第一章 始まる以前
僕、伊佐薙は今日から高校生になる。
その高校は家からは微妙に遠いので、寮生活を送ることになり、おかげで住み慣れた町と仲間から離れなければならない。本当なら入学式(つまり今日)一週間前から寮生活を始めるはずだったのだけれど、同じ高校に通うことになった双子の片割れが、ギリギリまで家にいたいと言うものだから泣く泣く入学式当日に家を出ることになった。
そして友人や家族、そして生まれ育った町に別れを告げ、荷物は引っ越し屋に任せ、電車に乗り、私立京都東寺高等学校に向かっている。
その学校は有名進学校で、普通に考えれば僕たちが受験するようなところではなかった。
中学三年の例年より少し寒い一月のある日、学校の先生から封筒を渡された。
送り主は『私立京都東寺高等学校』と書かれていて、文章の内容はこんな感じだった。
「あなたを我が校の『特別能力開発科』へ推薦したいと考えています。進学校を決定していないのであればこちらにご連絡ください」とのこと。
いきなりのことだったので、わけがわからず、双子の兄である那実に相談することにした。名前は女っぽいけど、どこから見ても男である。外見内面どちらから見ても。
双子の弟の僕が言うのだから間違いない。
「那実、ちょっと相談があるんやけど」僕が訊くと、いつもより少し速く反応して「俺もや、ちょっと聞いてくれへん?」と神妙な面持ちで訊いてきた。
那実から相談とは珍しいことだ、いったいどういう相談?
「恋愛方面は勘弁やで」
「薙に恋愛相談しても無駄やろ」悔しいけどその通り。
「もっと別なことや……進路のこと」もしかして、那実にも同じ封筒が届いたのか?
「東寺高校から封筒がきたんやけど」やっぱり。
どういう偶然だろう、話にしては出来過ぎているし。
「おかしいな、僕にも届いたで。その封筒」
「そりゃびっくりや。で、どうする?」
「お前はどうするんや?」
「俺は一度高校に連絡するべきやと思うけどな」
まぁ一般論だね
「で、どういうつもりか聞かなあかん」
早速電話するべきだと思い、部屋に子機を取りに行こうと思うと那実がもう通話中だった。相変わらず行動が早い。
「もしもし、京都東寺高校でお間違いないでしょうか? ハイ、特別能力開発科について封筒が届いた伊佐那実といいます。なぜ俺に推薦の封筒を送ってきたのか気になりまして…ハイ、……ハイ。わかりました。そちらから伺っていただけるならうれしいことです。では後日、ハイ、お手数かけました」
那実の中途半端に丁寧な敬語がやっと終わった。いつもと違う話し方に虫唾が走る、半音高い声も。丁寧語は必要でも声は普通でいいだろ。
「今度の土曜日、家まで来てくれるやって」
どういうこと?
「俺が、詳しいことを聞かせてくれ言うたら、電話ではなんなのでこちらから伺わせてもらいますやて。親にも話があるようやし、それが手っ取り早いと思って。これでええやろ?」
確かに来てくれるなら、それにこしたことはないけど。
「母に言わなあかんのちゃう?」
「そうやな。土曜日に推薦校の先生来るから空けとけって、俺が言うといたるわ」
そう言うと、封筒を持ってうれしそうに駆け出し、母のいるキッチンへと向かった。
何故あんなにも楽天的なのだろう? 裏があるようにしか僕には思えなかった。
『私立京都東寺高等学校』通称『東寺高校』は京都、いや関西でも指折りの進学校で、毎年日本屈指の国立大学である京大や阪大など偏差値の高い大学にたくさんの生徒を輩出するような高校である。そのような高校に何故、僕のような特別勉強が出来るでもない、運動で目立った活躍もない、芸術の才能に秀でたわけではない。そんな平凡以下な生徒に対しどうして推薦が来たのだろう。
特別なことは、人とは少し違う境遇で育ってきた。それと一五年の生涯に似合わない悲しい出来事が多いということだけだ。
しばらくして母が慌しくノックし、返事をする間も無くドアを開けた。
「あんた東寺高校から推薦って凄いやないの! 今日はご馳走や」そう言うとすぐドアを閉め、一目散で買い物へ出かけていった。
