第五章 いけ好かない依頼人
次の朝。僕は五時過ぎに起床した。
何でかと言うと、昨日部屋に戻ってからすぐに布団に潜り、眠りについた為、携帯電話のめざましを前日の、つまり任務の為に早起きする時間帯にセットしたままだったからだ。すっかり忘れていたよ。
それにしても久しぶりに眠りが浅かった。まさか鳥のさえずりで目が覚めるとは思ってもなかったよ。もちろんそのあとすぐに二度寝体制に入ったけれど、思ったように寝付けなかった。
洗面所の鏡に写った顔の目元にうっすらと黒いふちのような物が付いていた。あと二日も徹夜すればスラッガ−のような目元になるなこれは。
さて、何をしようかと、延々繰り返される近畿地方の天気予報を見つめながら考えた。
――やっぱり、することといえばあれしかないよな。昨日よりも少し時間が早いけど僕は制服に着替え、カバンを持ち、昨日思い残したことを片付けに向かった。
昨日と時間が違ったからか、電車の乗り換えや、快速電車などスムーズに乗り換えられて思ったよりも三〇分ほど早く着いた。さてどうやって時間つぶしをしようかと考えながら四番ホームに突っ立っていると、予想外の出来事が起きた。
これは好都合なのだろうけどなぜこの時間に? 七時一九分ではなく。
少し戸惑ったけど、僕はあの三日間と同じように彼女を尾行した。ただ一つ違うのは命令ではないということだ。
彼女が昨日までと違ったところは時間だけではなくその行動もだった。いつもなら売店や自販機にすら寄り道しないのに、今日は駅に隣接されている地下街に向かって歩いて行った。
どういう風の吹き回しだろう。こんな早朝に開いている店なんてあるわけないのに一体何が目的なのだろうか。
この三日間で身に付けた尾行の技術で少女を追って、少しでも尾行をしなければならなかった理由を見つけようと思っていたけれど、こりゃいい感じで事が進みすぎてちょっと怖いくらいだ。
この調子で少女を追っていくと白い粉やワシントンな取引などに遭遇できるかもしれない。
上手く行きすぎている出来事に鼻歌でも口ずさみたくなるような上機嫌だった。が、やはり世の中は甘い物ではない。
地下街を歩き始めて一五分が過ぎた頃、僕は少女を見失った。
少女は間違いなくトイレに入った。それは僕の目で確認したのだから間違いのないことだ。しかし、もうそろそろ一〇分経つぞ、女子ってこんなにトイレに時間がかかるのか? 仕方ないあと一〇分待つか。
待ってども待てども少女はトイレから出てくることはなく、やっと見失ったことに気付いた。
尾行に失敗し、そのせいで遅刻ギリギリに登校した日の昼休み。僕は那実と崎野さんを連れて中庭に来ていた。
「一体何の用やねん、昼休みは貴重やろ」
どうせお前の昼休みは寝て過ごすと七割方決まっているくせに。
「訊きたいことがあるんや」この二人ならきっと知っているだろう。
「僕の尾行相手は一体何者やねん、教えてくれ」
崎野さんはあからさまに困った顔をして、ごまかすように僕からの視線を外し、那実は腕を組んでから少し考え、まぁいいか、と適当な物言いで話し始めた。
「俺らもよくわからんけどあの子は一年の普通科三組の眞瀬明菜っていう奴で、数学が学年トップっていうことしか知らんわ」
学年トップ!? この学校でトップってことは日本でもトップクラスってことになるぞ。あのちんちくりんがそんな数学力を持っていたとはかなり意外だ。
「それによく学校を遅刻したり早退したりするな」
「僕が尾行してたときはきっちりと時間通り現れたで」
どういうことだ? あの子は確か、尾行一日目は日直の仕事をするためにすごく急いで学校に行っていたじゃないか。そんな子が遅刻や早退ってなんかすごく矛盾してないか?
