不可逆のダイアグラム
午前4時。デジタル時計の無機質な青い光が、秒を刻むたびに部屋の空気を削り取っていく。
私はベッドの中で、その時を待っていた。腰の下に広がる、じっとりと重く、そして耐えがたいほど温かい感触。
それは6日連続、144時間の計画的停滞の証だった。
「……計算通り」
乾いた唇でそう呟く。
私は優秀だった。偏差値、内申点、将来の期待値。積み上げられた数字は、私を「自立した大人」という名の処刑台へと押し上げていく。大人になるとは、誰にも依存できなくなることだ。法を遵守し、納税の義務を負い、自己責任という名の荒野を独りで歩くことだ。
その絶望的な未来を、私の知性は拒絶した。頑張って大人になっても、せいぜい「立派な大人」という役を死ぬまで演じ続けるだけ。ならば、知性を駆使して社会を生き抜くコストを考えたとき、赤ん坊として愛され続けることの方が、遥かにコストパフォーマンスが高い生存戦略ではないか。
その仮説を証明するための実験が、1日目から始まっていた。
母には初日から気づかれていた。朝、汚れたシーツを見つけた母の顔に走った、困惑と、ほんのわずかな優越の混じった影。私はそれを見逃さなかった。
2日目、3日目と失態を積み重ねるたび、私は「自分ではどうしようもない」という無力な被害者を完璧に演じ続け、母の「世話を焼きたい」という本能を煽った。
母は日に日に、どこか活力を取り戻しているように見えた。優秀すぎて手のかからなかった娘が、夜な夜な幼児のようにベッドを汚す。その不始末を片付けるたび、母は私という存在を自分の支配下に繋ぎ止め、自身の存在意義を確認していた。私たちは、嘘と依存で編み上げられた共犯者だった。
そして迎えた6日目の朝。
隠しきれない異臭に満ちた部屋で、母はついにその宣告を下した。
「……今夜からは、これを使おうね。あなたのためだから」
差し出されたのは、真っ白な大人用のおむつ。夜の間だけという条件付きの、しかし確実な「管理」の始まり。私は泣きじゃくる振りをしながら、心の中では喝采を上げていた。ドミノの最前列が、音を立てて倒れたのだ。
7日目以降、私の計画は「昼間への侵食」という第2段階へ移行した。
夜の安心感を手に入れた脳は、昼間の知性という重荷をさらに激しく拒絶し始めた。
知性がある限り、愛は常に「評価」にさらされる。愛を評価から切り離し、存在そのものへの執着に変えるには、評価の土俵である自立した人間としての能力自体を破壊するしかない。
侵食は、加速的に、しかし事務的に行われた。
午後の数学の小テスト中、私はテスト用紙を伏せ、意図的に腹圧をかけた。スカートの裾から椅子を伝い、床に広がる水たまり。周囲の生徒たちが鼻をひくつかせ、困惑の視線を交わす。
「……体調が悪かったんです」
一度目は、まだ「アクシデント」として処理された。しかし、10日目、12日目と繰り返される「異変」に、周囲の視線は「心配」から「不気味さへの忌避」へと変容していった。かつての親友たちが不自然に距離を置く。彼女たちが私の「崩壊」に怯えれば怯えるほど、私の心は透明な全能感に満たされた。
象徴的な破局は、全校集会の最中に訪れた。 静まり返った体育館。壇上の校長の話を、全校生徒が立ち並んで聞いている。
その静寂の中で、私はゆっくりと解放した。吸水性を無視したストッキングを伝い、上履きの周りに大きな水たまりが広がる。
隠すことも、恥じ入ることもせず、私はただ虚空を見つめた。
隣の生徒が悲鳴を上げ、ざわめきが体育館を支配する。駆け寄る教師たちの困惑した顔。その瞬間、学校というシステムは私を「手に負えない異常」として排出した。
もう、教室に私の席はない。代わりに手に入れたのは、24時間おむつを外せなくなった、母親だけの「完全な所有物」としての身分だった。
だが、ドミノの連鎖は、私の想像を絶する「不可逆的な変化」を連れてきた。
若さゆえの視野狭窄は、自分の肉体が無限にやり直せるという錯覚を与えていた。だが、身体は、驚くほど正直だった。意図的におむつを使い続け、排泄のコントロールを「外部」へ委ねた結果、医学書で読んだ「廃用性萎縮」が文字通り私を侵食した。
膀胱は柔軟性を失い、100mlの貯留にも耐えられないほど縮小した。尿道括約筋は脳からの抑制命令を完全に失念し、わずかな刺激で反射的に門を開くようになった。脳と排泄器官を繋ぐ伝達経路が書き換えられ、脳が「抑制」の仕方を忘れてしまったのだ。
数ヶ月後。
私はもう、自分の力で「出す」ことも「止める」こともできない。かつて愛した数式の美しさも、戦略的な思考も、ドミノを並べた時の高揚感も、すべては厚い綿の重みの中に溶けて消えた。
一度だけ、試してみたことがあった。かつての知性を総動員して、1分間だけ、排泄を止めてみようと。 結果は無惨だった。脳が「止める」というコマンドを認識しない。神経のダイアグラムは既に書き換えられ、私は物理的に、赤ん坊へと固定されていた。
母が部屋に入ってくる。
「あら、また濡らしちゃったのね。いい子ね、すぐ替えてあげるわ」
母の笑顔は、聖母のように慈悲深い。 私は笑おうとした。自分の計画が完璧に成功したことを祝して、最高の勝利宣言をしようとした。
けれど、表情筋の動かし方さえ、私はもう思い出せなかった。ただ、喉の奥から「あー」という、意味を持たない音が漏れる。
知性は、肉体の崩壊とともに霧散した。
私は、勝ったのだ。
自分の知性を使って、自分の知性を殺し、永遠に母親の腕から逃れられない「完璧な地獄」に辿り着いたのだから。
できれば、いいねとかお気に入り登録していただけると嬉しいです。




