第四章 青い心、トラウマ
「どう? もう見つけましたか?」
「ええ、ちゃんと追ってますよ」
「見つからないようにしーっかりお願いね」
はい、わかりました。と僕が返事をしている間に沖田先生は電話を切った。なんだか空振りみたいで少し恥ずかしい。まあ誰も僕の通話なんて聞いてないと思うけど。
僕は見失わないよう人並みに飲まれる一人の少女を目で追う。沖田先生に言われた場所にきっちりと寸分の狂いもなく、時間ちょうどに現れるその少女を。そりゃいつもの登校時間と乗るホームなんて変わらないよな。
追っていることに気付かれないよう五メートルほど離れ、さりげなく視線に入るかは入らないかギリギリの位置に少女を置き、なるべく人の影に隠れるように歩く。
少女がエスカレーターに乗ればもちろん乗るし、動く歩道に乗ればもちろん乗る。付け加えれば電車も一緒の車両に乗る。
僕は彼女を尾行している。
それは昨日のこと。
超能力者の密会を途中で抜け出し、たまたまコンビニであった竹須佐先輩に生チョコをおごってもらっていると、たまたま沖田先生に遭遇して組織に加わってからの第一任務を与えられた。
それは三日間、阪和なんば駅の電車から降り、市営地下鉄難波駅の四番ホームに、毎朝七時一九分発の梅田方面の電車に乗る、小柄で団子のように髪を結んだ少女を学校まで見届けろ。とのことだった。
絶対してはいけないことが二点あって、一つは少女に話しかけること。もう一つは当たり前だけど少女を見失わないこと。
それさえ守れば何をしてもいいってことは尾行で間違いないよな。
あの先生もいきなり尾行だなんてわけがわからないよ。それに僕は組織なんかに入ったつもりはさらさらない。今日当たり文句でも言ってやろうかな?
なんて、こんな無駄なことを考えられるのは尾行二日目だからであって、初日はそれはそれは大変の一言だった。いや一言じゃすまない、それこそ四〇〇字詰めの原稿用紙を二十枚書けと言われれば、少し苦労しながらやり遂げるくらい僕は緊張していた。
いつもの登校日より僕の携帯電話のめざましは二時間近く早く鳴り、睡眠時間は強制終了させられる。僕はその鬱陶しく鳴り響くアラームを停止させ、もう一度毛布に体を包めた。
なぜこんなに寝起きの毛布やら布団は気持ちいいのだろう、一生このままでもいいと思ってしまうほどに心地良い、それに途方もない中毒性がある。まるで誰かに催眠術をかけられているようだ、もう一度眠りなさいと……。
再び携帯電話が鳴る。
今度はめざましではない、着信音だ。僕は適当に手を伸ばし、ゆっくりと携帯電話を耳に当てた。
「ぐっどもーにんぐ! そろそろ起きないと遅れちゃうわよ」
誰かと思えば沖田先生じゃないか、それにしても思いっきり日本語丸出しな英語だな、いくら社会の教師だからといってもその発音はナシだろう。それに朝からそのテンションの高さは社会人としてはどうかと思うけど。
「こんな朝早くから何のよう?」
僕はすぐにでも睡眠という安息に身を包まれたいので、それほどイライラはしていないけれど言葉に棘を含ませた。
「何の用じゃないでしょ、お仕事は?」
……あーーー、と叫び、携帯電話をベッドに放り投げ、適当に髪を水で濡らしすばやくドライヤーで生乾きにさせて制服のズボンはチャックだけ閉めベルトは外したままでシャツをズボンの中に入れず金曜日の時間割の教科書が入ったままのかばんを肩にかけ部屋の鍵もかけず部屋を抜け出した。
今から七時一九分までに難波か、ちょっと厳しいかもしれない。
と思っていたけどいざ難波に着くと予定時刻よりも10分程度早く着いた。
心臓の音がしっかりとくっきりと感じられる。それは時間に間に合わないから走ってきたので心拍数が上がっている、なんて単純なものではない。でもそれは少し考えるより単純なことなのかもしれない。
僕は緊張しているのだ。
これから起こるかもしれない出来事に。
先の見えない未来に
初めての出来事に
ただ怖気づいているだけ。
そりゃそうだろ? あんな念力で皿やテーブルを自在に操ったり、椅子で一殴りして人を再起不能にしたり、瀕死の猫を医療道具も使わずに治療したり、ビンゴ大会で一等の景品を取るほど勘のいい奴らがいる組織に監視しなければいけない存在。それがどれだけ大きなものなのか僕には想像ができない。
もしかすると大阪を仕切るヤクザの娘かもしれないし、中国マフィアに縁のある者かもしれない。そんなことよりももっと危惧するべきことは、その少女がもしかすると
超能力者かもしれないことだ。
ただそれだけが僕には気がかりだった。
尾行していることを気付かれてしまったら銃口を向けられるかも知れないし、そのまま誘拐され海外に売り飛ばされたりするかもしれない。でもそんなことよりもっと僕の心を締め付けるのは、もしかすると
超能力を使われるかもしれないということだ。
こんなこと言うと笑われるかもしれないけれど、あのポルターガイストが結構トラウマだったりしている。そりゃ向こうは遊びの気持ちだったのだろうけど、こっちはそんな感情ではいられなかった。猫がネズミと遊んでいるなんて言うと最もな例えだろう。どこかの仲良しなおてんば猫さんと利口なネズミさんじゃない、もちろんナチュラルな方だ。軽くじゃれていて噛み付かれたらこの様だ。
自分の運命を呪うよ。自分が超能力者であることを呪うしかないそんな心境。
笑っている膝を見て苦笑いながら、ふと携帯電話に表示されている時計を見ると七時一五分。このまま逃げ出すのもアリかな? と思って振り返ると、目の前に団子が見えた。
何でこんなところに?
――本当の団子じゃない、髪を結っているのか。ってことはこの少女が。……それにしても小さい。
頭の上に握りこぶし程に団子を結っても一五〇センチくらいだろう。そのヘアスタイルでやっと僕の目線にギリギリ入るくらいだ。言っておくが僕の身長も一六〇センチなのであまり他人に小さいなどと口にできない。けれどその僕が小さいと言うのだから本当に小さいのだ。それにその服装は……僕がよく知る制服。京都東寺高校の物。それに襟元の白いライン――ということは同じ学年ということか。
しかし何度見ても小さい、これだと小学生に間違われたって文句は言えないだろう。と心で唱えた瞬間、少女の少し釣りあがった目が僕の目を捉えた。慌てて僕は視線を逸らす。まだ尾行を始めてもいないこんなところで、禁止事項に触れかけては笑い事で済まされない。会話をしないなんて簡単なことだと思っていたけど案外難しいのかもしれない。
まあ僕が見すぎたのでこうなったのだけれど。
これ以上ないほどの人口密度の車内。肌と肌が触れ合うほど近くに尾行相手がいる。なんて度胸のある尾行者なのだろう。いや、僕には度胸なんてこれぽっちもない。電車が揺れるたびに触れ合う体。その度に心臓が止まるような感覚に陥りゾッとする。恐らく難波駅から新大阪駅という約十五分間で僕の寿命は五年くらい減っただろう。
大阪駅に着き、ドアが開くと同時に人が炭酸飲料の泡のようにあふれ出る。その中からひとり、その流れを無視するように早歩きし人の泡に埋もれていく。僕はそれを見失わないように、そして不自然ではない速度で歩き、横目で少女を追う。少女は短い足を細かく素早く動かしながら速度を上げていく。僕はできるだけ足を伸ばし、かかとから地に着き、つま先を蹴り速度を上げる。
それにしても何でこんなに急いでいるのだろう?