「その顔は信じられへんって感じやな」
那実は少し驚いた顔をして、正門の方を指差した。
「ナイスタイミングやん、ほら眞瀬が遅刻してきたで」
那実の指差す方向には、この四日間の登校中に追い続けた少女の姿があった。地下街で見失ってからあの子はまだ学校に行ってなかったのか。だとするとあの子は何をしていたのだろう? 朝から昼まで。
「ホンマにあいつ何者か知らん? めっちゃ怪しくない?」
「そうか? ただのサボり魔としか思われへんけどな」
しばらく僕ら兄弟は少女を見つめていた。確かに見た目はただのチビだけど、何かすごく禍々(まがまが)しい出来事を持ちかけてきそうな雰囲気がする。
「しゃあないな、俺がちょっと話しかけてくるわ」
ちょっと待て、そんな大胆発言を僕は望んでいないぞ。と止める間もなく、那実はなんの遠慮も躊躇もなく少女に近づいた。そしてその第一声が最悪だった。
「こんなところに小学生が入ってきてはダメでしょう? お嬢ちゃんは年いくつなの、どう考えても一一歳か一二歳にしか見えないよ」
おい、背の小さい奴に向かってそれは言っちゃダメだろ! 小学生はいいすぎだ、せめて中学生にしろ。
「あんた誰? アホ? 制服見てわからんの? そんな観察力で今までよく生きれたな」
そう言って立ち去るのかと思ったが、少女は那実の顔をじっと見つめ「あんたどっかで見た気がするんやけど気のせい?」と問いかけた。
やばい、やっぱりこの四日間で顔くらいは覚えられていたか。どうするんだ那実? こんな危機を迎えたのはお前の好奇心という名の自業自得からだぞ。
「いや、自分かわいいなと思って。電車っておっさんばっかりやろ? だから目の保養にさせてもらったねん」
あいつアホか! そんなこと言って話しを聞いてくれる奴がどこにいる? ほら眞瀬さんも顔を赤くして伏目がちに歩いていくじゃないか、しかもすごく不機嫌そうだし。
そんなことよりも一番重要なのは眞瀬さんが那実を僕と勘違いしていることだ。
本当に那実はアホですよね、なぁ崎野さん。と言おうと崎野さんの方へ振り向くと、彼女はうずくまり両手で顔を覆って小さなうめき声を上げていた。もしかして那実の行動が笑いのツボに入ったのか? 僕はどこにも面白さを感じなかったけれど。と思いたいところだが実際は違うよな。
「どうしたん? 崎野さん」訊かなくてもわかっているだろ? 例の発作だよアホ。
崎野さんは酸素を多量に求めるように深く短い呼吸をしながら「目を見せて」と言った。
僕は少し戸惑いながらも、うずくまる彼女に視線を合わせるために屈み、見つめた。
すると次第に呼吸の荒さがなくなっていき、崎野さんに付きまとっていた沈鬱感も消えていった。
もう大丈夫かな?
僕は確認するためにあえてあの言葉を口にし、崎野さんがあの言葉を発することを願った。
「崎野さんジュースいる?」
「う、うん。ほなグレープフルーツお願い」
よかった、もう大丈夫そうだ。そんな笑顔を向けられると果汁三〇%を一〇〇%にしたくなってくるじゃないか、って意味不明だよな。でもそれくらいうれしいよ、僕は。
食堂にある自販機に行くためその場から離れた僕に那実はついてきて、戸惑いながら、でもうれしそうに言った。
「まさか薬なしで発作を治すとは、お前もなかなか役に立つやないか、やっぱり気持ちが大事やろ」
確かにそうだけれど、あれも大事なんじゃないか? 僕らにしか持っていない能力。奇跡の産物とでも言おうか。
それにしてもさっきの場面のどこにトラウマが潜んでいたのだろう? まさか那実の発言や行動に何か問題でもあったのだろうか、やっぱりこいつは要注意だ。
そして放課後、僕は正門をじっと見つめ、中庭の木陰で息を潜ませていた。
そんな面倒なことをする理由は一つしかないだろう? 眞瀬明菜の尾行だ。やっぱりどう考えてもあの子は怪しい。それは昼休みで確信が持てた。明らかに崎野さんと那実は隠し事をしているようだった。先見である僕の感が外れることはずがないだろうと、こういうときだけは自分の超能力を信じてみた。
