第二章 黒猫と廃れた公園
桜の花が新入生を手招きするかのように、綺麗に彩った桜並木道。そして、この日を待っていましたと言わんばかりに桜がよく似合う東寺。そのすぐそばに僕が通う京都東寺高等学校が、神聖なる場を汚さぬように所在している。
その光景は全てが色濃く見えたって言えば大袈裟になるかもしれないけど、少しくらいは僕の胸を高鳴らせた。
睡眠に負けないようにと、うとうとしている間に入学式が終わり、初めて教室に入ったとき、少しだけど違和感があった。違和感というより、安心感や一体感に近いものを感じ取れた。それは僕だけではなく那実もそうらしく、
「この学科って知能指数が高い奴ばっかり集まってるから、そんな気がするんとちゃうん?」と軽く流された。いつも那実はこうだ。何か不確定要素を感じると話をそらす。まあこの態度が正解って事なんだろうけど。
――理解不能な回答だけど。
入学式後のホームルームで何をするかといえば、メインは自己紹介だ。
心のどこかで知能指数の高い奴ばかりだから、自己紹介も堅い内容でみんな真面目君みたいな顔してるんだろうなと思っていたけれど、実際は中学のときと雰囲気も容姿もそれほど変わりはないように見える。表面上は。
そんな中、一人だけ明らかに違うオーラというか、そんなような物を感じとれる奴がいた。そいつは日本人みたいな顔をしているけど所々が外国人らしい。例えば、目の形が少しだけ外国人らしいとか、骨格が少しだけ日本人ではないとか。どこの国かはわからないけれど、おそらくヨーロッパ系だろう。
鈍感な人なら気付かないだろうな。まあ、僕もその鈍感の一人だけど。
そんな鈍感野郎でも明らかに日本人と違うとわかるのは、目の色と肌の色だ。
目は完全に青かかり、海の色に似ていて、肌は北極から来たの? と思うほど白く、ほぼ絵の具の白色だ。
「初めまして、天照沙希です。出身は神奈川県で、見てわかるようにあたしの祖母はイギリス人です。けれど父と母は日本人です。これから三年間、よろしくお願いします」
と清楚で普通と言えば普通だけど、それが上品さを漂わす自己紹介を終えた。
第一印象は、クラスメイトになれたことで、人生の半分の運を使ったのではないかというほど綺麗な人。沖田先生がファッションモデルなら、こいつは若手女優という感じがする。双方捨てがたいが、高校生の身分としては後者を選んでしまう。
どのくらい綺麗かというと人形みたいなんてありきたりな表現もアレだし、整っているなんてシュッレダー行きだ、そうだな、理想の女性を思い浮かべてそれよりもワンランクくらい上かな? オードリーにはかなわないか? いや二一世紀のオードリーと言われても否定は出来ない、それくらいの綺麗な顔立ちだ。
後々気付くことになるけれど、人は見た目が九割なんて言葉があるが、こいつほどそれを実感し、その言葉を破壊させた奴はいないだろう。
無事に自己紹介を終え、双子と言うことで注目を集めた高校生初日は、まあまあ満足のいく結果に終わった。
そして帰り道。クラスメイトのほとんどが寮に住んでいるらしいけれど、下校を誘った連中がクラブ見学をしたいと言うので、僕は一人寮へと向かっている。
高校になってまであんなにスポーツやらに打ち込みたいという感情がどうやっても湧いてこない。それならバイトでもした方がマシだ。にしても那実はどうしたのだろう? 終礼のチャイムが鳴ると同時に教室を飛び出して行ったけれど……。もしかしてもう香美ちゃんに会いたに地元へ戻ったとか? 見かけによらない奴だ。まあ、あいつと一緒に下校しない方がいいか。那実は歩くのが遅いから、あわせて歩くと疲れてしまう。
これからの登下校をどうしようかと考えていたら、いきなりすごい音が聞こえた。車がぶつかったのか?