母も浮かれ気味のようだ。那実も受験勉強をしないで高校にいけるので、上機嫌である。僕はというと少々不安だ。上手い話には裏がある。回転寿司にしても安さの理由は奇形魚やその類であり、安い野菜のほとんどが農薬漬けだ。でも高校に関してはそう言うことはないと思うけれど……。
その夜、そんな不安を抱えながらも久々のご馳走に舌と腹を満たした。
そして土曜日。
僕の心理状態というと、初めは不安だったけど根は楽天的なのだろう。すぐに良い方向へ心を転換させていた。おめでたい深層心理だこと。
推薦校の先生は太陽が空の天辺で止まったような午後に訪れた。「ピンポーン」というふざけた呼び出し音と共に。
母は丁寧にドアを開け、深くお辞儀をしてリビングへ案内した。
東寺高校の先生と思われるその女性は、おしとやかな顔つきと長身でスラッとしたモデル体形で、黒いストライプのスーツがよく似合っていた。先生にしておくにはもったいないほど綺麗な人。少し茶色いセミロングの髪型がまた似合っている。
僕たち兄弟も話しを聞こうと思い一緒にリビングへ向かったが、その綺麗な先生に「先にお母さんと話をするので、君たちは部屋に戻ってくれるとうれしいな」とまるで幼児を扱うかのような口調で、(今思うと腹が立つけど)そのときはこれ以上に丁寧な言葉で、それでいて優しい発音はあるのだろうか、と感じてしまい、考えることもせず僕らは部屋に戻った。
それから二〇分が過ぎ、ようやくお母さんがリビングの扉を開ける音がかすかに聞こえた。
「お母さん買い物行ってくるから、その間に先生の話を聞いときなさい」
母は鼻歌が聞こえてきそうな歩調で買い物に出かけていった。どれほどの好条件だったのだろう? 忘れていたはずの不安がよぎる。
推薦校の先生を那実の部屋に招くと、間を置かず待ってましたと言わんばかりに那実が口を開いた。
「いきなりやけど、何でそんな進学校が俺らを推薦してまで欲しがるのか理由を知りたい」
「推薦する理由?」
初めて聞いた優しい声質とは違った。
何が変わったといわれても言いにくいけど、声に深みが増したと言えばいいのだろうか。
「もちろん、嘘はナシや。まぁ時と場合によるけど、今は真実を語るときや」
威勢良く胸を張りながら言う那実は、まるで演劇会のバカな王様役みたいだ。
「では、話すとしますか」
深く息を吸い、吐いた後、ドラマの長ゼリフような説明をしてくれた。
「この間、学校で知能指数測定をしたわよね。学校からの通知では那実さんの知能指数は一一〇で薙さんは一〇三でしたよね。しかし本当のところ、二人共一七〇を超える天才なワケ」
どういうこと? 僕らは凡人じゃなくて、天才ということか?
「あなた達に受験してもらおうと思う『特別能力開発学科』では、そういう『超』の付く天才を集めているの。実際は知能指数が一七〇以上の人間なんてほんの一握りだからね。あたし達の学校はそういう生徒を集めて、特別な学科を作るように国からの指示を受けて『特別能力開発学科』を作ったの。基本的にどんなことをするか簡単に言うと『アイデアマン』を作る学科ね」
「アイデアマン?」
一五才にもなって『いないいないばぁ』をされたような顔をして那実は言った。
そんな那実を見て先生は少し微笑むが、かまわず話しを続ける。
「いつだってそう。歴史は一人の天才によって動かされてきたわ。簡単に言えば特別で天才的なアイデアや発明が時代には必要だったの。そういうのは結局みんなの力ではなくて一人のひらめきでしょ? それを学ぶ学科なの」
確かにそう言われると、その通りだ。
もしエジソンがいなければここまで便利な生活は出来ただろうか? 坂本龍馬がいなければ今の日本はなかったかもしれない。
「現在の日本では、偉人と呼べる人間はほぼ皆無で本当にバカな人間が増えてきてしまったわ。そのことに国が危機感を覚えて、我が校にその学科を作ることにしたの」
那実が戸惑いを含んだ表情で、
「なんで知能指数が高いことを隠したんですか? 別に本当のことを教えてくれればよかったじゃないですか」と訊ねた。
確かにその通りだ、なぜ嘘の結果発表をしたのだろう。
「そんなすごい人が見つかると結構問題になるの、週刊誌に載ったりテレビに映ったりするかもね。そういう危険性を考えて、あえて嘘を表記したのよ」
そんなに高い知能指数を僕達は持っているのか?