その木陰に身を隠してから三〇分が経過し、もしかして部活動しているのかもしれない可能性を思いつき、僕は校内を周ろうと、ひとまずその場を離れるために体を校舎のほうに向けた。
すると尾行初日と同じように颯爽と校舎から歩いてくる少女が見えた。あの身長、短い足を忙しなく動かす姿。眞瀬明菜しかいない。
僕は待っていましたといわんばかりの気持ちを抑え、見つからないようにそっと陽の射すほうへ歩き出した。
夕暮れ近い京都の町並みは、慌ただしい夜の前の静けさのように穏やかで、陽の光も人の動きも緩やかに思えた。そんな中、異常と思える速さで僕は歩いていた。その原因は言わずもがな眞瀬明菜だ。
あの小学校高学年と間違われそうなスタイルから、どうすればそんなに早く歩くことができる? もう走った方が楽な気がする。
京都駅に入ってもその速度は緩むことなくさらに速くなっていった。そろそろ休憩させてくれと思ったくらいにちょうどホームに着き、僕は設置されている椅子に座り電車を待った。眞瀬明菜は四番ホームに突っ立ったまま電車を待っていた。
思ったより電車内には人が少なく、少女とは今日の昼、一度顔を合わせていることになっているのでいつばれるのではないかとドキドキしていたが、結局そういう雰囲気すらなく、事なきを得て難波駅に着くことができた。
改札を抜けると眞瀬と僕は地下街を抜け、大手電器店の連絡通路に着いた。
さらにビル街の奥へ入っていくとだんだん道は狭くなり、人がすれ違えるかどうかギリギリの幅にまでなった。
一体どこに行くのだろう? こんな怪しい場所、僕だったら絶対一人で来られない。いかにも背中に日本画を背負ったような人達がうろうろしていそうな場所じゃないか。
そして眞瀬は右折したところで消えた。
これだけビルが入り組んだ場所だから見失って当たり前か、それに空ももうオレンジ色だし仕方ない、帰るか。
これ以上の追跡を諦め、来た道を戻ろうとすると背中の方で声がした。
「おい」
振り向くとそこには尾行相手が仁王立ちしていた。いつの間に後ろに……。
「探したで、うちが二人になれる場所に案内したったで」
最悪だ、これならヤクザとかあっち系の人たちに声をかけられる方がマシだったかも。
「どちらさまでしたっけ?」
腕を組み、不機嫌そうな表情をして横目で見る眞瀬明菜はどこか堂々としていた。
「四日間もつきまとってどちら様もないやろ? それに昼も会ったやんか」
「いや、あれは僕じゃなくって」
「わかってるよ、あんたじゃないってことくらい」
よかった、僕じゃなく那実がやったってわかってくれていのか。っておい、何か今、僕の最近の努力を無価値にするようなこと言わなかったか?
「ちょっと待って」
「何よ、人が機嫌よく喋ってるのに」
何だ、機嫌よかったのか? じゃあ、その目つきの悪さは生まれつきってことか。そんなことよりも「今、四日間付きまとってるとか何とか言わんかった?」
「めでたいなあんたも。ほな、なんや自分? ばれてへんと思ったん?」
僕が小さく首を縦に振ると、眞瀬は「鉄板や!」と言って引き笑いをしながら大きく手を叩いて喜んだ。こいつ僕がどれだけ傷付いているかわかってないだろ。
「もうひとつ質問やけど、何で昼、僕と違うってわかってるのにあんな真似したん?」
「あんたがどんな顔するかちょっと気になってな。それも面白かったで、鉄板までは行かんけど」
てことは、この四日間まんまと僕は眞瀬明菜の手の平の上に転がされていたってことか。見た目もそうだけどやることもいけ好かない奴だ。
「どの辺で僕が尾行してるって気付いた?」
「うん? ハンカチ落としたり早く歩いたり遅く歩いたりしてたやろ、それにまんまとあわせてついて来るなんて――」
「日直じゃなかったん?」
僕は自分の推測違いに驚き、思わず声を大きくしてしまった。その声に少し驚ろき眞瀬は体を少しビクッとさせたが、すぐに堂々とした姿勢と瞳で僕を睨んだ。
「はぁ? うちがそんなことするわけないやん面倒くさい。てか、余りにもバレバレすぎて拍子抜けしたわ。ってあんた、もしかしておとりやないやろうな」
おとり? 何のだ?