ちらほら見かける同じ制服の生徒は急ぐことなく人の波に溶けて歩いているのに、ただのせっかちなのだろうか? それとも付かれている事に気付いて僕を撒こうとしているのか? でもただ速いだけで、僕を惑わすようには歩いているように見えない。やはりただトロトロ歩くのが嫌いなだけだろう、僕もそうだから気持ちはわかる。などと変な親近感を抱いて気を抜くとまた先ほどのように寿命を縮めながら登校しなくてはならないので、僕は最低限のことだけはする。先ほどのように少女の横に立つことのないように。
乗り換えの大阪駅ではさっきみたいな超至近距離から逃れるため、少女が並ぶ列の最後尾に並んぶことに成功し、車内でも手が届く範囲でいることはいたが僕と少女の間には人の壁と言うものが何重にも重なっているので見つかることはないだろう。
僕は尾行中のひとときの安らぎを、京都に向かうにつれて広がる畑ののどかな風景を見つめながら過ごした。
そののどかな風景がコンクリートに包まれ始め、学校が建てられるのではないかと思うほど広い線路を通ると京都駅に到着した。
少女は京都に着いても忙しなく足を動かし、エスカレーターに乗り右端をすり抜けていく。僕も見失わないように追う。エスカレーターに乗って気づいたけど大阪じゃみんな右寄りに乗っていたのに、京都だと左寄りなのか。
駅を出て、通学路になればもう今までの緊張状態を続ける必要もないだろう。周りには同じ制服の生徒もたくさんいるし、もちろん僕も少女と同じ高校の制服を纏っているのだから彼女に着いて歩いたってどこも不自然はないはずだ。ここで通学路から逸れた方が変な奴になってしまう。
緊張の糸が切れると、春の終わりを感じる風の匂いがすごく清々しかった。気温も湿度もいい具合だし、こうやって無事銃撃戦や超能力に遭遇することなく登校できた事をうれしく思うよ。今日は雲少ししかない晴空だし。
そんな感じなので昼食は教室じゃなく中庭に出て食べようかな? と上機嫌になっている僕の目の前にハンカチが一枚落ちていた。誰か落としたのかもしれないと思い、何の疑念もなくそのハンカチを手に納めると、目の前には頭上団子少女が僕を見つめていた。
目が合うと少女は僕の方へ歩みを寄せ「あら? どうも」と言って、呆然とハンカチを持つ僕の手から華麗にハンカチを奪った。
もしかしてばれたのかもしれない、僕が尾行者であることに。
なんて間抜けな事をしてしまったのだろう。普通尾行相手のハンカチを拾うか? 拾わないだろう? 華麗にスルーに決まっている。
でも気づかれてないよな、顔は見られなかったし、ハンカチを返したとき『尾行してるの?』なんて台詞を吐かれなかったし。よし大丈夫、気を取り直してあと数百メートル先のゴールを目指そう。
気持ちを入れ直し前方を見ると少女は五〇メートル程先の曲がり角を右折していた。相変わらず歩くのが速い女だ。僕は駆け足で少女を追った。
午前中の授業を終えた昼休み。
禁止事項をギリギリ守り任務初日を終えた僕は、歩みを中庭へ向けず、あの忌々しい職員室へと向けていた。それも不機嫌に。
せっかく穏やかな風に包まれながら優雅な昼食を取ろうと思っていたのに……。
三時限目の社会、もちろん担当は沖田薫の授業が終えると、教壇から沖田先生が「薙くん。昼休みが終わったら職員室で待ってるからね。楽しみにしてるわ」と色っぽく言うものだから、クラスの奴からは変な目で見られるし、禁断の恋やら何やら盛り上がられる始末。その色っぽい声も許せないけれど、もっと許せないのは『楽しみにしてるわ』だ。は明らかに余計だろ! あの先生の頭には一般常識というものが大きく欠けている。それを詰め込む脳みそも。
その怒りを込め職員室の扉を開くと……いない。隅々まで見渡したけれど、やはりいつも花を身にまとっているような女性教師はここにはいない。となると……あそこか。
僕は数週間前、天照らすに呼び出し場所に指定された教室に向かった。と言っても隣の教室だけど。扉を開くと、
「ぐっどいぶにんぐ! 薙くん」
「アフタヌーンですよ沖田先生」僕は溜め息まじりで突っ込む。
「あっ! じゃあ、あの雑誌ってこんにちわってことなのね」
もういいから本題に入っていいですか? あなたの天然にはついていけないので。
「ごめんね。じゃあ気を取り直して、薙くん!」
っと、またいきなり目の色が変わりやがる。どうやったらこんなスイッチの切り替えができるのだろう?
「どうだったかしら? あの子平々凡々に登校してた? 何事もなかった?」
「はい、なぜ尾行せなあかんのか疑問が湧くくらいの普通っぷりでしたよ」
あの子の変なところと言えば妙に身長が小さいところと、歩くのが速いってだけだし、変わった行動も特になかったよな? ハンカチを落としたくらいだし。
「あの女子は何者なんですか? うちの学校と一緒やし。なんかとてつもない裏事情抱えてるんですか?」
「べーつに。そこまで怪しい子じゃないわよ。薙くんの方が怪しいくらい」
そんなことを笑顔で言われても、僕が怪しいとはどういう意味だ?
「薙くんに危険が及ぶ事はないから安心して。ただ何か目立った行動すれば報告してほしいだけだから」
その『何か』を聞きたいのだけど……。ってどうせ訊いても答えてくれないだろうな。
「あとコノカっちと天照さんのことだけど」
「へっ!?」
「あれ? もしかして忘れてたの、この薄情者」とからかいながら僕の肩を持って揺さぶるのは別に良いけれどちょっと揺らし過ぎです、これ以上は脳が揺れますから。
「正直忘れてました。崎野さんも天照が学校にいるかどうか」
「初任務で緊張してたんだろうね、仕方ないっか。コノカっちはただの風邪さんで天照さんは任務中だからお休みよ」
崎野さんが風邪を引いている? こんなところでグダグダやっている場合じゃない、早く店に行ってお見舞いをしなければ。
「じゃ、沖田先生、明日もモーニングコールお願いします!」
それだけ言って、背を向けると、「ダメよ」と言う声が背中に響いた。一瞬その声の違いに沖田先生が発したのか疑問を持ったけれど、この教室には二人しかいない。さすがに教師にモーニングコールを頼むのは調子に乗りすぎたかな?
「コノカっちのところに行っちゃダメよ。風邪が伝染って任務に支障が出ると困るからそっとしてあげて。明日には治せるようにがんばるから、もちろん組織がね」と先ほどの声を忘れさせるようなウインクをして微笑んだ。
まぁ、一日で治るような風邪なら大丈夫か。
「わかりました、大人しく昼飯でも食べときます」
「了解!」
扉を閉め教室に戻る廊下で、ふと校内がいつもとは違い静かなことに少し不安になりながら、初日の任務は無事遂行された。
まぁそんな感じの初日だったけれど、本日二日目は何事もなく終われそうだ。
少しだけど、ほんの少しだけ気になった事は、彼女は昨日ほど歩く速度が速くない事だ。昨日はそれこそ人ごみの中を、矢を射るようなスピードで歩いていたけど、今日は人の波にきれいに溶け合い同調するような速度だ。
なんだろう? このギャップの激しさは。僕のように速く歩く性格ではないと言うことか?
僕は人の歩調に合わせて歩くことが苦手だし嫌いだしストレスがたまる。ゆっくりとまではいかないけれど、人と同じような速度でよく歩けるなと思ってしまう。少しでも、一分一秒でも早く駅のホームに着けばもしかすると座席をものにすることができるかもしれないし、電車に一本早く乗れる可能性だってある。良いこと尽くめじゃないか。
まぁ早く学校に着いたからといってやることなんて特にないけれど。
――早く学校に着く?
そうか、あの子は日直だったのか。だとしたら急いで学校に向かう理由があるってことだ。日直ならいつもより一〇分程早く来て学級日誌やら、黒板消しや教室の空気の入れ替えとかしなきゃいけないよな。
ちなみに昨日、尾行を終え教室の席に着いたのが八時一五分くらいだったからこの推理で間違いないだろう。まあ推理なんて呼べるほどのものでもないけれど。
でも日直の仕事をこなすなんて真面目だな。実際、日直の担当になって一〇分前に来て仕事をこなすなんて、うちのクラスじゃごく少数しかいない。
そういや、うちの学校って全国でも指折りの進学校だったな。僕の属する学科は勉強が得意な奴はほとんどいないけれど、他の学科はそうではなく得意の部類に入るはずだ。イコール真面目ってことか。
勉強ができる奴が真面目なんて偏見がすぎるかもしれないけれど、日本の人口の総対比で勉強ができない奴とできる奴、どっちが真面目な奴が多いかというと明らかに後者だろう。例外があることは言うまでもないけれど。
でも尾行する上で、相手が真面目に日直をこなすかどうかなんて関係ないか。あの子が朝少し早く来て日直をこなすなら、僕はいつもより二時間早く起きて意味不明の尾行をしているのだから、あの子よりも僕の方が圧倒的に真面目だろう。いや、大真面目もいいところだ。
二日目の尾行は団子頭と目が合うことやハンカチを拾うことなく終え、もちろん彼女にも変わった動きは見られなかった。やっぱり朝のニュース番組の占いの結果が良かったからだろうか? ちなみに昨日は11位で今日は三位と中々良好だ。昨日は慌てていたからチェエクできなったけれど、おそらく一〇位くらいだろうな。あんな目に遭えば
僕は学校に着いてから教室ではなく職員室に向かった。昨日のように、脳が少し溶けた女教師から昼休みに呼び出さられることを防ぐ為だ。
他の奴らは理解できないかもしれないけれど、僕にとって昼休みは一日で最も楽しみにしている時間だ。約三〇分も休憩時間があれば十分すぎるほど雑談もできるし、運動場でサッカーやドッチボールなんかもできる。少し汗臭くなるだろうが、それは高校生の特権みたいなものと思ってそっとしておいてほしい。
そんなことよりも、朝一番で先生に会って確認しなければならないことは他にあるけどな。
何の変化もなく、ただつきまとうと言うストーカーもどきで終わった今日の尾行のことをどう報告しようかと考えながら、職員室の扉を開けると……。やっぱりいないか。
とぼとぼと職員室を出て、いつも不穏な空気が流れる隣の教室の扉を開いた。
『ぐっどもーにんぐ。薙くん』といつもなら間髪入れず聞こえてくるその声が聞こえてこない。けれど沖田先生の姿はそこにあった。
沖田先生は、僕が教室に入ってきたことに気づかず、黒板に白いチョークや赤いチョーク、黄色いチョークで何やら描いている。一体何をしているのだろう?
「おはよう、沖田先生!」
ちょっとテンション高めで言ってみたのだがまるで反応がない。
僕はちょっとした悪戯心で、黒板消しを右手に持ち、沖田先生が描くものを一つ消してみた。そーっと、一枚ずつ花びらを千切るように。
残り一枚となったところでやっと沖田先生と目が合った。――が、その目はこんな悪戯する余裕を一気に消し去るような恐怖感を与える物だった。。
「何をしてるのかな? 薙くん」
僕は沖田先生が描いた、黄色く塗られた円の周りに、赤色の角の丸まった長方形の絵をみつめながら「一枚ずつ花びらを千切って、乙女チックに恋占いでもしてみたんですけど……」と遠慮がちに言った。
沖田先生の顔つきが更に凄む。そんな状況の説明をしているような場合じゃないようだ。
「すみません、ちょっとした悪戯やったねん」
「誰と」
とぼそっと沖田先生は口からこぼした。どういう意味だ?