前を見ると二〇〇m程先に黒い動物が倒れていた。しかも歩道の真ん中に。
もしかして、車が猫を轢いたのか? ったく轢き逃げなんてするなよ。しかも歩道の真ん中だからすごく目立つし。処理してあげたいけどあんなグロテスクなもの見ていたら、夕食まで気分が悪くなりそうだ。
なので、前方に手を合わしてお悔やみをし、道路を横断した。これで心残りもなく立ち去れる。猫にはかわいそうだけれどこれも運命だ。そう思いながら歩く僕を、見惚れるような綺麗なフォームで走り、風を切るカマイタチ並のスピードで横切り、轢かれた猫へまっしぐらに女子高生が走っていく。
よく見るとうちの制服だ。しかもあの後姿……誰だっけ?
道路を横断する刹那、すごく白い横顔が見えた。
――天照さんだ。すごく慌てた顔……もしかして飼い猫なのか?
僕も少し心配になり、彼女について行った。
彼女はすばやく血にまみれた黒猫を抱えて、すぐに近くの公園へ運ぶ。それにしても全く追いつかない、あの子走るの速すぎだろ。
肩で息をしながら、遊具が滑り台とブランコ、それとベンチしか無い小さな公園に入った。端の方にある木の近くで彼女を見つけた。三角座りして何かを見つめている。
さっき引かれた猫を埋葬しようとしているのだろう。なんて心優しい人なのだろう。学校から『猫を供養したで賞』の賞状を全校集会で授与すべきだよ。
そんな彼女の優しさにふれた僕は改心し、手伝おうと彼女のそばに近づいた。
するとそこには思ってもいない姿があった。その瞬間、彼女に対する妄想は全て消え去った。
天照さんは木の枝で、死んだ猫を突ついていた。
これは見なかったことにしようと思い、彼女が振り向く前に全力疾走で公園から逃げ出した。
何だあの娘は? 異常者なのか、何フェチだ? 死んだ猫を枝で突っつくために全力疾走したのか? 考えると、こっちがおかしくなりそうだ。
もうよそう、あの事を思い出すのは。綺麗なものには毒があるというじゃないか、そういうことにしておこう。
公園から寮まで全力疾走し、放課後先生から渡された寮の鍵となるカードを、入り口のカードリーダーに読み込ませ、これからお世話になる寮長に挨拶もせず自分の部屋にカードを読み込ませ飛び込んだ。
――あれは何だったのだろう? 忘れようと、思い切り走って帰ったけど全く頭の中から消えない。というか部屋に入るまで何回カードを読み込ませるんだよ? 緊急時はパニクるだろうが。
始め順調、終わりは不気味。そんな高校初日だった。
そして翌日。色々あったからか目覚めが悪かったのは僕だけではなく、那実も同じらしく、一緒に登校することになった。僕の場合は昨日のことが夢に出そうで、怖くて眠れなかっただけだけど。睡眠不足で小さなことがやたらと目に付く。
そんな不機嫌な僕を、未知の世界へと落とし込む事件が起きた。
登校時、僕ら兄弟は登校二日目というのに寝坊をしてしまい、仲良く地面を限界まで踏み込み、手を振り回し学校に向かっていた。
そんな必死な僕でも、あの小さな公園の前に来ると昨日のことを思い出して少し憂鬱な気分になった。
そしていきなり叫んでしまった。
「どうしたん? いきなり大きい声だして、みんな見てるで」
確かに犬の散歩をしている老人、会社に向かうサラリーマンその他諸々の人々が僕を見ている。しかし僕は見ていた、視線をそらすことなくただ黒く動く生物を。
「猫がおる」
昨日の黒猫に似ている。見間違いか?
