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不揃いのグラス

掲載日:2026/06/20

ミートパイが焼けるのを待ちながら、

キッチンで一人ワインを飲んでいた。


手元が滑った。


グラスが床へ落ちる。


甲高い音が響き、赤い液体が広がった。


反射的に手を伸ばし、指先を切る。


小さな痛みだった。


胸の奥が、少しだけざわついた。


この部屋でグラスを割るのは二度目だ。


前も似たような夜だった。


私が泣きながら破片を拾おうとして、


彼に怒られた夜。


「危ないから動くなって」


そう言いながら、彼は私の手を引いた。


思い出したくないのに、こういう時ばかり鮮明になる。


しゃがみ込み、破片を集める。


床には赤い跡が残った。


血なのかワインなのかわからない。


雑巾で拭く。


何度こすっても、うっすら色が残る。


タイマーを見る。


あと十分。


オーブンではミートパイが焼けている。


彼の好物だった。


そう思った瞬間、胸のどこかがきしんだ。


昨日、彼は言った。


「少し距離を置こう」


そのあと何か話していたはずなのに、その一言しか残っていない。


私は頷いた。


泣かなかった。


引き留めもしなかった。


けれど、何を言えばよかったのか今もわからない。


それでも今日の約束は、そのままだった。


オーブンが鳴る。


扉を開けると、香ばしい匂いが広がった。


こんな日に限って、今までで一番きれいに焼けている。


少し腹が立った。


失敗してくれたら、会うのをやめる理由にできたかもしれないのに。


皿を並べる。


フォークを置く。


ワインを出す。


そこで手が止まった。


グラスが一つ足りない。


棚から別のグラスを取り出す。


形も高さも違う。


並べてみる。


不格好だった。


ずっと揃いだったはずなのに。


その時、インターホンが鳴った。


玄関へ向かう途中、私は振り返った。


テーブル。


ミートパイ。


二つのグラス。


そして床に残った薄い赤。


拭こうと思えば拭ける。


けれど私は、そのままにした。


ドアを開ける。


彼が立っていた。


同じ顔。


同じ声。


なのに、ひどく遠くに感じた。


「いらっしゃい」


彼は部屋へ入り、テーブルを見て笑った。


「また割ったの?」


私は答えなかった。


代わりに、ずっと聞けなかった言葉が喉まで上がってくる。


席に着く。


湯気の立つミートパイの向こうに彼がいる。


この食事が、やり直すためのものなのか。


それとも終わりのためのものなのか。


まだわからない。


ただ──


昨夜より少しだけ、怖くなかった。


だから私は口を開いた。


「ねえ」


彼が顔を上げた。




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