「実はうちの予測やけど、うちをつけてる奴がおるねん」
「自意識過剰と違うんか?」
「アホか! それよりあんた誰に命令されてこんな面倒くさいことやってたん?」
「沖田先生」
――って言ったらダメじゃないか僕。これは組織の任務だったのに。任務中にばれるならまだしも、全くのプライベートだし、自分の勝手で行なったことじゃないか。どうしよ……。
「あいつね……」としばらく僕とその斜め上辺りを交互に見つめながら難しい顔をして、いじらしくニヤッと笑うと「そういうことか」と言い、今度は斜め上の幻を見ることをやめ、僕だけを見て「ほなまた明日」と言って駆け出していった。
あいつは一体何をしたかったのだろう?
っておい、置いていくなよ。僕は適当にお前について来ただけだから全く道がわからないし、空もほとんど陽を灯していない。
結局僕は大阪のビル街を二時間ほど迷い、寮に着いてからは帰りが遅いと寮長に耳が機能停止をするほど叱られた。散々な一日だった。どこが一二星座中七位だ、ここ最近で最悪だったじゃないか。ということはこの埋め合わせで同じ星座の奴が得をしているってことか?
明日は占いなど絶対に見ないでおこうと決心してまぶたを閉じた。
大阪のビル街でさまよった翌日、とっくに朝のホームルームも終わり、一時間目が始まる時間だというのに僕は職員室の隣、例の部屋に沖田先生から呼び出されていた。
校内放送があったのは朝礼前の予鈴が鳴ったくらいだった、スピーカーから鬱陶しいくらいはつらつとした沖田先生の声が聞こえてきた。
「一年生で特別寮に住んでいる人は早く私のところに来てください。すなわち、天照さんと那実くんとコノカっちと……えっとえっと、あっそうだ薙くん! 薙くん薙くん。その四人は職員室の私のところに来てね」
ツッコミ担当が何人必要なのか指折りして数えなければならないような、馬鹿放送の指示を受けて僕ら四人は職員室ではなく、もちろんその隣の部屋へ向かった。
「薙くん忘れられてたなぁ」
そうですね、あまり言わないで下さい、結構ショックですから。
崎野さんは僕の非常に奇天烈なタイミングで放たれた告白を気にすることなく、いつもと何の変わりもなく会話をしてくれている、ありがたいことだ。もしかしてこういうことに慣れているのかもしれないなんていう考えは今すぐ捨てろ、僕。
対照的に僕の方は告白から二日経ったというのに会話は出来ても目を見ることはあまり出来ないでいる。情けない限りだ。
「やっぱりお前って影薄いねんな」
「やっぱりってなんや! 誰が影薄いねん、濃いっちゅうねん、めちゃめちゃ濃いっちゅうねん。保健委員なめんなよ」
「ほら、保健委員やって影うすっ! 図書委員と双璧をなすぞお前」
「今すぐ保健委員をやってる人間に謝れ」
中には将来介護や医療の仕事に就く為の勉強としてやっている人もいるかもしれないのに何てことを言うのだろう、こいつはやっぱり失礼極まりない。
「天照沙希も思うやろ? 薙は影薄いって」
僕らの前をスタスタと先を行く天照からは、話しかけてくるなというオーラが惜しみもなく振りまかれている。空気を読めないという言葉と那実、つまり僕の兄は同意語である。
「いいじゃない。影が薄いと言うことはそれだけ他人から求められていないと言うことでしょう? なら恨みを買うこと売ることもない。実にうらやましいわ」
それは褒めているのか? そんなわけないよな。自分の存在感を棚に上げてアホにしやがって、こういう奴は絶対良い死に方しない、そうじゃないと世の中不公平すぎる。
でもこいつに限っては良い死に方も悪い死に方も関係ないとか言いそうだから全く張り合いがない。
サバイバルナイフで斬り付けるような言葉を吐いた天照は、職員室の隣の部屋の扉を開いた。
「来たわね、おっはよー。遅いからもう一度放送しようかと思っちゃったよ」
語尾に八分音符が飛び交うような明るい声で沖田先生は朝の挨拶をした。もう一度放送なんて絶対にやめてくれよ、あんたならもう一度やっても僕の名前を忘れそうだからな。
その若年痴呆症教師の隣を見ると、昨日僕をコンクリートジャングルに置き去りにした団子頭が座っていた。この二人何の関係? それに僕らに用って何だ?