「今のところ、この封筒を送ったのは一七人よ。ちなみに毎年二〇人ほど入学者はいるわね。今年は少し不足みたい。」
一七人しかいないなんて本当に少ないな。と僕が感傷に浸っていると那実が入学を決めたような顔で質問をした。
「寮とかあるの? 学費とかも免除なんかな? ほら、推薦やろ」
えらく現実的な質問だな……。けれど確かに一番重要なところだ。僕らの住む町から東寺高校は電車で約二時間かかるので通学には少し不便だ。
すると、待っていましたと言わんばかりのセールストークにも似た口調で先生は話し始めた。
「もちろん学費も免除よ、ちなみにこの学科は寮制だからね。でもお金の心配は無用! 国民の血税から頂いてるから、君達がお金の心配をするのはお小遣いだけよ」
そりゃお母さんも浮かれるわけだ。二人同時の入学は経済的にかなり負担だし、うるさい息子二人が出て行くし最高じゃないか。おまけに超一流進学校。
おまけとしてはでかすぎるけどね。
一通り話を終えると母が帰ってきた。
「じゃあ、私はこれで失礼します。あなた達が我が校の門をくぐることを望んでいるわ。それじゃあまたね」そう言うと立ち上がってから一礼して部屋を出て行った。
「またね」の言い方がまた幼児のように扱われている感じがしたが、なぜか心が和らいだ。
玄関で母とすれ違い様、少し会話をして「おじゃましました」と深くお辞儀をして京都東寺高校の先生は帰っていった。
そういえば名前も聞いてなかったなぁ。と思うと机の上に上品な名刺が置かれていた。どうやら和紙で作られているようだ。さすが京都。
『京都東寺高等学校 特別能力開発科 沖田薫』
その沖田先生が帰るとき、母とすれ違いに何を話したのか気になったので母に訊くと、
「せっかくだから、晩御飯を食べて帰りなさいって言ったのよ。まだ仕事があるのでって断られちゃった」
そりゃ断るだろ。初対面でしかも仕事先で飯をご馳走になれるわけがない。そう母に文句を言いながら僕の脳内は東寺高校でいっぱいだった。
それから一ヶ月経ち、入学の手続きをしに行った二月のこと。卒業間際でハッキリいって心も気温も寒いとしかいいようがない季節だ。
何だかんだ言って、僕も受験勉強をしなくて良いという楽な道を選んだのだった。
クラスにいて思ったけれど、あのピリピリした張り詰めた空気はなんとも言えないものだ。そうなってしまうのなら少々危うい気もするけども超有名校に推薦入学した方がマシだと考えた。
言い訳だけど。
駅から徒歩一〇分。私立京都東寺高校は名の通り、世界遺産の東寺の敷地内にあった。
これだと学校から東寺が丸見えなので寺マニアにはたまらない学校だろうな。僕はそうじゃないけど。
東寺高校の校舎はその辺りのコンクリートで塗り固められた学校とは違って、周りの景色に溶け込むためか、和風で屋根は寺の屋根ような形をして壁も茶色や緑が多かった。制服も少し変わっているのかと思ったけれど残念。普通の学ランとセーラー服だった。
初めて行く学校なので迷ってしまうかもしれないと不安だったけれど、正門を抜けてすぐに面接をする教室の案内図が貼ってあったので簡単に行くことが出来た。
面接をする教室の前には数人の生徒が座っていた。面接と言っても、もう入学は決まっているのでただの顔合わせと言うことだろう。
待ち時間が退屈なので、僕は先日送られてきた今日の予定を記されたプリントを読むことにした。
『午前九時三〇分面接開始、それを終えると健康診断を行い午後からは保護者説明会を行う』
学力テストもなしか……。本当に知能指数が高いだけで合格なんだ。でも健康診断はするのか。まぁそういうことをしないと保護者とかうるさいだろうな。
五分ほど経つと名前を呼ばれ、僕は教室に入った。
面接はなんてことはなく中学の思い出や、この学校の印象を聞かれただけだった。面接の先生もフランクな方で話しやすく、沖田先生の姿もその中に見えたがあまり話しをする機会はなかった。
そして健康診断へ那実と共に向かった。そこで身長、座高、体重、内科検診、心電図、脈拍、採血、最後に最近この近所で流行っているらしいインフルエンザのワクチンを打ってもらい、健康診断を終えた。
午後から行われた保護者説明会の内容は、先月沖田先生が話してくれた内容に、この学校の校風などの説明を付け足したものだった。真剣に聞くつもりだったけど、ここ最近で最も強い眠気に襲われてつい眠ってしまった。
目覚めた頃にはもう終わりかけで、お母さんに「兄弟そろって寝てるんちゃうわ」と吐き捨てられた。那実も寝ていたのか。そりゃ一緒の話を二回も聞くと眠たくなるよな、そこまで興味もないし。
四月まで用がなくなった我が母校となる東寺高校を一瞥して、こんな綺麗な校舎のある高校に通えるなんて幸せだな、と幸福感に満たされていると、どこかで見たような気がするやせ気味でちょい幸薄そうな顔をした中年男性が前から歩いてきた。
やけに目に付く人と思うのは当たり前で、この中年男性は今日の面接を担当した先生だ。あまり存在感がなかったのでしっかり覚えてないけど名前は本居だったかな?
「さようなら」と挨拶をしようとする刹那、その声はまるで底のない沼のように暗く、僕達兄弟にとって最も聞きたくない日常会話で使用する頻度〇に等しいその言葉は、僕の心臓を打つ脈よりも確実に鼓膜を響かせた。
「腹違いの双子」
眠い……。
すっかり寝息をたててしまった保護者説明会のせいで頭がボーっとする。
そんな眠気眼の脳みそにもこの状況は理解できた。というより肌で感じたと言った方が良いだろう。その空気の違いに。
いつも温厚な薙が凄い形相で睨みつけている。
その辺にいる不良のメンチが微笑みに思えるほどだった。誰を相手にそんな目つきで見ているんだ?