「そりゃおるやろ猫くらい、野良犬やったらちょっとびっくりやけど。まぁ朝から黒猫なんてちょっと縁起悪いけど」
『縁起が悪い』で済む、ならいいけれどあれはどこからどう見ても昨日の猫だ。その証拠に、体に傷が付いている。しっかり見ないとわからないけど確かに傷はある。
――なんて見間違いだよな。那実の言う通り、猫くらいどこにだっているし、見たことのある猫かどうか判別する眼なんて僕には持ち合わせていない。そんな眼があるなら人の表情を理解できる眼が欲しいよ。
思ったよりも早く学校に着き、本鈴が鳴るギリギリに教室に着くと、黒板の日直欄に僕の名前が書かれていた。
高校二日目早々ホームルームで日誌を取りに行かなかったことを叱られ、僕はチャイムが鳴ると同時に再び走り職員室まで日誌を取りに行った。
日誌を持ち出し職員室から出ると、教室方面から遭遇したくない奴本日第一位がこっちへ向かって歩いてきた。職員室に用でもあるのかな? でもあと五分くらいすれば授業が始まる。
しかし僕はそのまま教室に向かわず、昨日のことが気まずいので、天照を避けるようにUターンし、職員トイレに行くフリした。あくまでさりげなく、彼女に気付かれないよう自分の中で最高の反転を決めてトイレに向かう。
しかし彼女は職員室を素通りして、僕の方へ歩いてきた。僕に用なのか?
彼女は落ち着いた雰囲気で穏やかに話しかけてきた。しかしそれは一国の姫が家来に話しかけるような感じでもあった。
「何で避けるのですか? まぁこちらにしても避けてくれた方がうれしいけれど」
バレバレだったか。それより矛盾したことを言う。まあ、この人は行動が奇怪だからな。
「いや、避ける気はなかったんやけど。……トイレ行きたくなってな」
「まぁどちらでもいいけれど」
どっちでもいいなら言うな。
「昨日の猫のことは誰にも言わないで下さい」
……こいつ気付いていたのか。まあ、あれだけ勢いよく逃げ出せば音で気付くか。
「誰にも言う気はないよ、天照さんが死んだ猫を棒で突っついたなんて……」
僕は今朝のことを思い出した、というかあまりに嫌な出来事だったから脳が勝手に忘れさせようとしたのかもしれない。あんなこと忘れるはずがないのに。
「あの猫に似たやつ、朝見かけたけど気のせいかな?」
「さぁ、知らないわ。昨日なんて言葉は亡き人のためにあるので。それよりあなたは何か人と変わった体の部分はある?」
わけのわからないことを言われたあげく、僕の質問は軽く流され、軽やかに次の質問に移る。
僕は頭にクエッションマークを浮かべながら、頭でパッと思いついた答えを口にする。
「目が大きいとか。かな?」
「そういうことじゃなくて大袈裟に言うと指が六本とか」
そういうこと? 何かあったけなぁ……
――思い出した。
「確か歯医者に行ったとき、歯が普通より二本少ないって言われた」
「やっぱりね、ありがとう」
なんて事務的な「ありがとう」なんだろう。感情の『か』の字もない。それにやっぱりってどういう意味だ。
「歯が二本少ないこと聞いて意味あるんか?」
「そういう身体の異常を持つ人はマインド確率が高くなるのよ。それに……あなたはあたしと同じオーラを纏っているから訊いたまでよ」
マインド? なんだそれ? それにオーラやら何やら沖田先生と似たようなこと言いやがって、最近流行っているのか? それにいつからお前はスピリチュアルな人になったんだよ。
彼女はそれだけ言い残すと、最小限の足音と最高速の徒歩で僕の前から颯爽と消えた。一体何が言いたかったんだあの人は?
何だかトイレの前まで来たら、用を足したくなってきた。
用を足しトイレから出ようとした瞬間、ガラスが割れるくらいの声が聞こえた。
「私に触れるなっ!」
手も洗わず思わず声の元へ走る。そうしたのはその声が彼女に似ていたからだろうか。
教室方向の最初の曲がり角を右に行くと、やっぱり彼女はいた。
廊下で天照と茶色に神を染めた不良っぽい男子生徒が睨み合っていた。よく見ると男の頬が赤く腫れている。
一体どうしたんだ?