「この子は一年五組の眞瀬さん。ねぇねぇマセマセって呼んでもいい? ダメ? ならいいわよ。まちゃあきは――」
「まちゃあきって何やの? それも嫌!」すかさず眞瀬のツッコミが飛ぶ。よっぽど嫌なんだなそこまで勢い良く突っ込むってことは。
「てふてふみたいに眞瀬明菜を言ったらこうなるのに……。本人が嫌がっちゃ仕方ないわね。このマセマセの両親を助けてほしいの」結局マセマセって呼ぶのかよ。
そう言って沖田先生は、かばんからA4サイズで印刷された二〇枚ほどあるプリントを取り出し、それぞれクリップでまとめ僕らに配った。
その書類の最初には親指程の大きさの字で「眞瀬家救出計画」と書かれていた。
眞瀬明菜の親か兄弟に何かあったのか? そうだとしても何故僕らがこいつの親を助けなくちゃいけない? っておい、お前らもなんとか言いやがれ、書類を読んで『なるほど』とか納得するな。
そこである異変に気付いた。
「崎野さんどこいったん?」この教室に着くまでニコニコしながら僕らの後ろを歩いていたのに。
「心花やったら教室入る前に『トイレ言ってくる』って行ったで」
教えてくれるのはいいが崎野さんの声真似をするのはやめてくれ。そういう似ていない物真似を平然と出来るのが大阪人の悪い癖だぞ。それに気色悪すぎる。
崎野さんはトイレか……。そういえば昨日の発作が起きたときも眞瀬がいたよな、もしかしてこの二人は因縁の仲とかそう言う類のものなのか?
「ちょっと聞いてる! 薙くん」
「あっ、聞いてなかったです」
今はそれどころじゃないってのに、まぁいい、あとで崎野さんか眞瀬に訊けばいいことか。
「しっかりしてよね、もう一回言うわよ。いちいち言うの疲れるし時間かかるから、日曜日のことはその紙束に書いたからちゃんと頭に入れておいてね。わかった?」
「はい、わかりました」ていうか説明短いな。
「じゃ、解散! さっさと授業に戻りなさい若人よ」
自分から呼んでおいてその言い方は酷いだろ。
そう言って立ち上がった沖田先生に対し、那実は思い出したというような顔をして「かおるちゃんって一時間目七組で授業ちゃうかった?」
こちらも口元を押さえ思い出したという顔をして、「忘れてた、じゃねー」と勢い良く教室を飛び出していった。
朝からこのハイテンションとどたばたした雰囲気に僕は少し疲れ、伸びをして、さぁ眞瀬に事情を訊こうかと正面を向くと、そこには誰もいなかった。慌てて教室中を見渡すが那実や天照でさえいない。あいつら鍵閉めが嫌だからって先に教室へ戻りやがって。
この教室には人情を持った人間がいないことを改めて思い知らされた。
そして昼休み。僕は弁当を片手に持ち、一年五組の教室に来ていた。もちろん理由は眞瀬と話しをするためだ。教室の入り口付近をふらふらしていると後ろから声をかけられた。
「こんなとこで何してんの? 伊佐薙」
「お前を待ってたんや、眞瀬明菜」
「あんた飯食った?」
「いや、ほれ」
僕は右手に持っていた弁当を彼女の目の前に差し出した。
「うちも弁当持ってくるからちょっと待ってて」
そう言って彼女は教室に入っていき、自分の席に座り弁当を取り出した。すると三人ほどの女子が眞瀬を取り囲み何やら話を始めた。
「明菜どこでご飯食べるの?」
「ごめん、今日は連れがおるから」と言って眞瀬は僕を指差した。
「もしかして彼氏?」
「そんなわけないやん、あんな気の抜けた顔の奴」
その女子達の反論を待ったが「だよねー」などという声しか聞こえてこなかった。メガネと化粧の濃い女と異常にエクステをつけた女、僕はお前たち三人の顔を一生忘れないだろう。