どうやら相手は今日、面接官をした先生だ。おかんがいる前で騒動はあかんやろ。というか何でそんな怒っているかわからない。こいつ尋常じゃない顔してるぞ。
「やめろ」と声をかけようとすると、かすかに薙の声がした。
「誰に聞いた」
何を?
「何でそんなことをお前が知ってる」
だから何を。
意味不明な問いを受ける先生を見ると、不敵な笑顔。その瞬間、一気に目が覚めた、というより脳みそが目覚めた。
もしかして、あのことを言われたのか? 先生の顔はそのことを物語っているかのようだった。
薙が先生の腕を握ろうとした瞬間思わず声が出た。
「おい!薙、どうした」
その声に我を取り戻したように、薙は自分の手を制服のポケットに入れた。よく見ると体が震えている。
「先生、俺ら兄弟に何の用や」
このおっさんが何を言ったか多少の予測は出来るけど、何故このタイミングで言ったのだろう、そして何故この事実を知っている。
考えすぎた脳みそはバグを起こしたのか、普段瞳に映らないような美人を映した。
あっ、沖田先生か。
「すみません伊佐君。本居先生! なんで言ったんですか! 取り返しのつかないことを……」すごい勢いで走ってきて、すごい勢いでキレる沖田先生に圧倒された。
当事者のおっさんはまだへらへらしてやがる。……待てよ、このことを何故沖田先生が知っているだろう。
「沖田先生は何故このことを知ってるんですか?」
と質問をすると同時に先を歩いていたはずのおかんがこっちへ歩いてきた。いつまでたっても進もうとしない双子に注意と先生にあいさつを、ってところか。
「はよせなバス行ってまうやないの。先生これからお世話になります。ほら行くで」
先生に軽くお辞儀をしながらおかんは、俺ら二人の手を引いた。
この歳になって手を引っ張られると思ってもなかった。
俺はさっきのことが気になり、耳元で薙に問いかける。
「偽者って言われたんか」
「よう似たことや……。腹違いやて」
もう二度と言いたくないという言い方と、これ以上ない無表情を見てこの話はしないことにした。
後ろを振り返ると沖田先生が、一〇〇人中九〇人がわかるようなジェスチャーで「ごめんね」と「電話します」をしていた。にしてもその姿が可愛い。
俺が手を振ると、優しく手を振ってにっこり笑ってくれた。惚れても良いですか?
その日の夜、留守電に沖田先生からメッセージが入っていた。
『明日の五時、駅前の喫茶店で待ってます』と。
留守電のことを那実から聞き、朝から少し憂鬱な気分になった。
こういう日に限って雨が降る。
雨は嫌いだ。気持ちがどうしようもなく暗くなってしまう、それに僕の癖毛が余計激しくなる。
気分の盛り上がらない学校は、時の流れを遅くする効果があるらしく登校三日分の疲労感が降りかかった。その上、あの怪しげな学校の先生と会わなければいけないとは、正直しんどい。やっと学校から解放されたというのにまだ心が重い。
昨日、あんなことがあるのなら、あの道は通らなかったし、面接にも行かなかった。
未来はいつも僕の期待を裏切る。
早くタイムマシンが出来れば良いのに。それはどんな想いよりも切実だ、好きな人に好きと言えないもどかしさに似ているかもしれない。
「タイムマシンなんか完成したら、世界は終わるで」
そんなことないだろう、未来がわかればどんな災いも未然に防ぐことが出来る。これほど素晴しいことはない。
子供を見るような目で那実は言う。
「そんなん作ったら、みんな自殺するわ」
人を救うのに自殺するなんてわけがわかんない。お前は一体どういう思考をしているのだろう?
そんなことはいいとして遅い。待ち合わせをした当事者が遅れるとはどういうことだろう学校が終わってすぐ向かったから待ち合わせ時間より三〇分ほど前に着いて、こうやってしょうもない話しをして暇をつぶしているが、時計を見るといつの間にか約束の五時を回っていた。あの先生はまだ綺麗だから良いものの、もしスレンダーでなく顔も整っていなかったら説教してさっさと帰ってやるのに。
「そんな奴やったら約束なんか無視や」と那実が鼻で笑った。
それから三〇分が経過し、猫舌な僕だけどコーヒーを一杯飲み終えた。那実は三杯目を注文しようとしている。少し飲みすぎじゃないか?
すると「ガシャーン」というドアを開ける音とも破壊音とも取れる音と共に、髪と足元がかなりの湿度を誇る美女が現れた。誰か言わなくてもわかるだろう。
「ごめんなさい、遅れたよ」
そんなこと言われなくても時計を見ればわかる。一応礼儀として遅れた理由を聞いておこう、肩で息をしているからには、相当急いできたのだろう。責める気はないですよ。
「学校でトラブルが起こっちゃって、でも急げば時間には間に合いそうだったから連絡しなかったの、でも駅まで着いたら道に迷っちゃって」いやいや、道に迷うってここ駅前だから迷う意味がわからないし。それにここへ来いって言ったのは沖田先生だろ?