あの男は一体何したのだろう? 僕がトイレに行っていた短い時間で、人の持つ怒の感情をあれほどまで引き出すのは簡単じゃないはずだ。
男子生徒は情けない声でくだらない青春ドラマのちょい役の如く「覚えてやがれ」と言って去って行った。あんなへぼい奴が不良だったら、不良の価値が下がる、とわけのわからないことを考えながら激昂する天照へ近づいた。
「どうしたんや? そんな怒って、変なことされたんか」
「告白されただけ」
ひどく興奮しているようだ。体が震えている。
「告白されただけであんな声出せへ――」
「あいつが私の肌に触れようとしたから!」
僕が全ての言葉を言い終える前に声をかぶせてきやがった。どれだけ興奮しているんだ。
「まぁ落ち着けよ」
「わ……に、………な」
小声すぎて何を言っているのかわからない。
耳を近づけた瞬間。
「私に近づくなっ」
落雷のように響き渡る天照の声。鼓膜は破れる一歩手前で耐えてくれた。
結局なんなんだあの女は?
天照は昨日の見惚れるようなフォームではなく、運動が苦手な女子のような走り方でその場を去っていった。それは変な走り方なのに速かった。
これが僕と天照の記念すべき初会話だった。
そして日は変わり金曜日の放課後。
この二日間で変わったことといえば、天照が死んだ黒猫をつついていた公園で、のら猫に餌付けしている。それと那実の帰りがいつも夜だと言うこと。それくらいであとは何も変わりはない。日常なんてそんな物だ。
この世で数少ない変わらなくて良い物。それは日常。それを守ることがどれだけ大変かを僕は知っている。日常に変化なんて不幸なこと以外起こりえない。これからも、永遠に。もし仮に幸福な出来事が起こったとしてもそれは勘違いだ。そんな勘違い、すぐに気付いて余計心に傷を負う。人生とはその繰り返しだと一五年と一〇ヶ月いう短い生涯で気付いてしまった。それだけの不幸を見て生きてしまったのだから仕方の無いことだろう。
僕はそんな人生を共に歩んできた兄に声をかける。
「今日も天照さん黒猫にエサあげてるんかな?」
「さあな。……それよりエサって言い方は良くないやろ」
どうしてダメなのだろう? 動物に与える食事はエサって辞書にも書いているぞ、多分。
「エサっていう響きは奴隷という言葉に似てる気がする」
そうですか、勝手に言っといてください。君の戯言にはうんざりだよ。
「だからヒトも動物やん、なら黒猫にも食事って言うたほうがええやろ」
「もう一回言って」限りなく興味のなさそうな声で僕は言う。
「だから『猫に食事あげてるんかな』が正しいんちゃうかなってことや」
そうやって差別差別言う奴が一番差別している気がするのは気のせいかな。
そんな話しをしているうちに黒猫がいる公園に着いた。
「誰かおるで」
「天照さんと違うの?」
「いや、ちゃんと見えへんけど男三人と女一人、それにうちの制服や」頭にふと、思いがよぎった。
もしかして二日前、天照に告白した不良が「覚えてやがれ」を実践しにきたのかもしれない。
そう思うと駆け出さずにはいられなかった。
どうか勘違いでありますように。
公園の近くまで駆け寄って見てみる。やっぱり天照だ。僕は確実に助けることを手伝ってくれるだろう人間を呼ぶ。
「那実、やっぱり天照さんや!」
反応がないので振り向くが、奴はいない……どこに行った?
