るほどの国際貿易商社の社長夫人、大事なのは財布でなくて自分の気分なのだ。
高階様がカーテンの奥に消えるとこっそりと携帯を取り出す。
(仕事中はダメだって言ってるのに)
舌打ちしそうな気分に襲われる。
(また厄介ごとね)
頭の中に莉奈の泣き声がこだまして思わずため息が漏れた。
「どうかしらねえ」
カーテン奥の呟きに現実に引き戻され慌てて背筋をただす。
お得意様を待ちながらも何十回も自分に言い聞かせてきた言葉を繰り返す。
――わたしがお姉ちゃんなんだから
カーテンが急に開かれ私はあわてて完璧な営業用のスマイルを取り戻した。
「まあ素敵! ぴったりじゃないですか」
2
「新しいお母さんがくる」
そう父から聞かされたのは中学生の時だった。そして「新しいお母さん」には「妹」も一緒だということも。
まだわたしも多感で傷つきやすい年頃だ。
母の思い出を捨てて再婚しようとする父が許せなかった。
「いや! 知らない人をお母さんなんて思えるわけないじゃない。お母さんのこともう忘れたの?」
と猛反発した。
泣いて抗議する私を父はなだめようと必死だった。
「わかってくれ亜矢。父さんだって好きな人ができるんだ。父さんが新しいパートナーを選んだら駄目なのか?」
「…………」
「それに家にはお母さんがいてくれた方がいい。おまえのためにもなる。男手だけだと何かと不便だしな」
それから父は衝撃的な言葉を告げた。
「あちらにも小学四年生になる女の子がいる。おまえの妹になる」
ショックで頭がくらくらした。再婚だけでも受け入れないのに。
見知らぬ家族がもう一人増えるのだ。
「無理よ、そんなのやっていけるわけないじゃない!」
何度も大喧嘩した挙句、私は折れた。
もう勝手にすれば、という気分で湧き上がってくる感情を殺し現実を受け入れた。
思えばあの頃から気持ちを抑制する癖がついたのかもしれない。
3
予想に反してやってきた「お義母さん」は上品で優しげな人だった。
本当に「お母さん」と感じるにはわたしは成長しすぎていたけど、何度も食事をともにし、時には旅行まで一緒にしていると、かたくなだった私の心も徐々にやわらいできた。
父と二人のわびしい家庭に訪れた温もり。
壁を作っていた私を義母さんは大らかに、柔らかく包んでくれた。
久々に見る父の心からの笑顔を目の当たりにし、皆で暮らす家族の息吹きのようなものにを感じているうちに、一緒に暮らしてもいいかなという気にもなっていた。
その日は私の誕生日で義母さんが手料理をふるまってくれた。
莉奈の誕生日が近いこともあり、まとめて誕生日プレゼントを買おうという話となって、
莉奈はテディーベアの大きなぬいぐるみ、私はパーカーの文房具セットを買ってもらった。
「二階で遊んでらっしゃい」
と、食事がすむと私たちは一緒に私の部屋に行った。その日は莉奈も泊まる予定だった。
「一階にも部屋空いてるけどどうする? マットレスがあるからここで寝てもいいよ。ベット使ってもいいから」
ベットに座る莉奈は、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめながらかすかにうなずく。
明るくてよく笑う子だと思っていたが、その日はなんとなく食事中から心ここにあらずといった感じだった。
お互いにどこかに壁があったかもしれない。
莉奈はぬいぐるみに顔をうずめて黙ってる。
「どうかした?」
私が横に座るとそっと顔をずらす。見上げるような視線で私をうかがう。
「あのね、ママがね、来月からみんなで一緒に住みたいって」
「……そう」
予期していたことだ。もう反抗したってどうにもならない。半ばあきらめの気持ちもあった。
「……いいの?」
「ん?」
じっと私の目を見つめた。
「嫌なんでしょ? 一緒に住むの」
「……そんな」
力なく私は笑った。
「別に……嫌じゃないよ。いいよ、みんなで一緒に住めば」
「ほんとに?」
「うん」
ぬいぐるみに顔の下半分をうずめて、莉奈は床に目を落とす。
「ねえ」
「なに?」
おずおずといった感じで莉奈は寄り添ってきた。
そっと顔を私の左腕にあずける。
「あのね」
「ん?」
「お姉ちゃんって呼んでいい?」
一瞬呼吸が止まった。
「あたりまえじゃない」
ぱっと花が開いたように莉奈は笑い、私の腕にしがみついてきた。
この時から私たちは姉妹になった。
4
思ったより私たち家族は上手くいった。