「誰と誰の恋占いをしていたのかしら」凄みながら言う台詞じゃないだろう。
やっぱりそう言う質問か。さて、どうやってごまかそう……。
「いや、つい口に出ただけで恋占いをやってたわけとちゃいますよ」
「じゃあ、なぜあなたはあたしが描いたお花さんの花びらを消していったのかしら? しまいにはおしべさんとめしべさんまで消してしまう勢いでしたよね」
あの絵のどこにおしべとめしべが描かれていたのかは気になるところだけど、今はそれに対して突っ込める雰囲気じゃない。どうしよう、全部が全部嘘なのに。……僕はただ、教室に入ってきても気づかない沖田先生に対して、かわいく小さな悪戯をしただけだ。まさかこうなってしまうとは。もうこの人には悪戯なんてするべきではないな。
「何で消したの? さっさと答えなさいよ」怒鳴りはしないが限りなく小さく低い声でつぶやく。こんな声を出すのならいっそ怒鳴られた方がすっきりするよ。
こりゃ言い訳の仕方によってはえらい目に遭いそうだな。さて、どうしよ……。
あっそうか、この手があった。この際訊きたかったことを訊いてしまえばいいんだ。ナイス僕、ナイス発想の転換。
「恋占いとちゃうねん。実は言うと、崎野さんが今日来るか来ないか占っててん、こうやって」
僕は黒板に描かれた、幼稚園児でも描けるような花の青色をした花びらを一枚消して、「来る」そしてまた一枚消して「来ない」
黒板を見つめながら、最後の一枚を消して「来ない」
「沖田先生、崎野さんは今日休みっぽいですね」
笑いながら振り返り沖田先生を見つめると、うつむきながら体を小刻みに震わせている。
どうやらやってはいけないことをしてしまったらしい。今にも『何で消しちゃったのよ!』と言葉が飛んできそうだ。
僕はその場から逃げ出す為に、ゆっくりと後ろ歩きで出入り口まで近づき扉に手をかけた瞬間、思ってもいない声が聞こえてきた。
気色の悪い笑い声と耳から離れない可愛らしい笑い声と同時に。
「やっぱりアホやであいつ! 何が『来る、来ない』なよ」いくら顔が似ているからと言って僕のものまねをするな。
「このか、ずっとここにおったのにな」ふふふ、と聞こえてきそうな程、柔らかい笑い声だ。
その声の方向に目線を向けると、窓際の一番隅の椅子に二人がちょこんと座っていた。にやけながら。
「あれっ、何でここに? 崎野さん、もう風邪大丈夫なん?」
「風邪? ――うん、大丈夫。ばっちし」
その間は何だ? と訊いてみたくなったけれど、想像すればわかることだ。まだ風邪が完治していないってことだよな。
「しんどなったら言ってな。保健委員の僕がすぐ保健室に案内するから」
「あり――」
「薙くん! ちょっとそこに座りなさい!」
せっかく、崎野さんが感謝の言葉を述べようと口を動かしている途中にむやみやたらと叫ぶなよ。くそ、耳がキーンと鳴り響く。
「コノカっちと那実くんはちょっと廊下に出て。薙くんとこれから大事なお話しがあるから」
二人はその声の恐ろしさに何も言わず、すばやく席を立ち教室をあとにした。
僕だけに話す大事な話とは何だろうと先生の話に耳を傾けていたけど、どうやら黒板の絵を消したことに大変お怒りのようで、あの花はすみれだったの、あの花は菜の花だったのとか、あの花たちを描くのに何分かかったと思ってるの! など、そのようなことで怒鳴られ続けた。本当に今日の占いは三位なのか?
そして沖田先生の怒りが冷めないまま予鈴が鳴り、僕はそれと同時に教室から飛び出し「予鈴が鳴ったので失礼します!」と逃げ出した。もしかすると追いかけてくるのかもしれないと思ったけれど、さすがに予鈴が鳴ったのに職員室へ戻らないほどの常識外れではないようだ。
全速力で廊下を突っ走り、右カーブを曲がった瞬間、目の前に人が突っ立っていた。僕は危うくぶつかりそうになったので、無理矢理体を傾け廊下を転びながらその人間を避けた。
危ないところだった。もう少しでぶつかって怪我をするかもところだった。やっぱり廊下は走ると危険だ。
「無様ね」
廊下に転がり、中腰でゴミを払う僕にそんな言葉を吐く人間はこの世に那実とこいつ以外にいないだろう。
「天照さんか、もう任務終わったん?」
「そうよ。あなたはまだ途中なのよね」天照は一度も僕に目を向けることなく冷えきった声で続ける。「いくらヌルい尾行だからといって気を抜くと痛い目に遭うから気をつけなさいよ」
「なんだ? お前僕を気遣ってくれてるんか?」
さっきよりさらに冷えた声で、さらに絶対零度の瞳で睨みつけ、一言「そうだったら愉快ね」と吐き捨てた。
そんなこと言っているお前の雰囲気が全く愉快そうじゃないんですけど。
そうだった、こいつに訊いておきたいことがあった。こういうことはこいつにしか訊けない気がする。
「なぁ、天照さん」
僕が名前を呼んでも『何?』とも言わないし、顔もこっちへ向けない。こいつは年中不機嫌なのか? でもさっき愉快とか言っていたし……もしかして日本語不自由?
かまわず僕は話しを続ける。やりにくいにもほどがあるけれど。
「最近、というか昨日からこの学校、妙にいつもより静かな気がせえへん?」
「どういう意味?」
やっと反応してくれたか、そうじゃないと話しも進まないしな。
「いや、そのままの意味やけど」
「あなた、今二年生がどこにいるか知ってる?」
何だ? その質問は。意味深すぎるだろ。どこにいるも何ももちろん教室だろう、学校に来て行く場所などそこ以外にないだろう。
でも、そんな簡単なことを訊ねる天照じゃないし。
――もしかして、二年生全員誘拐されたとか? 一番超能力者が多い二年生を誘拐することは常套手段な気がする。敵組織もいちいち超能力者を探すのが面倒だから全員を誘拐なんてこと……。
ひらめいたフリをして「誘拐されたとか?」と言葉を発した瞬間、ものすごい速さで拳が飛び、目の前で止まった。その風圧で僕の前髪は少し揺れたけれど、驚いた声やガードをするような身構えは一切できなかった。気がつけばそこに拳が、って感じだ。
「ふざけているの? それとも真剣?」
「こ、後者です」いつもならここで、『ふざけてる』と選択してさっきの言葉をなしにするのだけれど、今の僕にはごまかす精神的余裕はないし、もう絶対占いを信じる気にはなれない。
「どうしようもなく痛い奴ね。生んでくれた親も頭を抱えすぎて悶えているでしょうね、きっと」
なんで他人のお前が僕の親を敬う必要がある? ほっといてくれ。それに親はもう僕のことなんて諦めているよ。
「二年生だけど、修学旅行よ」
「修学旅行!? もうそんな時期か、どこに行ったん」
「沖縄よ」
沖縄? 私立の高校なのに国内だなんて保護者が怒りそうだけどな。そういえば昨日、那実が沖縄どうのこうの言ってたな。
「帰ってくるのが日曜日の朝。それまでこの学校は妙にいつもより静かなはずよ」
いちいち、嫌みな奴だな。人間ミスは付き物だろう?
僕は少しふてくされながら教室の扉を開けた。
「遅いぞ、伊佐、それに天照。もうホームルームは始まってるぞ!」
あれ? いつの間に本鈴が鳴ったんだ? 僕は天照の顔を見て、どうやってごまかそうか考えていると、先生の目をみつめて離さない天照が、僕といたときとは全く違う態度で、仕草で、言葉で、言った。
「すみません、遅れてしまって。廊下を歩いていると偶然階段から彼が転がり落ちてきたもので」
天照は僕の膝を指さした。天照の目を見ると『ズボンをまくりなさい』と言った気がしたのでまくると、いつの間にか膝に擦り傷ができていた。さっき曲がり角で天照をよけようとして廊下に転がったとき膝を擦りむいていたのか。
教室からは僕のドジっぷりに『さすが薙』なんて言葉が飛び交っているが、いちいち突っ込んでいたらキリがないので華麗にスルーだ。
「それで保健室に行くか行かないかで少し話しをしていたら遅れてしまいました。申し訳ございません」と言って天照は綺麗な礼をした。こいつは一体どこまで猫をかぶれば気が済むのだろう。
「そういうことなら仕方がないな。早く席に着きなさい、今日は入学式から病欠していた子が来ているから自己紹介をしなければならないんだ」
病欠? 僕は疑問に思い、席へ移動しながら教壇を見ると、髪をゆるくカールさせた女子が微笑みながら僕に小さく手を振っていた。
そうだった、崎野さんが学校に来ていたことをすっかり忘れていたよ。
僕と天照が席に着くと、先生が口を開いた。
「じゃあ自己紹介してもらおうか、崎野くん」
「はい、今日からこの学校に通うことになった崎野心花といいます。先生からこの学校は色々な都道府県から来てるって聞いてるんで楽しみです。よろしくお願いします」
顔を赤らめ、少し慌てながら小動物のような身ぶり手振りで話す崎野さんの姿は本当にほれぼれする程かわいらしい。
「そしたら質問タイムといこうか」と先生が言った瞬間、手が雑草のように無数に伸びた。言うまでもなくほとんどが男子だ。そりゃ女子もいるけれど、見た感じ八対二の割合かな?