寮へと続く道を見ると那実は走ることもなく逃げるでもない、いつもの下校時と変わらない速度で歩いていた。
こいつは何を考えているのだろう? 僕は怒りのオーラを纏い、急いで那実に近づく。
「何考えてるねん? 早せな天照さんボコボコにされるぞ!」
「それよりもやばいコトされるかもな。それには俺も興味あるし影から覗こうかな」
冗談を言っている場合じゃない、なぜこいつがこんなに悠長なのか意味がわからない。
「あの男、前に薙が言うてた天照沙希に振られた不良もどきやろ?」
「そうや、だから助けたらなあかんやろ」こんな話しをしている場合じゃない、一秒を争うんだよ。
「天照沙希が悪いんや。この際、あいつの変な性格を治してもらうべきや。自業自得」
厳しい言い方をすればそうなるけど、向こうの方が酷いだろ、三対一だぞ。
「天照沙希なら大丈夫や、お前が行っても無駄なだけ」
僕はこいつに何を言っても無駄と判断し、公園へ走り出した。
公園に近づくとわずかに声が聞こえてきた。男子生徒が何か言っているけれどよく聞こえないので走りながらも耳を澄ます。
「この前のことを謝れよ。さもないと、この黒猫どうかしてまうぞ」
昨日振られた男子生徒がそう言うと、抱かれた黒猫が無邪気に「みゃー」と小さく鳴いた。
あいつら黒猫を人質にとるなんて。どうしようもない人間だ。一緒の種族だということに悲しさを覚えるよ。
天照も黒猫が気がかりなのか、声を出さずに男子生徒を冷えきった眼で睨んでいる。
すると、また男の表面から悪意がかもし出される声で「上の服脱げよ、ほら、ほら、早くしないとこの猫、踏みつけるぞ」
あいつらはそういうと気色の悪い高笑いを響かせた。マジで最低だ。
でもプライドの高そうな天照のことだから脱がないだろう、と思っていると、肩にかけているカバンを下に置き制服の上着に手をかけた。
僕はさらに加速する。
そんなことをすれば相手の思う壺だ。これでも那実は傍観者でいるつもりなのか? 本気で那実に助けを求めようと後ろを振り返る直前、天照が思いがけない行動を起こした。
反撃開始。
まず足元に置いているカバンを思い切り蹴って、左にいる太めの男子生徒の股間に命中させた。当然そいつはうずくまる。そして手にかけていた制服の上着を脱ぎ、あの日天照に振られて、今は黒猫を抱いている茶髪の生徒の頭に投げつけ、そいつが上着を頭から取ろうとする隙に黒猫を奪った。
まるでアクション映画のようだ。
僕がその光景に眼を奪われていると那実が駆け寄ってきた。今更なんの用だ?
とりあえず僕はキャミソール姿の天照を助けるために近づく。その距離残り一〇m。もう少しだ。
しかし、先ほどかばんを股間にぶつけられた太めの生徒が怒りを前面に押し出し天照に襲い掛かる。すると天照は左右にステップを踏み、構え、黒猫を草むらに放った。……どこかで見たことのある構えだ。その構えはどんな攻撃もかわすような気がするほど隙無しで、何よりも綺麗だった。思った通り天照に襲い掛かった太めの生徒が繰り出した大降りの右ストレートは空を切り、空振るコトで前のめりになった太めの生徒に天照はすごい勢いのアッパーを繰り出した。そしてすぐ隣にいるもう一人のチビな生徒を回し蹴る。その回し蹴りは相手のこめかみを見事にヒットさせ、一撃で気を失わせた。
強すぎる。現実に起こっている出来事とは思いにくい。
しかしそれは実際に起きていて、僕はあまりの華麗さに見とれて足を止めていた。ただキャミソール姿というのが少しおかしかったけど。
最後に残った茶髪の生徒は殴ることをせず、相手の繰り出す蹴りを見事に左へ受け流し、相手の軸足に足払いをした。それは気持ち良いくらいの勢いで決まり「ゴン」という尻と地面がぶつかる音が響いた。
「天照沙希のやつ、パンツじゃなくてスパッツかよ」
何だいきなり? そう思い振り返ると那実が不謹慎なことを呟いた。いいかげんにしろこのアホは。那実を一瞥して、天照のほうを再び見る。
するとまだ茶髪の生徒は転げいているだけだった。まだ止めを刺していないのか? 僕は思わず言葉に出てしまう「マウントとれよ! 早く」
しかし一向に相手を覆いかぶさる様子がない。
それは一瞬のことだった。
足払いを食らった茶髪の生徒は刃物を取り出し、天照の体に衝突した。天照の腹部にはナイフが刺さった。赤い血が噴出する。滴り落ちてなんていなかった。ドラマのように衣服ににじむこともなかった。勢い良く噴き出していた。噴水のように噴出す血液がこれほど綺麗だと思ってもいなかった。
僕はあまりの光景に、限界を超える程の声で叫んだ。口から血が吹き出てもかまわずに。
「おい! 薙、どないしたんっ」
那実のその声で気が付いた。瞬時に問いかける。
「天照はどうなったんや?」
不思議そうな顔で那実が言う
「まだマウントも取らんと相手を睨んでるで、見たらわかるやん」
どうなっている?