世間では義母による虐待やネグレクトだのよく聞くが、私たちの間ではそうしたことはなかった。
それでも取り払えない小さな溝のようなものはどこかに感じていた。
これはどうしようもなかった。義母さんも私ももう成長しているのだ。
お互いに分かっていながら努めて私たちはそれを意識しないよう振舞った。
なにより家族が結びつけられたのは莉奈の存在があったからかもしれない。
どこか遠慮があった私と違いあけっぴろげで、感情を丸出しにする妹。
「パパー、お土産買ってきてくれるって言ったじゃない!」
「すまん、忙しくてな」
義理の親でも関係ない。
すぐに「お父さん」になじんだ莉奈は、はたから見たら本当の親子のようになっていた。
天真爛漫で裏表もない性格。全力で本音で相手にぶつかる妹。
どこか私たちは莉奈が中心に回ってるようなところもあった。
同居する前に父から言われた。
「おまえがお姉ちゃんなんだから。守ってやるんだぞ」
義母さんも同じだった。
「莉奈を守ってあげてね」
私の人生は莉奈と二つで一つになったのだ。
5
「おねーちゃん、聞いて! ひどいのよあの子」
「なに、櫂君のこと?」
明るく人懐っこく、誰にでもオープン。お人形のように愛らしい顔立ち。
妹は成長するにつれ男の子から人気の的となり、デートの相手にも不足しない。しかしあけっぴろげで感情を隠さない性格は時に周りを振り回す暴風雨ともなる。
ボーイフレンドができたかと思うと喧嘩別れ。デートまでこぎつけてもトラブル続き。
気分次第で付き合う相手も変える。
振り回される男の子もかわいそうだった。
「あいつ最低! もう別れるから」
「別れるって、あんた、付き合ってまだ三日目でしょうが」
「だって~私服もダサいし、ぜんぜん気がきかないし、いっつもモタモタしてる頭来ちゃって。あんなのパス」
「長く付き合えばね、相手のいい所だって見えてくるのよ」
「無理。ねっ、だからお願い」
莉奈はおがむまねをする。ここで私にお鉢がまわってくるのだ。
別れを告げるのは気まずい。もめる。
嫌なことは「お姉ちゃん」にやってもらうというわけだ。
若い学生ばかりだから別れを告げる時にはややこしくもなる。
ショックで泣きそうになる男の子やパニックになって莉奈を出してくれと叫ぶ子。
交際経験が豊富ではなかった私が、別れ話だけは巧みになったのは皮肉としか言いようがない。
恋、お金、服、下宿……
大人になっても莉奈は変わらない。時には自分が振られたといって泣きついてくる。
私が仕事に出るようになってからも厄介ごとは全部私に回ってくる。
むしろ大人になってからがトラブルのスケールが大きく、うんざりしつつもひたすら受け入れた。
莉奈には私しかいなくなったからだ。
6
はじまりは五回目の結婚記念日の旅行だった。
驚いたことに父と母は自分たちだけで記念旅行に出かけると言った。
それまではむしろ家族の距離を埋めるためにも積極的に皆で出かけるところもあったのだ。
「なんで~、わたしも行く」
駄々をこねる莉奈に父は幸せそうに笑ってさとした。
「今回だけは二人水入らずで行かせてくれ」
義母さんも笑って賛同した。
「結婚記念日なのよ、おねがい」
私は反対しなかった。
こんな風に私たちを放っておけるのももう家族になった証だった。
二人は出会った思い出のある逗子海岸に向かっていった。
親戚のおじさんから「お父さんたちが事故に遭った」と連絡がきたのは翌日夜遅く。
莉奈はとうにベットに入っており、私は夜更かししてリビングで洋画のDVDを見ていた。
普段はおっとりした性格のおじさんが切羽詰まった声だったのが、切迫した状況を感じさせた。
「父さんたち、大丈夫ですよね?」
問う私におじさんは声を濁して答えない。
「……とにかく早く病院に来てくれ」
とただ繰り返すだけだった。
病室に並んだ激しく傷付けられた身体を見て一瞬で私は理解した。
新しい家族は失われたのだと。二度と取り戻せないものが増えたのだと。
泣き崩れる私に、おじさんと救助にあたった消防団員の人は説明してくれた。
二人が車ごとがけ下に落下したこと、現場は地盤がゆるく、たびたびがけ崩れなどが起きていた場所、役所も何度も陳情されていたが、予算や人員の関係で看板やガードレールなどを設けるだけで済ませていたという。
父さんたちは崖のガードレールぎりぎりまで車を寄せて景色を見ようとしていたという。