「ほな、行こか」
「お前のせいですごく飯が不味くなりそうだけどな」
「ふーん、ほな食べらんかったらええやん」
こいつは本当に人をイライラさせることに長けている。呼び出した方は僕なのだから何も文句を言えない、それを逆手にとって言いたい放題言いやがって。自分の娘がこう育ってしまったら、間違いなく家にいる時間は減るだろうな。
そして僕らは体育館裏で食事をすることになった。薄暗く人気のないところでの食事なんて好んでする奴はいないので、昼休みでもここは誰もいない。
中庭で食事することも初めは考えたが、昼休みに男女二人で食事するなんてなると馬鹿な高校生なら喜んでありもしない噂を流すだろう。崎野さんとの噂なら僕も全然かまわないけど、こいつとの間に噂が立つことは我慢ならない。それは眞瀬の方も同意の上だった。なのでこいつも、飯の旨さが半減するような場所で朝食をとることに文句を言わなかった。
「で、話ってなんなん?」
「お前の両親に何があったねん? 沖田先生からもらったプリントにはそういうことは一切かかれてなかったからな」
書かれていたことは日曜日に誰が何を担当するかと言うことだけだ、それ以外の詳細なことについては全く書かれていなかった。
眞瀬は弁当箱を開き「こういうことや」と言って、弁当の中を見せた。
そこにはただ、トマトが一玉入っていた。白米すら入っていない。
トマト弁当?
どういうことだこれは。家が農家? 両親が喧嘩中? はたまた親子喧嘩? これだけだと深すぎて何もわからない。
困った顔をしている僕を見つめ浅いため息をつき、今まで見せたことのない哀しい表情をしながら言葉を続けた。
「うちのお父さん最近リストラにあってな、そこまでやったらそんなに困らんかったんやけど、うちのお父さんちょっと頑固って言うかなんていうか、自分の力不足で会社をクビになったって信じられへんかってん」
「能力以外でクビになる理由なんて年齢くらいだろ? それ以外は?
「うちのお父さんはまだ四〇代入ったばっかりやから年齢は関係ないと思う。話は飛んだけど、うちのお父さんはリストラの理由を守護霊のせいやとか悪い悪霊に憑かれてるとかそういう風に考えたねん」
あちゃー、最悪のパターンだ。気持ちはわかるけど。で、それで金がなくなったってことは、
「霊感商法って言うんかな? 電話帳でそういうところ調べて、家族で行ったんやけどな。初めて行ったときはそんなに高くなかったねん、しかも御札もタダでくれたし。それでうちのお父さんも調子乗ったんかわからんけど、体調が悪くなったとか、今年から花粉症になったとか、そんなしょうもない理由でもそういうとこに通い始めて」
霊と花粉症がどう関係するのか、是非お前の父親と語り合いたいところだ。
「挙句の果てに靴の紐が切れたとか黒猫を見た、くらいのことでも通い始めて。そうこうしてる内にお母さんもはまりだして。そうなったらもう誰も家計をセーブできへんなって……。今、家の中にはようわからん掛け軸みたいな家系図とか、ありきたりなでっかい壷とかお経とかそういうのばっかりになってもうて。今はその借金でいっぱいや」
たまにテレビなどでそういう事件を見たことがあったけど、それは演出か何かで決して本当の出来事ではないと思っていた。実際にこれほどまで見事に騙された人がいるなんて思ってもなかったよ。やはり人は追い込まれると怖いな。
「それを僕ら四人が助けるってことか」
そんな洗脳されきった大人を子供四人が救えるのかちょっと不安だし、身の危険も考えなければいけないな。霊なんかいない、なんて言って逆上され、サクッと刺されるなんて可能性としてすごく高いだろう。特に那実なんかそういうこと何も考えずに言いそうだな。