正面を向くと確かに天照が二日前に交際を断り、黒猫を人質に取った生徒を睨んでいた。すると、さっきの走馬灯に似たものが思い出される。
もう声に出さないでいられなかった。というより勝手に出た。
「天照! そいつナイフ持ってるで」
僕が精一杯の声で叫ぶと茶髪の生徒は立ち上がり、一度こちらを見て、仕方ないなという手つきでナイフを制服の内ポケットから取り出した。
その瞬間が命取りだった。
天照は相手がナイフを取ろうとした手を持ち、それはそれは綺麗な曲線を描く一本背負いを繰り出し、止めを刺した。投げ終わった直後、天照は携帯を取り出し「すみません、洛南公園まで来て下さい。襲われました」
その落ち着きようは襲われた奴の言うセリフではなく、いたずら電話に間違われても仕方がないほど感情の変化はなかった。
「天照沙希はボクシングと柔道を習ってたんや」まるで自分のことのように誇らしげに言う那実を見つめた。
なんでこいつがそんなこと知っているのだろう?
「人のことをどうのこうの勝手に言わないでくれる?」
天照は電話を切るとすぐに那実を睨みつけた。
「一本!」
「もういいわ」
那実の言葉を一蹴する。それはさっきの回し蹴りより美しい。
先ほどのアクション作品を見て、僕はひとつだけ気になることがあった。
「どうしてマウントを取らなかったんだ?」そうすれば一瞬で勝負は決まっていたのに。
「地に背をつけている相手への攻撃は好まないわ」
そう言って地面に落ちている上着を二〜三回手ではたいて、また着た。
「好みの問題じゃないだろう」
「これは正当防衛で、悪く言えば喧嘩や。そんなもんにルールあるなんて聞いたことない」
「確かに言う通りよ。でもそう言っている人は皆弱いわ」
彼女にそう言われるとそうかも知れないという妙な説得力があるのは、さっきのボクシング兼柔道の試合というか、一方的な展開の喧嘩を見たせいだろうか。それとも天照から感じ取れる高貴な雰囲気からだろうか。……この際どちらでもかまわない。
「もうすぐ警察が来るわ。あなた達、巻き込まれたくなかったら早く帰った方が良いわよ」
天照はそう言いながら草むらに投げた黒猫を拾い上げた。
最後に何故、主犯格と思われる告白をした不良に手を挙げなかったのか聞こうと思ったけれど、色々事情があるのだろうと思いやめるこにした。訊いたって特なんてないしな。
僕達は面倒事が嫌いなので、さっさと立ち去ろうと背を向けると、天照が忘れ物を拾うような声で、
「なぜあいつがナイフを持っていることがわかったの?」と訊いてきた。
そんなこと僕も疑問だよ、本当のこと言っても信じてもらえないし。とっさ過ぎていいわけが思いつかない。
五秒くらい間を開けて、「感だよ」と言うのが限界だった。
すると天照がほんの少し微笑み、
「そう、……そうしたら月曜日の放課後、職員室の隣の教室で待ってるわ」
特に断る理由もないし彼女の初めて見せる笑顔に思わず、イエスを出してしまった。
僕らは天照を公園に残し寮に足を進めた。
「だから大丈夫って言ったやろ?」那実の顔は少しこわばって見える、気のせいか?