危険なので地元では近付く者が少ない場所で、警告の看板は出ていたが、曇り空と景色に気を取られたのだろうとの話だった。
元の地盤の悪さに先月の台風で土地は荒れており、車の重みもあって悲劇は起きた。
腕の中で泣く莉奈を抱えながら、私はただただ現実を受け入れられなかった。
7
帰宅するとシャワーを浴びてからソファに横になる。
テーブルに置いたペンダントを取り上げ、中の写真を見る。
二度と撮れない家族みんながそろった写真。時はあの頃で止まっている。
ペンダントを胸において手探りで携帯を取り上げる。
(……また男の話か、使いすぎでお金を貸してくれってところかしら)
仕方ない。
今はもう莉奈は私しかいない。
私だって莉奈だけだ。
過去を乗り越えて今は笑えるようになったのだ。
莉奈がいなかったら私だってどうなってたかもしれない。
高校を卒業してから私は服飾デザインの専門学校に通いアパレルに就職した。
「亜矢ちゃんは学校の成績も良いんだろう。大学にいったらどうだい」
と父の世話になっていたおじさんは援助まで申し出てくれたが、断った。
「大学は莉奈が行きたいといってるので莉奈を助けてあげてください」
「……莉奈ちゃん、成績の方は大丈夫なのかい?」
「莉奈は行きたがってるので。お願いします」
こうして莉奈は都心のミーハーな女子大に通い、私は仕事に打ち込んだ。
学部を卒業してもまだ就職したくないらしく、莉奈は形だけ大学院に所属している。
そっと携帯を発信させて耳にあてる。
もう私の人生は自分だけのものじゃない。私たちは二人でひとつ。
かけがえのない、失えない家族……
8
莉奈がテーブルに置いた写真にしばらく言葉が出なかった。
(……珍しく今回は“当たり”じゃない)
「どう、素敵でしょ」
莉奈は得意そうに胸をそらす。莉奈の電話は泣き言でも愚痴でもなく「会ってほしい人がいるの」との話だった。
「またもめごとじゃないでしょうね」
皮肉っぽく尋ねる私に莉奈は口をとがらせる。
「ちがうの。今度は真剣な付き合いだから……」
(……付き合うたびに同じこと言ってるじゃないの)
そう言いたい気持ちを抑え、莉奈の勢いにのせられるように昼休みに都内のレストランに招く。
「槇岡美津って名前。カッコだけじゃないのよ。やり手のビジネスマン。それにすっごいお金持ちなの。引っ張っていってくれるタイプで……もうメロメロ」
愛しくてたまらないという風に莉奈は笑う。
「はいはい」
一度夢中になると周りが見えない。
誰かに恋に落ちるたびに夢見る乙女の顔になる。しかも今回は瞳の輝きが一段と違う。
「でもいい男なのは確かね」
写真を取り上げて改めて眺め透かす。オールバックにきめた髪。白皙でありながら引き締まった顔立ち。精悍でイケメン俳優として主役をはれるだろう。どこかで見たような気もする。
「でしょ! 美津は会社も経営してるのよ」
胸元までの写真だがスーツがベルサーチなのはみてとれた。
「えらくいい人見つけたわね」
「うふふ」
無邪気に喜んでる莉奈に少し不安もきざす。騙されて遊ばれてる怖れもある。
「……あんたね」
あんまり考えなしだと若い時みたいに痛い目にあうわよ。そう言いたくなるが口をつぐむ。いらぬお説教かもしれない。
手を組みながら莉奈は照れたように言う。
「今回はね、彼氏の紹介だけじゃないのよ」
「……なに?」
「ものすごいサプライズ」
「だからなによ」
莉奈はいたずらっぽい目つきで私を見上げる。両手で私の手をつつんだ。
「あのね……」
思わせ振りに身体をくねらせる。
「気持ち悪いわね。早く言いなさいよ」
頬が赤らんでる。恥らってる? 珍しい。
莉奈はそっと顔を私の耳に近づけた。
「プロポーズされたの」
声をあげて莉奈はテーブルの上で身もだえた。
「プロポーズって……」
絶句する。もうそんなところまで進んでるなんて。
「うーん、ちょっと急すぎない?」
ひまわりのような満面の笑みの莉奈に、水を差すのはためらわれた。
しかし結婚となると冗談ごとでは済まない。たやすくスルーできないわ。
無警戒なお嬢様になっている莉奈……。
「OKしたの?」
「もちろんよ! 式をすぐあげるとかじゃないの。約束だけでもお願いって」
「…………」
全身からこぼれおちるように喜びを発散している。文句をつけるのがためらわれるほど幸せの絶頂だ。
どうすればいい?