みんな気づいてないのかな? 崎野さんが学校の近所の花屋の娘だってことに。登校時ほとんど毎日休むことなく店の手伝いをしていたことを。
先生は適当に伸びている手を指差し「じゃあ加藤」と指名していく。
「崎野さんはどこに住んでたの?」
「中学校のときは高槻でそれから京都に引っ越したねん」と加藤に微笑みかける崎野さん。
おい、今のでなんだ加藤? その顔は。恋に落ちましたと物語っているかのようだぞ。 くそ、ニヤけやがって。
次第に手を挙げる者が少なくなっていき、口々言いたい放題になってきた。
「好きな男のタイプは!」「何のドラマが好き?」「好きな歌手は」「嫌いな芸能人は」などなどに対し、崎野さんは律儀に答えようとするが、当然のように間に合うはずもなく教室は質問をする男子の声で溢れた。
「今日まで学校来れなかったのは持病とか?」
「風邪をこじらせていたの、だから今日自己紹介することになってん」
「じゃあ体調悪くなったら言ってよ。俺が保健室に連れて行くからさ」だまれ加藤、その役目は僕と決まっている。
「さっき天照さんに手を振ったけれど友達なんですか?」
僕にも手を振っていたぞ。
「えーっと、簡単に言えばそうなるかな? ちなみに薙くんとなーくん、いや那実くんもお友達やで」
その瞬間、僕と那実に男子の視線が集まった。男ってこうだから嫌なんだよ。なんでもかんでもむさ苦しい。那実なんて気づくことなく窓から景色なんか眺めてやがる。早く気づけこの状況に、このアホ。
先生はこの異様な空気を察したのか、そこで質問タイムを強制的に終わらせ、崎野さんを席に案内し朝のホームルームは終わりを告げた。
その後、クラスの男子からは色々と質問攻めにあったり『禁断の恋の次は浮気か』なんてわけのわからないことを言われたり散々だった。でもそれ以上に散々なのは崎野さんだろう。休み時間になる度に机の周りに男子が集まり記者会見のような目に遭っているのだから疲れるだろう。
……なるほど。高嶺の花の天照より、ちょっと天然でかわいらしく病弱な崎野さんってわけか。確かに崎野さんは天照よりは話しやすいよな。
でも彼女にもどこか人を近づけさせない、これ以上踏み込ませない何かを漂せている気がする。まあいつもの勘違いだと思うけれど。
そして昼休み。僕は保健室にいた。あの擦り傷が悪化したのだ。これくらいどうってことないだろうと思い放っておいたのがいけなかったらしく、砂利がこびりついた傷口は菌だらけだったみたいでしまいには痛みが伴いだした。膝を水で洗い、沁みる消毒液に小さな声でうめいて、細菌がこれ以上僕の膝に住み着かないように絆創膏を貼って保健室を後にした。
そういえば今朝、沖田先生に尾行の報告をしていなかったな。
そのまま職員室ではなくその隣の部屋に向かった。どうせあの先生は職員室ではなくこの部屋にいるのだろうと思い、扉を開くとそこには崎野さんがいた。
どうやら僕が入ってきたことに気づいていないらしく、机に向かい何やら手を動かしている。入学式からたまっている学校の書類でも書かされているのかと思い近づいて机の上を見てみると、そこにはトカゲがいた。見かけによらず爬虫類は苦手じゃないのか、って小学生じゃあるまいしトカゲと戯れるのはどうかと思うけれど。
すると崎野さんはスカートのポケットに手を入れ、何かを取り出し、それをトカゲに向けて打ち込んだ。
僕は戸惑い、絶句し、ただその動きを見つめた。
右手に持たれたカッターナイフはトカゲに向かい勢い良く刺さり、そして勢いよく引き抜き、また刺す。
この娘は何をしているんだ? 不気味に思い、僕は崎野さんと視線を合わせて話しをするため屈み、顔を見つめると彼女はうっすら笑っていた。でもその笑みには楽しいやら憎しみやらそういう感情と言う類が含まれていない気がした。
僕はその顔を見つめることでやっと正気に戻り、トカゲを取り上げた。崎野さんはトカゲを取られたことに気づいていないのか、何もいない机を刺し続ける。
ん? 何だこのトカゲ、やけに弾力性があると思ったらゴムでできたおもちゃじゃないか。そりゃ本物なんて刺さないよな。僕は机に手の平を置き崎野さんに話しかけた。
「こんなとこで何してるん? トカゲのおもちゃ串刺しなんてあんまり趣味がええとは思われへんな、僕が言うのもなんやけど。……教室戻ろか?」
返事はなく、崎野さんがカッターナイフで机を刺す音だけが教室に響く。
どうしようか、どうやら反応はなさそうだし、仕方ないけど沖田先生でも呼んでくるか。あの人なら彼女がこうなった理由の少しくらいはわかっているだろう。
机から手を離そうとする直前、刃物が身に刺さる感触を手の甲で感じた。
確認してみると、やっぱり刺さってやがる。
手の甲には折れたカッターナイフの刃が刺さっていた。血が滲み出る。
崎野さんの力が弱かったのが幸いしたのか、それとも刃こぼれしてよく刺さらなかったのか、両方だろうけどそこまで深くは刺さっていない。でも今は麻痺しているだけで後から痛くなるのかもしれない。そう思うとテンションが下がってきた。って刺されたときに下がるのが普通か。
机に滲んだ血が崎野さんの肌に付くと、崎野さんは眠りから覚めたように目を大きく開き僕の顔と傷口を交互に見て叫んだ。
「血ぃや! 血が出てる! わーーっ!」
あの? そろそろ突っ込んでいいでしょうか?
いや、突っ込むべきではないな。崎野さんは僕を刺したことに気づいていないし、それならその方が都合はいい。僕にとって崎野さんに刺されたくらいじゃこれからの付き合いに何の変化もない(どうやらあの様子からするとわけありのようだし)。でも崎野さんが自分で刺したことを知るとこれから気まずい関係になってしまう可能性が高い。それは大問題だ。地球環境なんて目じゃないくらいの問題になってくる。ということで僕は慌てながら「大丈夫、これくらい唾付けときゃ治るから」と言って教室から、崎野さんから逃げ出した。
教室を出ることは良かったとして、この傷口の手当はどうしよう……。保健室に行ってこんな傷口を見せると保健の先生が黙ってないだろう。速攻生徒指導の先生とバトンタッチされ、誰にやられたか尋問が始まるに決まっている。かと言って放っていると膝にできた擦り傷どころの痛みじゃないのは明らかだ。
とりあえずカッターの刃を抜いて洗面所で血を流していると、肩に手を添えられた。
誰だ? もしかして崎野さんが心配して追ってきたのか?
振り返ると天照がいた。何でこんなところにいるんだ?
「手を怪我してるでしょ? 私見ていたんだから。ちょっと来なさい」
そう言うと天照は僕の返事を待たずに、僕の手首をつかんで駆け出した。
「一体どこに行くねん! それにそんな体動かしたら血が余計に出るやろ」
「いいのよ、血なんてどうだって。あんたうるさいからちょっと黙ってなさい」
何が『いいのよ』だ? お前の体ならその言い方はわかるけれど、この右手は僕の手だ。お前にとやかく言われる筋合いはない。
なるべく校内の人が少ない廊下を通り、二人きりで会う場所としてはかなりベターな部類に入る場所に連れてこられた。
そこは体育館裏。少量の木が生えていて、東寺を見に来た観光客の声も少し聞こえてくる。けれど辺りに生徒の姿はない。
「体育館裏? 告白ってわけちゃうやろな」
「本当にあなたはうるさい。他愛のない冗談を言う暇があれば早く右手を出しなさい」
僕はこれ以上こいつを不機嫌にさせることに危機感を覚え、大人しく右手を差し出した。
天照は僕の右手の上に手をかざし、大きく深呼吸して瞳を閉じた。
こいつは何をしている? そんなわけのわからない宗教くさいことをして治るわけがないだろう。いたいいたいの飛んでいけ、なんて子供だましで癒える様な傷ではない。
「はよ止血せ――」
天照は閉じていた瞳を大きく開くと僕にかざした大きく開いた両手の平から人肌より少し暖かい、けれどお風呂だと少しぬるい程度の温風を出した。僕は思わず口を閉じる。
この風に色があるなら金色なのだろう、と思っているうちにみるみる傷は映像の巻き戻しのようにふさがり、痛みも和らいだ。
なんだこの神話的な出来事は、どこかの宗教に出てくる神でもあるまいし。そこで僕の手を医療器具なしで手当てしているのは、普通とは言いがたいが女子高生だ。僕は何を目の当たりにしているのだろうか。
「これで傷は大丈夫でしょう」
何度見ても、どこをどう見ても僕の手だよな?