「わたしちょっと方向音痴で、一度来ただけじゃ道を覚えられないの」
道を覚えるとか方向音痴とかそういう問題じゃないだろう。この人とまともに話は出来ないな。さっさと事を済ますとするか。
「昨日のことなんですけど、あれ……先生が僕達に対して知っていること、全て言ってもらえますか?」
「でも、ここは人が多いし」
確かに人が多い、ここの喫茶店はコーヒーが美味くて有名だから、いつも結構込んでいる。その上、今日は雨が降っているので家からの迎えを待つサラリーマンや高校生で賑わっていた。
戸惑う沖田先生に那実が「いけますよ、こんなに人がいて騒がしかったら俺らの声なんて聞こえてませんし」と言ってコーヒーをすすった。
「そうですか……では、あの、話しますね」
そう言っておどおどする沖田先生は小動物みたいで可愛らしい。
「あの……、あなた達二人は、本当は双子じゃないってこと。お母さんが違うのよね。那実さんのお母さんは今一緒に住んでいる人で、薙くんのお母さんは薙くんを産んだ後すぐ亡くなって」
そして大きく息を吸って唱えてはならない呪文のように、僕達に聞こえるギリギリの声量で話しを続ける。
「たまたま同じ日に生まれて顔も似ていることで、親戚が双子だって勘違いしたのが始まって双子として生活している。わたしが知っているのはここまで。……合ってるかな?」
ビンゴ。意外とよく知っているので正直驚いた。でも、僕らが産まれた頃のことしか知らないのか。
「他に聞きたいことありませんか?」なぜか半泣きの沖田先生が訊ねる。
何で泣きそうなんだ? 僕達の話ってそんな可愛そうだろうか? というかここで泣かれるのはまずいのだけど。
ファッション雑誌から出てきたような美人が双子の中学生に泣かされている図を想像する。
思った以上にやばい。
そうやって無駄なことを考えているうちに那実が結論を出した。
「ありがとうございます。これでスッキリしました」
それは誰が聞いてもスッキリといえる声質だった。那実はこのとき炭酸飲料を越えたね。
「よかった……」そう呟くとカウンターに千円札を置いて、慌しく帰る用意を始めた。
もう帰るのか? 来てから一〇分も経ってないよ。
「ごめんね、学校にまだ仕事残してるの。ここはわたしのおごりにするから、今日のお礼と謝罪も込めて」
そして口元に人差し指を伸ばした仕草で、「それから今日のことは絶対秘密。お願い」
おそらく、その仕草と話し方で秘密をバラす男性は世の中にいないな。それくらい素敵だった。
そうやって一度店を出た沖田先生がすぐ戻ってきて、出入り口付近から思い出したといわんばかりの大声でひとこと言って帰っていった。もう一度戻ってくるかと期待はしたがどうやら外れのようだ。
僕達は沖田先生が帰ってからもしばらく話しを続けた。
内容はもっぱら沖田薫が見せた可愛らしい仕草についてだ。でも気になるところがある。先生が最後の最後に慌てて叫んだひとこと、先生からすれば結構重要だと取れる言葉だと思う。那実に聞いても意味がわからないらしい。
「ヤギにはならないでね」
喫茶店の帰り道、まだ雨は続いていた。
空は日中よりさらに暗くなり気温も下がり雨が肌に当たり、いつもより寒く感じる。風に肌を引っ掛けられながら、歯を「ガタガタ」幼児のように震わせながら自宅へ向かう。
沖田先生に過去の話しをしたせいで、脳内を巡るのはあの日の事ばかり……。嫌な日には、嫌な思い出が泡のように溢れ出す僕の性格を恨んでみる。
恨んだって何も変わらない、僕の性格も、今日のことも、そして過去のことも。
僕の唯一の肉親である父が亡くなったのは今から六年前。
父は家に帰ることがめったになく、一年に一度帰ってくれば良い方だった。そんな状態が幼い頃からずっとなので僕達は顔も覚えていなかった。そういう父が、家にいることの方がよほど不思議で、特別番組のような頻度の一家団欒も家族が揃ったというのに居心地はよくなかった。
彼はもう父とは呼べない存在だったのかもしれない。家族とも。
帰ってこない理由を幼い頃の僕は母に問いかけたことがあった。さすがに年数回しか帰ってこない父親は不自然だから。
理由は仕事が忙しいから、それだけしか言わなかった。
母はその話しをすると、どこか寂しげにうつむき微笑んだ。
僕は本当に仕事なのか疑っていた。でもそれ以上は聞けない。母を悲しませることは牢獄に入れられるよりも重罪に感じていた。簡単に言えば死刑だ。
父が帰ってこない理由が『単身赴任』に切り替わった秋の日の早朝。いきなりお母さんに起こされ、向かった先は葬祭会館だった。
どうやら父が仕事の最中に事故で亡くなったらしい。