反対したら大泣きして大喧嘩になるのは目に見えてる。
「事情は分かったわ。まだ婚約段階なのね?」
「そう」
「ほら、でも結婚って大事なことでしょう? 莉奈はまだ若いし」
遠回しに焦らないように仕向けないといけない。
だいいち大学院に籍だけはある。まだ急ぐまでもない。なんとかしないと……
「……いつか三人で会いたいわ」
「うん。今日はそのことも兼ねて。美津にお姉ちゃん紹介するって言ってある」
見過ごせない。武者震いのような父親になったような錯覚に襲われる。
莉奈には私しかいない。転げ落ちそうになったら私が止めないといけない。
「そうね。どんな人か一回会ってみたいわね……ほら、莉奈。あんたもまだ二十四でしょ。あせることはないわ。じっくり考えればいいの」
「わたしだって考えてる。考えて決めたの」
「…………」
恋に夢中になってる乙女に説教臭いことを言っても無意味だ。特に莉奈には。
爪を噛みたいような焦燥感が背筋を走る。
結婚の話となると私も未経験、すぐに答えは出せない。
誰か頼れる大人のアドバイスが欲しかった。
父さんだったらなんて言うだろう…… 天涯孤独の寂しさが身にしみた。
9
(とりあえずまだ約束だけ。何かあってもやり直せる)
莉奈と別れてからも頭の中がぐちゃぐちゃになって考えがまとまらない。
莉奈には幸せになってほしい。それは心からの願いだ。
結婚という人生で一番大事なこと。姉だからって勝手に踏み込んでいいものだろうか。
本当にいい男性で二度と巡り合えないような相手なら、私が壊してしまったら莉奈の人生をメチャクチャにすることになる。
(……一度会って人物を見極める。あぶない男だったらとめる)
悩んでるさなかに携帯が鳴った。女店長の菅谷さんだった。
「亜矢ちゃん、どこにいるの?」
「今昼休憩中で外です。店長はもう戻られたんですか」
「ううん。もう少しオーナーと話がある」
菅谷さんは雇われ店長でオーナーが別にいる。オーナーは世界中に不動産や店を所有しているので、あちこちを飛び回っている。実際に顔を合わせるのは年に数回ぐらいだ。
最近はグアムのゴルフ場に投資していると聞いていたが、先日帰国していた。
「明日ね、悪いけど出勤前に渋谷のTTビルに来れる?」
と、菅谷さんはオーナーの管理物件の名前をあげた。オーナーの事務所もそこにあると聞いている。
「だいじょうぶですよ」
「大事な話があるから。オーナーも一緒にね。店はサブの子にまかせといて」
直接オーナーと話すなんてめったにないことだ。
「分かりました。出勤前にうかがいます」
10
「渋谷店を引き受けてくれないか」
早朝の開店前。
ビルから見える風景は通勤時間の混雑の一歩手前だった。
オーナーの言葉のもたらした衝撃が大きすぎて、私は風景を観察する余裕もない。
意味が頭の中に落ち込むまで時間がかかった。
隣にいる菅谷さんも同意するように微笑んでいる。
小太りの身体をスーツに包み、銀髪をきちんとなでつけたオーナー。
二人とも正式に私に店長職を打診しているのだ。
「渋谷店……ですか? だって菅谷さんだっているじゃないですか」
まだ私は26歳、あんな旗艦店クラス…… 途方もない話だ。
一日の売り上げは時に何百万にものぼる。
「前からホノルルに新規出店する件言ってたろ。ようやくメドがついたから本格的にやりたいと思ってる」
「……ええ」
「初のハワイ出店だしね。太平洋区域の旗艦店クラスにまでもっていきたい。菅谷君はそこに連れていく」
「菅谷さんを…… それで私に渋谷店の方を?」
「そうだね」
頭がパニックになりそうになった。
「働いてまだ四年目ですよ。一番の激戦区なのに……お店を切り盛りできるか」
オーナーは銀髪をなでつけながら、ふくよかな頬をゆるめた。
「異例の抜擢なのは分かってる。でも前々から菅谷君とも話してたんだよ。
君の働きぶりはずっと見てた。外商、経理、仕入れのセンス、モデルの手配、バイトの子の扱い、何をやらせても問題ない。