僕は天照の手にカイロ的な物が張り付いていないか確かめるために神秘的出来事を引き起こした手を雑に握り、甲と平を何度も見直した。
だって可笑しいじゃないか、普通の手から生暖かさを感じたんだぞ? カイロかドライヤーくらいしかそういうことはできないじゃないか。
すると天照はその手を引っ込めて、いつものように僕を罵倒することなく、笑った。
「何で笑ってんねん」
「似てたのよ」
笑顔を見せたのはほんの一瞬で、すぐに僕の手から逃げるように手を振りほどき。いつも通りの無愛想な表情に戻った。
「似てたの師匠に、というか先生に」
「先生? 沖田先生か?」
「さぁ、想像だけならお好きにどうぞ」そう言って天照は黒い髪をなびかせ走り去っていった。
それにしても不思議だ。これが天照の超能力か。こんなの誰に言っても信じてくれないだろうな。見れば誰もが信じるけれど。
僕はさっきまで傷ついていた右手をじっくりと見てみたがどこにも変わりはなく、匂いもかいでみたが何も匂っていない。ただ傷が引っ付いた痕だけが残っていた。なんて便利な能力だろう、今まで見た超能力の中で一番世の中のためになるのではないだろうか? 傷口をふさぎ治す芸当が出来るのだから癌細胞とかそういう類も手を添えるだけで倒せるかもしれない。
でもあいつは確かあの黒猫の傷も治せたよな? だとしたらそれは人以外にもためになるって訳か。もしかすると草木にも適用するのかもしれない。
そんなことを考えながらゆっくり歩いていると予鈴が鳴り、またしても僕の昼休みは何の楽しみもなく終わってしまった。でも一部の人からすれば非常に楽しみで好奇心をくすぐられるかもしれないな。
その次の授業には天照は現れなかった。一体どうしたのだろう? 僕の怪我を治してすぐに駆け出して行ったのに。教室ではないどこかへ行ったのだろうか。もしかしてまた任務か? あいつも忙しいな、確かにあれだけ便利な超能力と体術を持っていればうなずける。
午後からの授業の崎野さんは特に変わった様子もなく、いたって普通。僕の手が怪我をしていない様子を見て、あれを夢か何かだと思い込んだのかもしれない。でも崎野さんは天照が能力者ってことは知っているよな? そこまで考えが回らないか。こちらとしても幻想の類と思ってもらうほうが助かるし。
そして放課後、寮にカバンやらを置いて着替え、僕は暇つぶしにコンビニに向かった。昨日はバタバタしていたのでいつも楽しみにしている漫画週刊誌の立ち読みが出来なかったからだ。まだ売り切れていなければいいけれど。
部屋を出て、寮の玄関を出ると携帯電話が震えた。
クラスの奴かな、放課後遊ぼうとか? 今日は乗り気じゃないけれど……。
着信者表示を見ると『三月香代』と表示されている。いつの間に登録したんだろう? あの人に番号を教えた覚えなんてないけれど。それに修学旅行中だろ? 何の用だ?
「はい、どうしました三月さん」
「あっ、薙さん、どうも。今ちょっといいかしら」
この人の声はいつ聞いても控えめという言葉がよく似合う。
「はい、大丈夫ですよ」
「えっと、心花さんでなくて、崎野さんに何か変わった様子はなかったかしら?」
その言葉を聞いた瞬間、背中に氷を入れられたような悪寒が走った。
なんて確信をつく言葉なのだろう。何かあったなんてものじゃない、カッターナイフで右手の甲を刺されましたよ。こんな経験一生味わえないだろう、味わいたくもないが。
「どうして黙っているのですか? 嘘をついても無駄ですよ薙さん。私は彼女のことをある程度知っているわ。でないとこんな質問しないでしょ」受話器から悟るように響く三月さんの声は優しさ以外何も含まれていないような気がした。なら言ってしまうしかないだろう。
「実はカッターナイフで手を刺されました」
「えっ! そんなことされたの? 私もさすがにそこまでされたことはないわ」
「まぁそれは事故に近いんやけど。僕も驚きましたよ、狂ったようにトカゲのおもちゃにカッター向けてるんですから」
「カッターねぇ、いつもはハサミだけどね」
「ハサミ?」
「そう、植物を切り刻んでいるわ。もちろん狂ったようにです」
狂ったように……。その言葉の恐ろしさに身震いがした。
あのときの彼女は何も耳に入らず一心不乱にカッターを振りかぶっていた。目標物を失っても。
一体彼女の心の、どこからそこまでの破壊衝動が生まれているのだろう。
「心花さん今まで授業に参加せず、何故か組織には積極的に参加していたのよ。だから、多分学校というかクラスが怖いのだと思います」
「怖い?」
「私も詳しい事情は知らないのですが、この学校に、この組織に来る以前、中学生の頃に深い傷を負ったとだけは聞きました。それが原因で登校拒否をし、親戚が経営している花屋さんにお世話になっているそうです」
そういえば超能力を使える条件として、心に普通では考えられないほどの傷を負わないといけなくて、でもそのことをよく思い出してしまう困った脳内をしていなければならないとかなんとか。さらに、それに耐える精神の強さを持っていなければいけないよな。なんとも矛盾しまくった条件だ。
「そういうことがあったなら話しは早そうですね。心花さん、恐らくまた夜か深夜辺りにあのような発作を起こす可能性があると思うのです」
「そういうことが前にもあったんですか?」
「ごくたまにですけれど。でもその発作の法則性みたいなものがあって、起こってしまう日のほとんどは、次の日に新しい出会い、つまり知らない人と関わらないといけない日だったらしいのです」
「なら、花屋の仕事なんていつも知らない人と会ってるじゃないですか」
それに崎野さんは店の常連でもない登校途中の僕に微笑みかけてくれた。だとしたらあの笑顔はなんだったのだろう。
「関りの度合いが違うわ。ただすれ違う程度なら大丈夫らしいのですが。お店だといらっしゃいませ、ありがとうございました。それと話しをするとして少しの雑談でしょう? でも学校に行くとなると違うでしょう」
「確かにそうですけど……。ってことはこの組織の人と会う前日もそういうことになったのですか?」
「いえ、その場合は不思議と大丈夫でしたの。……その普段ならそういうメンタルケアは私がしなければいけないのですが、今は沖縄ですので」
確かにそういう人の心を和ましたり癒したりするには三月さんはうってつけだろう。清楚な話し方もそうだけれど、天照のように嘘偽りじゃない、心の底から感じる品位ある優等生的な態度、それとなんといっても人を落ち着かせるオーラは絶大だ。
「なので、私の変わりに崎野さんの衝動を抑える役目を行なって欲しいのです」
「僕がですか?」
何で僕だ? あなたのそのすばらしい性質を僕はひとつも持ち合わせていないぞ。面倒くさがりだし、脱力感あるし、和みや癒しなんて言葉を一文字すら持ちあわせていないぞ。
「あなたなら出来るでしょう」
「僕が人を慰めるなんて出来ると思います?」
「以前のあなたなら無理でしょうね」
笑いながら言うけど、結構ひどいこと言ってますよ三月さん。
「でもあなた好きなのでしょう? 崎野さんのこと」
なんでそれを!
「みなさんからそういう様子だと聞きしたので。それにあなたは先見ですから」
千件? そんな莫大な店舗数を構えているのはあれしかないだろう。でもあなたはってどういうことだろう?
「コンビニですか? それやったら今向かうとこですけど」
「――ふふっ、がんばってくださいね。お土産買ってきますので」
「ホンマですか? ありがとうございます」
それではいずれ、と言って三月さんは電話を切った。
結構安請け合いしてしまった感がするけれど、仕方ないか。好いた人の情緒不安定を和らげる役目、いいじゃないか。崎野さんとの関係を深めるチャンスだと思えば。
電話終了直後は楽観的で気分も良かったけれど、コンビニで漫画週刊誌を読むうちにだんだん事の重大さと難しさに気付き気分が悪くなり、半分くらいで読むのをやめ寮に戻って晩飯を食べることなく眠ることにした。何だかこのままだと貧弱で軟弱で三月さんに顰蹙を買ってしまうな。
八時くらいに起きる予定だったのだけれど、思ったよりも深い眠りについていたらしく、目を覚まし時計を見ると深夜の〇時を過ぎていた。
なにか忘れていることがあった気がする……。なんて考えるわけもなく、僕はすぐに身を起こし崎野さんの部屋に向かった。
チャイムを鳴らしても反応がない。扉を叩いてももちろん反応はない。もしかしたら鍵が開いているかもしれないと思いドアノブを回すと、
回った。
まさか、鍵が開いているとは思わなかったので僕は驚きながらも扉を押して部屋に入った。
部屋は暗い。やっぱりもう寝ているのか? でも鍵を開けたままなんて無用心すぎるだろ。僕は自分の部屋の間取りを思い出し、リビングへゆっくりと足音を立てないように歩いた。
気配がした。耳を澄ますと呼吸をする音がする。やっぱり起きているのかな? 手探りで部屋の電気のスイッチを探したけれど見つからず、仕方ないので携帯電話のフラッシュを使って辺りを見渡した。
部屋の窓際。その隅に三角座りをしている崎野さんを見つけた。
瞳は開いたままで、ただ窓の外を見つめていた。あのトカゲのおもちゃを刺しているときのようにうっすらと笑いながら。
僕の放つフラッシュに気付きこちらを振り向いたので僕が「気分はどう」なんて夕方から用意していた言葉を投げかけたのだが、無反応。ちょっとキザ過ぎたかな?
さらに近づき、手を伸ばせば届く所までくると崎野さんは視線を僕へ向けた。
やっと僕がいることに気付いたのかな?
