さようならなんて、いわないで
世界を見回す。
こんなにも大きな籠の中に僕はいたんだ、と。
叫びたくなった。
しなかったけど。
馬鹿みたいに高い場所に立って、多くを見下ろす。
蟻を観察しているみたいな気分になる。
僕は、僕だけは。
今日この日、特別な動きをしている。
学校に行くわけでも、
会社に行くわけでもなく。
生活の買い物をするわけでもない。
自分を殺す前に、世界を見回す。
殺害場所に高台は選ばない。
下に人がいたら困るから。
僕が殺したいのは、僕自身だけ。
他に巻きこんでしまいたい人はいない。
家族も友人もいたけれど。
彼らにはまだ生きていてほしいから。
ううん、違う。
彼らなんかを連れていきたくないから。
僕は、ひとりぼっちでいい。
ひとりぼっちがいい。
そうすれば、他者との違いに泣くことはないから。
ちらり、と視界に映った黒髪。
まるで彼女が僕を探しに来ている気がした。
そんなこと、あるわけないのに。
僕は、何も言わなかったんだから。
きっと彼女は、何も気づかないまま。
今頃お昼ご飯の仕度をしているんだ。
追いかけてきたけれど、あの後車に遮られた。
きっと、諦めて家に帰っているはずだ。
あんなにもドライな性格の人なんだから。
「見つけたっ!」
背中に衝撃。
口からは空気が押し出された音がする。
「探したんだから」
そういう彼女の体は震えていた。
息を切らして、汗をうっすらかいている彼女。
寒さじゃないその震え。
「ごめん」
彼女のことを、愛していた。
いや、大好きだった。
だから嫌われるのが怖かった。
ただ、喧嘩しただけだった。
でも彼女の言葉が、僕そのものを否定しているような気がして。
「私こそ、ごめん」
だからお願い。
嫌いにならないで。
僕には、君しかいないんだ。
いなくならないで。
僕の傍に居て。
僕だけの、傍に居て。
そんな願いをも打ち砕くような、昼の鐘がなる。
鐘の音が響けば、響くほど。
彼女から与えられるものが消えていく。
抗おうと後ろを振り向いた、けれど。
そこには何もなかった。
振り向く一瞬間の、彼女の「さようなら」。
それだけが、鐘の音よりも耳に遺った。