実際君を気に入ってるお客も多いだろう。ゆくゆくは、とは思ってたんだが、それがちょっと早くなるだけだ」
嬉しいという気持ちの反面、現実に頭が追い付かない。
……いつか自分の店を持ちたい。
それは長く温めていた夢だった。
経験を積んでお金をため、援助してくれるような人が出てくれれば可能性があると思っていた……
「もちろん不安なのは分かる。だから人も新しく入れるよ。経理のベテランや仕入れ担当もね。実務に強い連中をそろえてサポートをしっかりさせる」
戸惑っている私にオーナーは悪戯っぽい目つきを向ける。
「自信ないかい? 君にとってはチャンスでもある」
「はい……」
夢が目の前に迫っている。大きく飛び立てるチャンス。尻込みしてたって始まらない。
「やります。やってみせます」
「よし。その言葉を待ってた」
満足そうにオーナーは私に手を差し出す。
力強く握手を交わしながら、身体の奥から熱い興奮が弾けそうになった。
11
「店長だって?」
口に運びかけていたコーヒーカップを隼也は皿に戻した。
「いつからだ?」
「そうね、近いうちに。今の店長がオーナーについてホノルルに行くの」
隼也は眉根を寄せて手を組む。何か悩んでいる様子だ。
「あんまり喜んでくれないのね」
男は恋人の出世を喜ばない、むしろ女が出世するのを嫌がることもある。
そんな言葉を思い出した。
「忙しくなるとは思うけど……店長の仕事も慣れれば普段通り会えるようになると思うわ」
「そうじゃなくて」
隼也は煩わしそうに首を振る。
「なに」
頬杖を突きながら半分ほど残ったコーヒーに目をやり、なんとはなしにスプーンでかき混ぜ続けている。
「あのな……」
「うん」
「俺もちょっと転勤になるかもしれない」
「ほんとに? どこ」
「エクアドル」
「エクアドル? あの南米の?」
さすがにあきれた。戦前の製糖会社が前身だったという隼也の会社は、今は商社の下請として海外業務もよくある。たまに海外出張でお土産をくれるのだ。
「それでな、どうしようかと思ったんだよ」
「なにが」
「おれたちのこと」
「…………」
「あっちにいったら簡単には帰ってこれないだろ?」
そう言って遠慮がちに私を見る。
「…………」
言葉を続けずに隼也はまた黒い液体をかきまぜた。
……ついて来てほしいのだろうか。
はっきり言わない。私が断ると分かってるのだろう。
(なんてタイミングよ……)
頭痛がしそうになる。莉奈のこともある。
とてもじゃないが今日本を離れるなんて無理だ。
迷って窓の外に目をやってる隼也。
(もし将来を大事に思うなら私たちも約束を……)
そんな思いも兆す。
しかし隼也を見ればそんな覚悟なんて無いのは分かり切ってる。
そんな重たい話などしょいこめる間柄でもないのだ。
「ずっと向こうにいるの?」
「いや、一時出向だ。でも一、二年ぐらいはいなくちゃいけない。
上の役職に就くには海外支社のことも分かってないとだめなんだよ。だから悪い話じゃない」
「出世コースなのね。なら辞退はできないわよねえ」
隼也の横顔ながめる。明るく裏表がない性格。お人好しでで少し優柔不断。
多少恋人として不満はあるものの、好きかと問われれば好きだ。嫌いな相手と二年も交際を続けられるわけがない。
まだ二人とも若く、たまに仕事の合間のアバンチュールを楽しむ。軽い恋の相手。
真剣に将来を考えるなんてまだ先の事。
口にしなくてもお互いに分かってる。
悩んでる隼也に同情めいた気持ちを抱く。
わたしと同じように突然降ってわいた将来への決断に苦しめられてるのだろう。
以前から自分の店を持ちたいとは話していた。だから私の気持ちもよく承知してるはずだ。
どこかぎこちない雰囲気になってくる。
お互いの気持ちを分かっていながら身動きがとれないジレンマ。
「なあ」
意を決したように隼也は顔をあげた。
私の目を見て身体を乗り出す。
「エクアドルについてきてくれって言ったら来てくれるか?」
唇を引きしめる。やるせないため息がもれて隼也の瞳を見返す。
私ははっきりと首を横に振った。
「無理。今はついていけない」