「来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで来ないで」
と小さな声で話すと言うより、ただ並んだ言葉を読むように、ピアノを一音だけ連続して鳴らすように発した。
「心配で、来てみたんやけど……」
「来ないで!」
その声は先ほどのように小さな声ではなく、窓が割れるくらい大きな声で部屋中を響かせた。僕はその声に驚くと同時にドアへ駆け出し、逃げるように部屋を飛び出した。
一体なんだってんだ。そんなこと言われると慰めも出来ないじゃないか。
でももしああいうことを言われなくて、部屋に居続けることが出来たとしても、彼女の傷を少しでも癒せることが出来ただろうか。
自分の部屋に戻りながら、人に何を出来るのだろうか、何を与えられるのだろうかと柄にもなく真剣に考えてしまった。答えなんて見つかるわけもないのに。
三日目の朝は沖田先生のモーニングコールで目が覚めた。初日と同じセリフとテンションで、僕を眠りという名の冥府から救ってくれた。
確か今日で任務は終わりだったよな、三日間って言っていたから。でも最終日だからと言ってもやる気など出るわけがなく、気が滅入る一方だ。せめて尾行する意味さえ知ればもう少しやる気が出るってものだけれど。結局最初から最後まで意味がわからないまま終わりそうだな。
僕は横目で見たニュース番組の占いが、七位だということに少しほっとしながら部屋を出た。
追尾すべき少女は昨日、そして一昨日と同じ時間にホームに来て、同じ車両の電車に乗り、ほとんど同じ時間帯で学校に着いた。
無事に最後の尾行を終え、思ったよりも感慨深くもなく、思ったよりも何も起きなかったことに少し拍子抜けをした、そんなところだ。このことを二日前の自分に言っても信用してもらえないくらい普通だった。
報告のため職員室方面に歩いていると、今最も会いたくない人に会ってしまった。無視しようと思ったけれど、そこは僕の愛が許さない。なんてな。ただ、無視する度胸もないだけだよ。
「おっはよ、薙くん。尾行は順調?」
「そんな大声で言ったらやばない? 崎野さん」
「あっ、そうやな。ごめんごめん。コノカ危機感なさすぎやな」
てへっ、という効果音が聞こえてきそうな笑顔を向け、いつも通りの天然具合を垣間見る辺りは、昨日の深夜のことは覚えていないってことか。ここで確認の為に踏み込んだ話しをしてしまって、また絶叫されるのも嫌だし、あえて伏せていよう。
「薙くんは職員室に用あるん?」
「いや、ちゃうよ。沖田先生に朝の報告を」
「そっか尾行のね。じゃ、しっかりせなあかんなぁ」
そうですね。と言いたいところだけど、尾行は禁句だって。
「心花ちゃんごめん待たせた? 行こっか。あっ薙くんおはよ、じゃね」
「がんばってなぁ」
そう言いながら手を振って崎野さんは脇に学級日誌を抱え、クラスの女子と教室の方へ歩いて行った。
日直のやり方でも教えてもらっていたのだろう。あの様子だと男子以外とも仲良くやれてそうで良かったよ。初日の男子からの人気振りから妬む女子もいるだろうと思ったけどそこまで精神年齢は低くなかったか。
職員室には毎度おなじみ沖田先生の姿はなく、お決まりのように隣の教室に向かった。
「おっはー、薙くん。調子はどう?」
「その年になってその挨拶は」
「何? いいじゃない、流行語大賞なのよ」まあいいか、どうせ流行なんて廃れるためにある物だ。いずれ使わなくなるだろう。
「はいはい、おはようございます。ちなみに今日の朝も特に変わった様子はなかったで」
「そうなの、そりゃ残念」
と言うわりに、顔から『何もなくて当たり前よ』と読み取れたのは僕の気のせいだろうか。
「それより崎野さんのことやけど」
昨日からずっとあの発作のことが気になっていて、どうすれば少しでも症状を和らげることができるだろうと考えた結果、やっぱりこの人しかいなかった。ちょっと癪だけど。
「昨日崎野さんの変な発作を見たんやけど、何であんなことになるんですか」
「あら? 見ちゃったの。前に言わなかったかな、あのクラスは傷者の集まりだって」
「言いましたけど、あんな精神科に行かなきゃ行けないようなレベルのものと思ってなかったんですよ」
沖田先生は面倒そうに頭をかきながら「精神科に行ってもダメだからここにいるの。いざとなれば精神安定剤でも飲んだり打ったりしときゃいいのよ」と吐き捨てた。
「なんちゅうこと言うねん、人を物みたいに言いやがってアホか」
「失礼ね、物なんて思ってないわよ。あなた達はこの世で一番大切な仲間よ」
さっき吐き捨てた言葉を聞いて、誰がその思いを信じられるだろうか。
「さっきもコノカっちもらいに来たの、精神安定剤」そう言って沖田先生はポケットからピルケースを取り出し錠剤を慣れた手つきで取り出し、手の平に転がした。
「これさえ飲めばある程度は収まるの。でもどうしてもって時は、ちっと痛いけど注射しなきゃだけどね」
「でも薬って副作用とかあるんじゃないですか?」
「もちろん、当然。まだ今はどういう副作用があるかわかってないけど、体には良くないでしょうね」
「そんな危ない薬与えていいんですか?」
僕は必死だった、何故だろう。精神の不安定が薬を飲んで治せるならそれでいいじゃないか、例え体に支障があったとしても。それはそれでしょうがないじゃないか、それくらい重度の精神障害だというのなら。そんなことはわかっている、だけど……。
「なら薙くんが精神安定剤になってあげなさい」
「えっ?」
「あなたの超能力を上手に活用すればきっといい結果が生まれるはずよ」
そんなようなことを昨日も聞いた気がするけど。
「僕の能力って、超能力って一体何ですか?」
僕の発した言葉がよほど不思議だったのか、沖田先生は目を丸め、その大きな瞳で僕を捉えて言った。
「まだ気付いてなかったの? てっきり気付いているものと思っていたのに。ちょっとびっくり」
その表情はちょっとどころじゃないだろ? 驚愕の域まで達していると見受けられるが。
「それじゃ教えてあげる」
えっ、教えてくれるの? ちょっと待って、まだ心の準備とかできてないから。
「あなたは一般的に言われる予知能力者よ」
………。
一瞬空気が止まったけれど、そんなものを止めている場合じゃない。
「よちのうりょくしゃ?」
よく聞く言葉だし、超能力の中でも一番知られている部類の能力じゃないか。でもその中では胡散臭い度ナンバーワンだけど。
「ある人はあなたの持つ能力のことを先見とも呼び、また予言とも呼ぶわ」
「はぁ」
「何? ボケーっとしちゃって。すごいじゃない! 人間国宝なんて目じゃないくらいすごい能力なのよ? 世界遺産物よ。その辺わかってるかな薙くん」
「でも今までにもいたじゃないですか? ノストラダムスとかモーセとか」
沖田先生はその言葉を聞くと一気に表情を固くした。
「そんなの信じてるわけ? ちなみにモーセは預けるほうの預言者です。」
いや、そんな本気で怒らなくても、確かに予言書や預言書なんて信じてないけれど。
それにしても予言と預言の違いがいまいちよくわからない。
「預けるの預言って何が違うんですか?」
沖田先生は迷うことなく答えてくれた。
「神の啓示を受けるとか、そういう感じのことを言うの。薙くんは超能力使ったときに何か聞こえた? 聞こえないでしょ、聞こえたらあなたにもこの錠剤をプレゼントよ」授業中の二倍程目を輝かせながら自慢げに言う沖田先生は、幼稚園児のようにかわいらしくもあり、憎たらしくも見えた。こんな表情をするのは、僕が超能力者だと教えてくれた日以来かな?
「もっと自分の能力に自信を持ちなさい、これ以上の超能力をあたしは知らないわ」
「……はい、わかりました」全くわからないけど。
「超能力者で人助け。いいじゃない。あたしも超能力欲しかったな……」その言葉を吐いた瞬間、勢いよく僕の瞳を見つめた。
「あたしに超能力がないってわけじゃないのよ、あるから。あるけど、あなたのような能力が欲しかったなって言う意味よ? わかった? わかったでしょ」
そんな勢いに任せて言われるとわかったとしか言えないだろう。この人はまだ自分が超能力者だという嘘がばれていないとでも思っているのか? でも思ってなきゃこんな真似できないか。
「わかりました、当たり前じゃないですか沖田先生は超能力者ですよ」
「その通りあたしは超能力者」と言って、手を強く丸め胸を誇らしげに叩いた。
「そういえば、今日で初任務終了ね。ご苦労様」
沖田先生は右手を僕の方に差し出してきたので、あわてて僕も握り返す。
「いえいえ、あまり実感はないですけど無事に終わってよかったです」
沖田先生は僕の手を離し、大きく腕を前に伸ばしドッチボールでアウトを取った少年のような顔をしながら親指をグッと立てて、「上等無情計算道理。後は任せておいて! 本当におつかれさま」
「は、はい。お疲――」と最後まで言う前に予鈴が鳴った。本当に間の悪いチャイムだ、いやもしかして間が悪いのは僕か? なんてことを考えていると、先生は僕の横を颯爽と歩き、軽く優しく頭を二回叩いて職員室へ戻っていった。
本当にこれでいいのかな、僕の初任務は。
その思いは四時限目が過ぎても拭うことはできず、崎野さんのことと絡み合い余計にわからなくなり、授業なんて聞いている余裕なんてなかった。休憩時間も机に頬をつけ眠っている振りをして、クラスメイトからのコンタクトを避けた。そんな僕を見かけて気になったのか、僕の前に鏡を映したようなあいつが弁当を持って一言「中庭行けへん?」と誘ってきた。
兄弟仲良く昼ご飯なんて年齢じゃないだろうと思いつつ、あのことを相談できるのいい機会だと思い、僕はカバンから駅の売店で買った弁当を取り出し後に続いた。
我が寮では前日に弁当の有無を訊かれ、いると言った者だけがその弁当を手にすることが出来る。僕もいると答えたが、朝の慌ただしさのせいで寮弁当を忘れ、結局駅で買うことになった。寮の弁当は絶品なのに、特に出汁巻き卵が……。
中庭に出ると、穏やか日差しと一定して肌をなでるような風が吹いていて心地よかった。昨日より天気がいいってことはないけれど。
あまり広くない我が校の中庭は道がレンガのようなもので覆われていて、その真ん中に花やら木などが植えられている。ベンチなどは全くないので、ほとんどの生徒はビニールシートを敷いて昼食を食べている。が、もちろん僕ら兄弟が、そんな準備がいいわけがなく、そのままレンガにあぐらをかいて座った。
那実は寮特製弁当のウインナーとご飯を口に放り込み、大げさに口を動かせて飲み込み、お茶で流し込む。
僕も脳が少しでも働けるようにと願いを込め、箸を割った。すると那実が口を開いた。
「弁当を食べる前に少し話しがあるんやけど。胸に突っかかりがあると飯も旨ないやろ?」
「お前はもう食ってるやないか」
「俺は突っかかりなんて気にせえへんよ。それに、俺の弁当は寮のおばちゃんが作ったからうまい。けどお前の弁当はインスタントの方がマシって言える程不味そうな弁当や。それ以上不味なったら食べ物ちゃうやろ」那実は口元に付いた米粒を親指で取り、舌で舐め取って言った。
売店弁当を侮辱しすぎだろう? そんなに不味くないぞ。
「だから何があったのか喋れ。ほら、出汁巻きあげるから」
僕は出汁巻き卵を弁当のフタの上に置いてから口を開いた。言っておくが出汁巻きをもらったから話すわけではない。
「崎野さんが精神不安定なのはお前知ってる?」
「もちろん、組織に入った時期はさほど変わらんし。何回か狂ったところも見たことあるで。歓寮会のときも必死で説得したわ」
あの崎野さんの姿を見たのにどうしてそうやって平然とした顔で話せるのかよくわからない。以前からこんな奴だったか?