「頼む、お願いします。この通り」
眞瀬はそう言いながら弁当を膝元からのけて、土下座をした。
いきなりの行動に僕は驚き、どう答えればいいのか戸惑っていると、眞瀬は何を勘違いしたのか涙を流しながら、身の上話を続けた。
「このままやったらうちの妹の弁当もこうなってまうねん」
妹……。それは僕にとって、僕ら兄弟にとって、現実に限りなく近い夢のような存在だ。
「妹の弁当はまだトマトやないんか?」
「当たり前やろ! せやからうちの弁当が質素なんや」
いやいや、質素とかそういうレベルじゃないだろその弁当は。ギャグ漫画でも出てこないぞ。
「こんな弁当持って行ったらあの子も、うちみたいに友達減っていくねん」
「どういうことだ?」
なぜ弁当がトマトだけだと友人が減る? 逆に面白い奴がいるぞって寄ってきそうなものだけどな。
「男やったら面白いですむやろうけど、女やったらそうはいかんのや。だいたいトマト入った弁当食べてる奴と一緒にお昼食べたいと思う?」
「そんなこと思う奴がおったら僕はそいつを崇めるな」
「やろ? だからうちも最近はこそこそって昼休みに抜け出して、ひとりで弁当食ってんねん。最近は付き合い悪いって言われてしんどいわ」
「でもお前さっき昼飯一緒にどう? みたいなこと言われてなかった?」
しっかり覚えている。あのメガネと化粧とエクステだ。憎い、憎すぎるトリオだ。
「あーあいつら? 最悪やねん。あれは嫌味」
「嫌味?」
「そう、あのメガネかけた子おったやろ? あの子がうちのトマト弁当目撃したねん。それからああやって三人で昼時になったら一緒に食べへん? って言ってくるねん」
なんて性根の腐った奴だ。あんな大人しそうな顔してるのに、人間なんて見た目でわからないものだなやっぱり。天照や沖田先生みたいに。
「ホンマにお願い! うちのことはどうなってもええねん。ただ、親は、いや、妹だけでも普通に生きて欲しいねん。このままやったらあの子中卒やねん」
中卒はちょっとかわいそうだな。僕のような高校生活を送るならまだしも、普通の高校生になるなら助けてあげたいところだ。
それに、国を守るとかそういう大きすぎる問題じゃないから、僕のような平々凡々な人間にはこういう任務はもってこいかもしれない。やってやろうじゃないか、お前の家族を救ってやるよ。僕らの家族のように不幸になるなんて耐えられないしな。
「ところで、お前、僕らが何者か知ってる?」
「ん? あんたらの親って坊さんとか霊能力者なんやろ? その人達に来てもらって洗脳を解くって沖田が言ってたで」
そういうことになっているのか。あの先生の考えそうなことだ。
「わかった、できるところまでやってみる」
僕が自信満々に言うと、眞瀬は涙を拭って姿勢を崩し僕の隣に座って、大きな口を開き豪快にトマトをかじり、涙交じりでありがとうと呟いた。
何だ、愛想が悪かったり口が悪かったりするけれど、その身長と一緒くらいかわいらしいし、素直なところもあるじゃないか。そう思ったのも束の間。
「あっ、その出汁巻きうまそう! ちょっともらうな」
と言って、僕の出汁巻きに箸を伸ばし、すばやく奪い去り小さな口へ押し込まれた。
「ところでお前崎野さんと何の関係?」
眞瀬はリスのように、出汁巻きを頬に蓄え「そんな奴知らんで」と言ってから慌てて口に入ったものを飲み込んだ。
「うまぁー、もう一個頂戴!」
「誰がやるか、アホ! 調子乗るな!」
やっぱりいけ好かない奴だ。