僕達家族は特に悲しい表情をせず、それこそ無表情で、周りから見ると悲しさのあまり表情を失っているととれるくらいだった。
父は初めからいるかいないかわからない存在だし、話した記憶もない人が亡くなった事にたいして涙など流せるわけがなかった。飼っている金魚が死んだ方がよっぽど悲しいよ。
それから四年後母は再婚した。
父が亡くなってから三年間は何の音沙汰もなかったけど、その後は何か吹っ切れたように母は恋に没頭した。その相手は僕の現在の父親であり、心から『父』と呼べる存在になった。
どうやらお母さんは狙った獲物は逃さないようで、仕事も出来て容姿端麗で家族思いの男性を手に入れた。そのときの母の喜びようは異常で、砂漠に咲いたひまわりのような表情をしていた。余程うれしかったのだろう。まぁ前に愛した人がどうしようもない人で、さらに先立たれたのなら気持ちもわからないでもない。それに母は僕達の妹を身ごもっていた。
僕の苗字が『伊佐』となってから、半年が過ぎた頃。本当の悲しみを知る日が訪れた。
名字が新しくなってからの家族は本当に幸せな一般家庭で、毎晩一家団欒の夕食をとり、新しい父は週末に遊園地やら水族館に連れて行ってくれ、家族サービスも欠かさなかった。
僕達にとって初めての喜びであり、この頃に兄弟の絆は深まったのだろう。
でも、長くは続かなかった。
妹は生まれてこなかった。
母は流産し、これからの人生子供を産めない体になってしまった。
女性にとっての存在意義を剥奪されたお母さんは目が死んでいた。
よく学校の先生が「お前達の目は死んでいる」とか言うけど、あんなのまだ輝いているよ。そんなこと言う教師は本当に目が死んでいる人を見た事ないだなって嘆きたくなる。
まあ、あんな顔見ないほうが人生楽しく暮らせるだろうけど。でもどれだけの悲しみが降り積もるのだろう、僕には想像が出来ない。本当に愛した男性との間に生命を宿せなかったことを。ごめんなさい、理解のない息子で。
父さんも悲しそうだったけど、その感情を隠すために、いつもの一〇倍の暖かさで母に接した。
母が退院する目途が立った日の事。僕達は母に呼び出され、双子ではなく腹違いで、僕は母と血が繋がっていないことを知らされた。
僕はその日まで気付かなかった、この人が僕と血の繋がりがないということに。
そのことを告げた後、母はまるで人を七人殺した罪を償うくらいの涙を流しながら言った。
「わたしはずっと薙を恨んできた、前の父さんとの浮気相手の子供やし、それを黙って育ててる自分自身にも。でもあの子、あなた達の妹、私達の娘が亡くなって教えられたわ。……ごめんなさい。これからはちゃんと那実と同じように、それ以上に愛するから許して」
母は僕を抱きしめ、声を上げて涙を流した。
その泣き声は波音のように僕の心に響き、ふって出た僕の悲しみを包み込み流してくれた。
心の中で、僕は言わなければわからなかったのに、と考えていた。それほどお母さんは僕に対しても完璧なる愛情を注いでいたのだろう。
もしかすると僕があまりに嫌な思い出だったから忘れ去ったのかもしれないけど。
僕達家族はその後も幸せな家族を築いた、でも何か失った感は否めない。木の枝が折れたほどの違和感だけど、それはもしかすると家族には大事なことなのかも知れない。
そんな日の事を僕は思い出しながら玄関のドアを開ける。
あと何度、この言葉をお母さんに言えるだろう。
「ただいま」
俺と薙は今日、この住み慣れたと言っていいのかな、まあ十数年も暮らしてきた街と、共に過ごした仲間に別れを告げた。少し心残りもある。
でも京都なんてそれほど遠くないし、会おうと思えばいつでも会える距離なので、悲しみに埋もれる程ではなかった。
まだ別れて三〇分も経っていないのにまた思い出してきた。
寂しさや悲しみというものは、夕立のように現れるけど、夕立のように素早く去ってはくれない。本当に面倒だ。
出発を遅らせた原因の大半を占める彼女との出会いは中学一年の頃。
同じクラスとなった香美は、隣の小学校だったので、見たこともなかったし聞いたこともなかった。けれど、なかなか、可愛い顔をしていたので入学式早々俺達の間で話題になったりもした。でも俺は香美の顔がそれほどタイプではなかったので周りの男子のように一目惚れはしなかった。
しかし運命とは皮肉なもので、神様は香美の席の隣をその男子達には与えず俺に与えた。
せっかくの機会だから話をしてみると、顔に似合わずズバッとものを言う奴で、そこがおもしろく、授業中や休み時間によくじゃれあったりした。
昼ごはんも一緒に食べることがあった。さすがに二人で食べるのは恥ずかしいし、周りから勘違いされても困るので、他の友人と交えて食べた。