「僕やったらどうにかできるって。沖田先生ならまだしも三月さんにも言われたから、どうすればええんか……」
「何をどうするん?」
「崎野さんを不安定から救う方法や」
僕は少し乾いたのどを潤わすために、那実の持ってきたペットボトルのお茶を口に含んだ。
那実はあごに手を当て少し考えてから話しを進めた。
「救うか……。オコガマシイな」
「はぁ!?」
「人の心の傷なんかそんな簡単に治せる物やなんて思ってるんか? ましてやお前はまだあいつと出会って間もない。傷を治すにはそいつのそのときの痛みを十分知らんとアカンと俺は思う。お前にその覚悟はあるんか? ちなみに俺にはない」
「あるに決まってるやろ」当たり前のことを聞くな、アホが。
「あのときみたいになってもか」
その言葉を聞いた瞬間、にぎやかだった周りの音、心地よかった風の流れが消え、僕の鼓動だけが響いた。
あのときのような過ち、別れを繰り返すことになってもいいのか僕は。そんなことをするとあの子はもう僕を許してくれないだろう。
「………」
「ちょっと言い過ぎた、ごめん。でもあれや、お前の傷を知ってる俺も、お前の傷の治し方はわからん、血は繋がってるのに。ってことはそれくらい難しいってことや」
こいつが謝るなんて珍しいな。それくらい僕の顔には悲壮感が漂っていたってことか。あれからもう一年以上も経つのに、まだ忘れることができないなんて僕は本当にダメだな。
「それにこれがきっかけでお前の傷も少しはマシになるかもせえへんし」
「そうやな。オッケ。でも超能力を使ってどうやって崎野さんの傷を癒そう?」
「あー? まどろっこしい。そんなもんマインド使うなよ。お前やったら多分普通にすれば大丈夫や」そう言って那実は腕を組む。
「普通?」
「そうや。お前考えるの苦手やろ? 直感や直感。もし超能力使って失敗したらそのせいにするやろ」
そりゃしないとは言いきれないよな。
「なら気持ちでぶつかるしかないやろ。お前やったら出来るなんて安っぽいことは言えへんけどどうにかなるやろ」
人の一生に関わるかもしれないことに『どうにかなるだろう』はないと思うが。まぁお前らしいと言えばお前らしいけど。
「そやな、いちいち悩んでるのもアホらしいしな」
沖田先生の教えを無視することになるけど、やっぱり僕にはこっちの考えの方が賛同できる。超能力はもしもの為に取っておこう。それに必殺技は最後ってお約束だしな。
「ちょっとくらいは考えて行動せえよ」
わかってるわ。何も考えないで行動に移せる程僕は肝が据わっていないよ。
「ほな、よっこいしょ」そう軽快に言い放って立ち上がり、弁当を片手に持った。
「どこ行くねん?」
まだ食べ終わってないだろう? それに僕は一口も食べ物を口に含んでいないぞ。
「中庭で飯食う男子ペアなんかおらんやろ? それに似た顔が一緒に食ってたらドッペルゲンガーか! っちゅう話しや」
いやいや、誰もドッペルゲンガーなどとは思わないだろう。まあ男子二人が中庭で昼食をつつき合っている姿は何かと誤解されそうだがな。
僕は先ほどのちょっとした緊張感を吐き出すように小さく溜め息を吐く。
すると教室に戻ると思っていた那実は、僕に背中を向けたまま、顔も向けず話しだした。
「一年前のお前みたいになってもうたわ」
どういうことだ?
「……香美と別れた」
意味が分からなかった。二週間ほど前までは別れ間際に涙を流すほど好きだったはずだ。それなのに何故……。それに一年前の僕と似ている? 二人に何が起きたのだろう?。
「あのホームの言葉は嘘やったんか?」
那実は背を向けているので、顔は確認できないけれど、おそらく今にも泣き出しそうだろう。
「仕方なかったんや。前の任務でわかったけどこの組織は思ったよりも危険や。このまま任務を続けていったら身内はまだしも香美にまで迷惑がかかるかもって思った。……それにいつ死ぬかわからんし、あいつの泣き顔は見たない」
声でわかる。
「いつ死ぬかわからんのは普通に生きてる人もそうやろ?」
「あかんねん、ホンマに危ない。お前はまだ大した任務してないからわからんけど、俺は一回目の任務で先輩を失うところを見たんや……。だからお前が組織と通じへんように色々してたんやけど無理やった。ヒツジはヤギとは群れられへんってことや。……でも家族だけは安心し。組織が名誉のために守るらしいから」淡々と呟きながら話す那実には生気が感じ取れなかった。
「何なよヒツジとかヤギとか意味わからん、ごまかすな!」
「ヒツジは俺、ヤギは香美。こういうことや。……お前はがんばれよ、ヒツジはヒツジと戯れるのが一番やから」
僕は一年前に別れた彼女のことを思い出してしまい、体を動かすことも出来なかった。確かに似ている、あの頃の僕の別れと。理不尽な運命によって引き裂かれた恋人。赤い糸もどんな糸も通用しない。それが人生、それが恋。
僕は教室に向かう那実の姿を見つめることしか出来なかった。同じ傷を抱えたと言うのに。しかしそれ故に、だろう……。
決意が決まってからの午後の授業も、あんなことがあったので相も変わらず集中できず、結局何を話せば彼女を癒せるだろうというところで考えは止まり、そのたびに消しゴムを投げ、表なら癒せる、裏なら癒せない。なんてジンクスみたいなことをして過ごした。
崎野さんはというと、いつもと何の変わりもなく、その天然爛漫な雰囲気で教室の空気をいつもより二倍程和ませ、また男子からは熱い視線を注がられていた。
そんな彼女が精神安定剤を飲みながら授業を受けているという事実を思い出すと胸が痛む。
結局何の打開策も思いつかないまま放課後が過ぎ、夕食を食べ風呂に入り、気づくとまた消しゴムを投げていた。
こんなことしている場合じゃないだろ、早く部屋を出て崎野さんの部屋に行け。
僕は立ち上がって、ドアノブに手をかける。さぁ、行くぞ。今度こその扉を開けろ。
ちなみにドアノブに手をかけては座り、手をかけては座りを何度繰り返したことだろう。この三時間で八回は固い。
また決心がつかず、テレビの前に座り直した瞬間、頭上で物が割れる音がした。
この上の部屋は崎野さんだ。
僕はすぐに腰を上げ、さっきまでこの世の物とは思えない程重たかったドアノブを難なく回し、物音のする部屋へ急いだ。
きっとまた発作が起きたのだろう。くそっ、迷ってないで晩飯食ってから行けばこんな後悔しなくて済んだかもしれないのに。自分への苛立ちのせいなのか、インターホンも押さず勢いよくドアを開け、崎野さんの部屋に入った。
「崎野さん、どうしたんですか!」
目の前には、瞳に涙を溜め、机にうつぶせになっている崎野さんがいた。左手にはピルケース、右手には錠剤を持っている。
「アカン崎野さん!」僕はそう思うと同時に叫び彼女のもとへ駆け寄り、右手を押さえた。
「うるさい! だまれ!」
僕は驚いた。
それはいつもの言葉使いと雰囲気の違う崎野さんに、そして何よりも右手だけで吹き飛ばされた事実に。
天照ならまだしも、あんな細い腕をした崎野さんに、しかも片手で吹き飛ばされると思っていなかった。仕方なく僕は右手に持たれた錠剤を奪うことを諦め、左手に持たれたピルケースをひったくった。
すると崎野さんは視線を僕に向け机に置かれたハサミを左手に握りしめ、嗚咽まじりで近づいてきた。ピルケースを返さないと殺すぞ、と目で語りかけてくる。
そして彼女は躊躇無くその左手を振り下ろした。その行為により反射的に閉じていた瞳を開くと、左目には血の色が映っていた。右目にはハサミが刺さっていた。
僕は物が割れる音で目が覚めた。
何だ、テレビを見ているうちに眠ってしまったのか。それにしてもひどい汗だ、さっきの夢のせいだろうか。
そしてもう一度物音がした。
こんなこと考えている場合じゃない、早く崎野さんの部屋に向かわないと。僕は夢と同じように階段を上り、扉を開き、夢と同じ言葉を吐き吹き飛ばされピルケースを奪った。
なんだよ、現実でも片手一本で吹き飛ばされるのかよ。追い込まれると人って怖いな、おい。
いやいや、そんなこと考えている場合じゃない。このままじゃ崎野さんはハサミを持って僕にめがけて振りかぶってくるぞ。
戸惑っているうちに崎野さんは左手にハサミを握り、さっきの夢の繰り返し見ているような、それほど同じ動きで近づいてきた。
やばい、このままじゃ夢のように目を刺さされる。でもどうすればいい? 避けろと言われても僕の動体視力じゃこの至近距離から目に向かい飛び込んでくるハサミを、眼で追うことすらままならないだろう。この場から逃れようと思っても体は動かない。ほら、足はおもいっきり震えてるし、手なんて力も入らずただ体の付け根から垂れ下がっているだけだ。
あの夢が僕の超能力、先見だとするなら、予知夢だとするならあと五秒くらいで僕の目が潰れる。
確か天照は僕の能力を自分以外の人の死に直面するときにだけ発動すると言ったよな。だとするとこのままじゃ僕を刺したことにより、崎野さんが責任を負って……。
何をやりに来たんだ僕は、逆だろ。
体が動かないならあと一つあるだろ?