「ホンマに強すぎやろ? あんなテレビみたいなん初めて見たわ」
僕は少し興奮をしていた。そりゃあんなアクション映画もどきを目の前で見れば誰だって昂ぶるだろう。
「にしてもなんで、那実が何で天照が喧嘩強いって知ってるんや?」
一瞬考えたような顔をした気がしたけれど「俺を誰やと思ってるんや? クラスの情報通やぞ」と妙に自信がある声で言った。
本当にこいつはまたつまらない事を言って。しかしその言葉は同時に安心感を与えた。やっぱりいつも通りの那実だよな、京都に来てから帰りが遅いことと天照と公園で会ってから少し変だと思ったけれど気のせいか。
思い出したように後ろを振り向くと、天照が腰を曲げ深くお辞儀をしていた。
「あれもあいつの武道のひとつか?」僕は微笑しながら那実に訊ねる。
「そうかもな」
いつもの自信に満ちた声が夕暮れの町並みに響いた。
通常の登校時よりも少しテンションが高めなのは、那実が寝坊して一人での登校を楽しめるからではなくて、先週の金曜日天照から放課後の約束をされたからだろう。今でもはっきりと思い出せる。約束を承諾したときのあの微笑。よほど僕と話がしたかったのだろう。
彼女はクラスで、学年でも人気があって、休憩時間はいつも友人が取り囲んでいる状態だから、このことを伝える隙がなかったのだろう。ちなみに学校にいるときの天照はものすごく愛想がよく、僕の前で見せた無愛想な雰囲気は一切消し去っている。
どうして呼び出されたのだろう? もしかして助けてくれたお礼に放課後遊びに行きませんか? とか言われたりして。
あんな綺麗な女の子に好かれるなんて僕にとっては奇跡的だよ。僕はある程度天照に好かれているだろう、那実と僕との態度の違いを見れば一目瞭然だ。
それにしても那実は何でアレほどまで嫌われているのだろう?
まぁあいつの理屈っぽいところは妙に鼻につくし、脳につく。僕も好きじゃない。
この調子で告白されたらどうしよう……。
返事は間違いなくノーだ。
別に彼女のことを嫌いではない。華麗だし、綺麗だし、変態だし。猫の死体で遊ぶアブノーマルな所も僕にとっては好印象だ。そんな彼女の告白をなぜ断るかというと、
僕には好きな人がいる。
少々妄想が過ぎたけれど、そう強く胸に刻み、一〇メートル先の花屋を見つめた。いや、花屋ではなく手伝いをしている少女を。
見た感じ中学生の彼女は、朝から汗をかき店内と店の前を行き来している。ずっと見すぎたのか、目が合ってしまった。
そんな僕に彼女は営業スマイルという言葉を知らないような微笑みを繰り出し、思わず微笑み返す。きっと気持ちの悪い顔になっていただろうな、彼女の心を暖めるような笑みとは違って。
彼女はすぐに作業に戻り、忙しなく店内にある花達を店の前に並べている。開店準備を手伝っているのだろう。朝もゆっくり寝ることも出来ず、家の手伝い。僕には出来そうにない。それに清純度マックスな仕事っぷり。
それにしてもまさか僕がまた人を好きになる日が来るなんて思ってもなかった。あいつにどこか似ているのかな?
いつか話す機会があれば……なんて淡い期待だよな。
教室に着き、いつものようにカバンから教科書を取り出し机の中に押し込もうとしていると、取り出した教科書から一枚の便せんが零れ落ちた。
一度床に落ちたそれを僕は慌てて広いポケットに突っ込み、トイレへ駆け込んだ。
おいおい、もしかして入学して一週間目で告白されるとは思ってもいなかったよ。そう喜べたのは一瞬で、手紙の送り主は那実だった。そして生意気な文面が綴られていた。
『こうでもせな、お前が気付かんと思ったからラブレター風味にしてみた。忠告。天照沙希には近づくな。命の保証は無い、冗談なしで。だから手紙や。間違っても月曜日会いに行くような真似はすんなよ』
何だこの脅迫状は? そこまで書くなら物騒だから会いに行かないけれど、僕が何か余計なことをしただろうか、日常からはみ出す何かを。はっきりいって普通に生きていれば『命の保証はない』なんて真面目に言われることなんてないはずだ。高校生の分際で。
僕は手紙を細かく千切ってトイレに流した。不気味だった、ただそれだけだ。きっと。