この頃は香美に対して、おもしろい奴。以外の感情はなかった。
それから一年と二ヶ月が経った初夏のこと。香美は家庭科の授業で作った蒸しパンを俺にくれた。
「これ食べてよ。余分になったから」
俺はその蒸しパンを口に入れる前に友人を呼んで、みんなで食べた。理由は簡単、おいしそうだからみんなで分けた方が楽しいし香美もその方が喜ぶと思ったから。
でも実際は違った。みんなで分け合い「うまいなぁ」なんて言っている俺達を見て、香美は少しうつむきながら悲しそうな目をして微笑んだ。その瞬間フラッシュバックというのかな、あの日の事が浮かんだ。
小さい頃、父さんが帰ってこない理由を聞いたときのおかんの顔に。
今、思えばなんて俺は鈍感だったのだろうと思う。おかげでその日から香美は俺に対して口を開くことがなくなった。その頃、香美と席が前後ということで、その気まずさは限度を超えていた。いつも早く夏休み来ないかと願っていた。
けれど全然来なかった。夏休みまで残すところあと三日というのに、時間が全く進まない。香美と仲が良かったときは、それこそあっという間で、一日が三時間ほどしかないと感じられるほどだったのに……。
そんなことを考えている間に夏休みは訪れ、あっという間に終わり、二学期が始まった。
新学期の席替えで俺は香美の席から離れることになった。神よ仏よ心からありがとう、毎日仏壇に祈ったかいがあったよ。
そして十月を過ぎた辺りのこと、ついに俺は悲しみに埋もれた。
妹が生まれてこなかったのだ。
学校を三日休んだって、何の気休めにもならなかった。
黒い幕を覆った俺に、久しぶりに会った友人達は優しさのつもりなのか、関わるのが面倒なのかはわからないけれど、近寄ってくる奴はひとりもいなかった。
友人と話すという日課を忘れかけた日の事、机の中に今朝配られた学年通信が折りたたまれて入っていた。何か書いているのかもしれない、そう思い開くと、ただひとこと「体育館裏に来てください」と書かれていた。名前すら書かられていない。
最近、無愛想だったから、仲間にでもリンチにあうのかな、と考えながら校舎裏に足を運んだ。
予想通り薄暗い体育館裏には友人が三人程煙を噴かしながら押せば倒れそうな座り方をして座っていた。掃除の時間だって言うのに人が一人もいないのはこいつらのおかげだろう。
数的不利なので逃げようかと考えたけれど、自分の理不尽な人生にイライラしていたのか、俺はそいつらに喧嘩腰で話しかけた。
「おっ、那実やん。機嫌悪そうやな? どうや、これ吸って気持ちでも落ち着かせろよ」
「ガキのくせに格好付けよって、煙なんか吸って腹いっぱいになるんやったらええけど」
俺がそう言うとタバコを差し出した友人が立ち上がり、鋭く睨みつけた。そんな眼をされても今の俺には何も感じない。
「お前最近感じ悪いで、しまいにやってまうぞ」
「一人やったら何も出来へんくせに。お前らなんか全員足しても一のまんまじゃ」
その言葉がとどめを刺したのか、残りの二人も立ち上がり緩い睨みを利かせてきた。
しょうもない喧嘩売ってしまったな。全面的に俺が悪いので大人しくしておこうという感情も湧かないわけでもないが、今はなぜか強烈な破壊衝動に追われているので、ぶっ倒れるまで殴り続けてやろうと俺も睨み返した。
すると思いもしない声が体育館裏に響いた。
「先生! こっちこっち、タバコ吸ってるで!」
その声に驚いたのか、俺を睨みつけていた三人はその声とは逆方向に慌てて走り去った。
「お前の仕業か、助けたつもりやろうけど余計イライラしただけや」
「また格好付けて。わたしがおれへんかったら今頃顔がパンパンマンやで。あっ、ちなみに先生なんかおれへんよ」
助けてくれたのは香美だった。肩で息をしながら僕を見据えている。さっきの奴らの目よりこいつの目の方が今は恐ろしく感じる。
「ずいぶん長いことやさぐれジャーニーやってるやん」
「すっかり心が悲しみに覆われたんや、それだけのこと」俺は吐き捨てるようにそう言う。
「そうやと思った。だからわたしが呼び出したねん。……何驚いてんの? あいつらが呼び出したと思ったん」
ご名答。というかどこの女子中学生が学級通信の裏に待ち合わせ場所を書く? 普通は花やらキャラクターが描かれた紙に書くだろう? まあいい、早く用だけすまそう。
「こんな薄暗いとこに呼び出して何の用や?」
「相談相手になってもらおうかなって」
こいつが遠慮しながら言葉を吐くなんて珍しいな。
「特別やで。早よ言えや」
香美は大きく深呼吸し、前髪を掻き上げて話しを進めた。
「最近妹さんを亡くした友人がどんどん一人になっていくのですがどうすればいいですか」