やめてくれ、崎野さん!
…………。
――あれあれあれあれ? 声も出ない。
それは明らかに自分でもわかった。声帯も震えていないし、器官から空気の流れを感じなかった。ただ口を動かしただけだ。崎野さん読心術とか使えるかな、って使えるわけないよな。一人でボケて突っ込んでる場合じゃない。どうする、どうする僕。もう万策尽きたぞ。
夢の終わりまで残り一秒を切り、いよいよ眼球と崎野さんにさよならかな。なんて思っているとあのときのあいつの声が聞こえてきた。
『薙の眼だけを見てきたの』
と聞こえた気がした。
思い耽っていたせいで眼は見開いていた。
タイムリミットだと気づいて右目を押さえると、まだそこにはハサミが突き刺さっていなかった。どういうことだ?
加害者になる予定だった人物を潰れるはずの右目でとらえた。
予定加害者は僕の方に四つん這いでうつむき、息を切れ切れにして「ご、ごめ、ん、またや、ってしまい、…う……うぁう」と右手の錠剤を必死に口に押し込みながら言った。
その姿を見ると、さっきまでどうやっても動かなかった体が勝手に動きだし、彼女の右手を押さえ、体を抱きしめた。
その体は思っていたよりも軽く、そして骨の感触が肌に伝わった。
崎野さんの息の乱れが落ち着きだした。彼女の体は妙に熱い。泣くことはそれほどエネルギーがいるのだろう。その手を首もとから背中に伸ばした。
「あっつ!」
思わずその手を背中から離してしまい叫んでしまった。
すごく熱い気がした。ホットプレートのような、そういう熱さが崎野さんの背中から僕の手に伝わったけれど気のせいだろうか。もしかすると火傷しているかも知れないと思い両手を見つめたがそんな外傷はなかった。やっぱり気のせいだよな、ありえないだろ背中にホットプレートだなんて。
「薙くん、ちょっとごめんやけど飲み物買ってきてくれへん? 泣いたら喉渇いたから」
どうやら気持ちも落ち着いたらしく、涙を拭うその顔にはいつもの暖かさが見えた。
「わかった、ほな行ってくる」
どうやら正気じゃなかったのは僕の方だ。彼女の声が聞こえた瞬間、一気に顔が火照りだし、さっきの自分の行動がいかに愚行なのか気付いた。そしてその恥ずかしさから僕は素早く部屋から逃げ出した。
扉を閉めると、少し火照った体を冷ますような肌寒い風が吹いた。
昼はちょうどいい暖かさなのに夜はまだ寒いな。そんなことはどうでもいいけれど、崎野さんにどのジュースにすれば良いか訊くことを忘れた。
今更何ともいえない空気が漂う部屋に戻って「どのジュースがいい?」なんて訊ける気がしない。ここはセンスが試させる、今日一番のポイントになりそうだな。本当ならこの前三月さんにおごってもらった豊富な品揃えの自販機へ行きたいところだけど、もう深夜なので寮の出入り口が閉まっている。僕は頭を抱えながら寮内にある自販機へ向かった。
――明かりが灯る自販機を見つめて何分くらい経っただろう? 本当に何を買えば良いかわからない。
天真爛漫と言えばオレンジジュースって気もするけど、乾いた喉にはちょっと違うよな。だとすれば、スポーツドリンクかお茶になるだろう。でも女子ってスポーツドリンクって好きなのかな? 微妙な気がする。かといって家でも飲めるようなお茶なんて買えないし、炭酸飲料なんて論外だろ。いや、でも無類の炭酸好きの可能性もなくはないか。
このままじゃ埒があかない、仕方ないから自分の好きなジュースと当たり障りのないお茶でも買っていこう。僕は自販機に二〇〇円を入れて、紙パックのグレープフルーツジュースと日本茶のボタンを押した。ちょっと時間かかり過ぎだよな、もう五分以上過ぎている。
炭酸飲料を買っていないのでほとんど全速力で崎野さん部屋に戻った。
部屋に着くと崎野さんはいつも通りの笑顔で僕を迎えてくれた。しかし、ちょっと頬を膨らませて、
「ありがとー。でもちょっと遅ない?」
「ごめんごめん、部屋に財布取りにいってたら遅なって」と、とっさに嘘をつく。
あなたの好みがわからなくて自販機の前で悩んでいましたなんて言える訳がない。
僕は両手に持っていたジュースとお茶を机の上に置いた。
「これ買ってきたんやけど」
悩んだ結果こうなったけれどこれ以上の答えは見つからない。これがダメなら僕のセンスが悪かったってことか。ちょっと、いや、かなり残念だ。
その判定結果を見ようとおそるおそる崎野さんを見ると、愕然とした表情でグレープフルーツジュースを持ちながら震えていた。
そんなに好きだった? そのジュース。でも震える程なんてドラマや漫画じゃないのに。
「もういや」
ん!? よく聞こえなかったけど。
「これも組織からもらったんやろ?」
何のことやらさっぱりだけど。
「やめてよ、人の過去を探るなんて……。出てって」
まさかの退室願いだ。
「出ていけ言ってるやろ! 嘘つき、偽善者、コノカを慰めるなんてただの命令やったんやろ」
命令と言えば近くなるけど、でもこれはあくまで僕の意思で行った。それにしても彼女はなぜそんなにも怒っているのだろう? もしかして選んだジュースが悪かったのだろうか? それに探るって何を?
「僕は自分で選んだジュースを買ってきただけや」
「うそ」怒りで潤んだ瞳が僕を見つめる。
「ホンマや! そんなしょうもない嘘付けへんよ」
僕も負けじと崎野さんを見つめた。睨んだに近いのかもしれない。
ちょっとした沈黙のあと、崎野さんはグレープフルーツジュースの紙パックにストローを突き刺し、ちゅーと可愛らしい音を立てながら涙を流し「やっぱり帰らんといて」と呟いた。
また泣いたよ、本当によく泣くなこの人は。言われなくても帰る気なんてさらさらなかったですよ。
「グレープフルーツは嫌いやった?」
「ううん。大好き」
「ほな、何で?」
泣き止んだ崎野さんは、少し長くなるけど、と言って手に持っていたジュースを机に置き話した。
「中学校のときに好きやった人がこのジュースおいしいでって教えてくれてん。で、色々あってその人と付き合うことになったんやけど、結局その人に振られたあげく裏切られて、コノカ学校行けへんなったねん。それからグレープフルーツを見たり、あと裏切られた日と同じ占いの順位を見たりしたら変になるねん。まだいっぱいそういうのあるけど思い出されへんくらいあるから……、それに思い出したらまた体が熱くなって気持ちを止められへんなるし」
あの狂った姿を想像すると、恐らくその裏切られ方が半端じゃなかったのだろう。細かいところまで訊きたい気もするけれど、今の僕じゃこれが限界だろ。
「でも薙くんすごいな」
「何が?」
「コノカがハサミ持ったときの顔も、出て行ってって言ったときの顔もすごかったで」悪戯をした子供のような声で崎野さんは言う。
「どういう風に?」
「それはコノカだけの秘密。でもあの人……好きやった人にちょっと似てたかも」と言ってはにかんだ。
そんな彼女の幸せそうに頬を赤らめる姿を見ていると、言ってしまいたくなるじゃないか。好きだと。
「薙くん今すっごい青いで」
顔が青ざめているってことか? いや、今はすごく赤いだろ。ということは青二才って意味か?
「心の色がすっごい青くてあったかい」
何を言っているのかさっぱりわからない? そんな僕の表情を読み取った崎野さんは自分のマインドについて話し始めた。
「そっか、薙くんは知らんやな。あたしのマインド。あたしのマインドは人の心理状態を色に例えるねん」
ということは嘘発見機的な能力を持っているということか。こりゃ浮気なんてすると即バレるかもな。そんな馬鹿な父の真似なんて俺には出来ないけれど。
「すごいやん。でも青はわかるとして色の表現に暖かいって何ですか?」
「コノカにはそう見えるんやからいいやんか。青くてあったかい、あたしが一番好きな色」
ってことは……。
「何? もしかしてお茶飽きた? コノカの飲む?」
まだ言えないよな好きだなんて。少なくても伝えるまであと二年はかかりそうだな。この調子だと。慎重と緊張を重ねて、いつか伝えられる日が来るのを待つとしようか。二人ともヒツジだし。
「ほなもう遅いし部屋に戻りますね」僕は立ち上がり玄関の方へ歩き出した。
「あっ、そやね」そう言うと崎野さんはジュースをすすりながら僕の後ろについて歩き「おやすみっ。また明日なぁ」と微笑みドアを閉めた。
閉じたドアから「トラウマを消す為に任務をがんばらないと」と小さな声が聞こえた。
鍵を閉める音が廊下に響いたことを合図にして、僕は自分の部屋へ足を踏み出した。