こいつは喧嘩売っているのか? まんま俺のこと言っているじゃないか。
「その人は自分でも気付いているので放っておいてくれるのがうれしいようです」俺も負けないように皮肉って言う。
「じゃあ何で周りに冷たくするんですか? さっきの喧嘩やってそうやんか」
本当にむかつく奴だ。そんなことは自分でもわかっている。もう十分質問には答えてやっただろう。
俺は別れを告げようと香美の顔を一瞬だけ見た。ほんの一瞬だ。
その一瞬でもわかるくらい、香美は涙を流していた。
「悩みは人に話すだけで答えはなくても解決するって言葉知らん?」
声は通っているけれど涙と鼻水がどっちなのかわからないくらいぐちゃぐちゃな顔だ。
俺はこうなれば完全に嫌われてやろう思い、からかうつもりでその言葉を口にした。
「この話しを出来るのは俺の彼女になった奴だけや。そんな覚悟あるんか?」
頷いた。
香美は力ずよく首を縦に振った。そして笑った。
そんな今まで生きてきた幸福を、全て集めたような笑顔をされるとこっちも笑うしかないじゃないか。
でも実際の俺は泣いていた。
何で泣いているのだろう? 求めていたのか? 香美の優しさを。
「後悔しても知らんからな」
「何その告白、普通は君を絶対に幸せにする! とかちゃうの? あほ」
「そんなことは今しか見ていない奴が言うことや。それにそんな大嘘つける程の男と違うし」
俺は涙を拭き、手を差し出した。
「顔めっちゃ赤いで」これこそ悪戯な笑みというだろう。
人のことを言えない程顔を真っ赤にした香美は、俺の手を握り返した。握手。
ただ、それだけじゃあれだったので、抱きしめた。香美の思った以上に線の細い体を。
あの頃は、キスとかそういうことを、ちゃんと知らなかったからアレが限界だったのだろう。今思い出しても恥ずかしい。
そして別れの日の前日。いつもは行かないような店で俺達は少し高い夕食をすませた。やっぱり少し高いくらいじゃ味は変わらないな。
しかし香美のやつ。せっかく、最後の晩餐だというのに(別れるつもりは無いけど気分的に)いつも見せる縁日の子供みたいな元気良さは無かった。しょうがない、あのときのお礼に小話でもしてやるか。
「人間て、何から出来たか知ってるか」
少し考えてから、ひらめいたという表情で、「骨と肉と血!」と香美は言った。
そりゃそうやけど、そんな簡単な問題を出すわけないだろ。
「宇宙のチリからできたんや」
明らかに誰が見てもちんぷんかんぷんな顔をしている。というより、この子頭がおかしくなったんじゃないの? 的な顔だ。こいつ殴ってやろうか。
「地球やその他の動植物や空気もチリからできたらしいで、テレビでどっかの教授が言ってた」
だから? 見たいな顔しやがって。本当は全部を言いたくない、恥ずかしいから。でも仕方ないか。こんなときくらい臭いことを言ったって心の中の俺も許してくれるだろう。
大きく息を吸う。
「俺達は、例え血の繋がりがなくったて、存在した時から繋がってるんや。それこそ生まれる以前から、考えられないほど古代から。だから、そんな五〇キロや一〇〇キロ、三年間離れるくらいで暗い顔するな。この空気を俺と思え、隣の人を俺と思え、そこらにある木を俺と思え、なんなら香美のペットも俺と思え。ええな」
香美はやっと笑った。その笑顔は砂漠に咲いたひまわりに似ている。
「意味わからへんけど、まぁなんとなくわかったわ」
なんとなくでいいと思う。
二人が好き合う理由も、生きる意味も、離れる理由も、世の中判りきった事ばかりじゃおもしろくないしな、香美。
そして二〇分程前のことだ。俺と薙は京都駅に向かう電車を待っていた。実際三回ほど乗り継がなきゃいけないけれど。もちろん見送りには香美もいた。ついでに友人も。
昨日あんなことを香美に言っときながら、やっぱり寂しいな。なんか、こう、香美にひとこと言わないと心が落ち着かなくなってきた。
「二番ホームから普通、天王寺行き、天王寺行きが六両で入ります」
別れの時間が近づいてきた。香美にいつも言いたくて言えなかったこと……。
思いついたけれど、こんなことみんながいるところで言うのか? 地元に帰れなくなるかもしれない……。でもここで言わなきゃいつ言うのだろう。
俺はジェットコースターの安全バーなしで乗るよりも思い切って言った。
最近、好みになってきた香美の顔を見て「香美、今まで言われへんかってごめん、なんか言ってもうたら、気持ちが減ってまうような気がして言われへんかったけど」
まだ、ジェットコースターは発車しない。
「なによ?」
生涯で何度ここまで気持ちを込めてこの言葉を言えるだろう……。
「好きだ」