不揃いのグラス
ミートパイが焼けるのを待ちながら、
キッチンで一人ワインを飲んでいた。
手元が滑った。
グラスが床へ落ちる。
甲高い音が響き、赤い液体が広がった。
反射的に手を伸ばし、指先を切る。
小さな痛みだった。
胸の奥が、少しだけざわついた。
この部屋でグラスを割るのは二度目だ。
前も似たような夜だった。
私が泣きながら破片を拾おうとして、
彼に怒られた夜。
「危ないから動くなって」
そう言いながら、彼は私の手を引いた。
思い出したくないのに、こういう時ばかり鮮明になる。
しゃがみ込み、破片を集める。
床には赤い跡が残った。
血なのかワインなのかわからない。
雑巾で拭く。
何度こすっても、うっすら色が残る。
タイマーを見る。
あと十分。
オーブンではミートパイが焼けている。
彼の好物だった。
そう思った瞬間、胸のどこかがきしんだ。
昨日、彼は言った。
「少し距離を置こう」
そのあと何か話していたはずなのに、その一言しか残っていない。
私は頷いた。
泣かなかった。
引き留めもしなかった。
けれど、何を言えばよかったのか今もわからない。
それでも今日の約束は、そのままだった。
オーブンが鳴る。
扉を開けると、香ばしい匂いが広がった。
こんな日に限って、今までで一番きれいに焼けている。
少し腹が立った。
失敗してくれたら、会うのをやめる理由にできたかもしれないのに。
皿を並べる。
フォークを置く。
ワインを出す。
そこで手が止まった。
グラスが一つ足りない。
棚から別のグラスを取り出す。
形も高さも違う。
並べてみる。
不格好だった。
ずっと揃いだったはずなのに。
その時、インターホンが鳴った。
玄関へ向かう途中、私は振り返った。
テーブル。
ミートパイ。
二つのグラス。
そして床に残った薄い赤。
拭こうと思えば拭ける。
けれど私は、そのままにした。
ドアを開ける。
彼が立っていた。
同じ顔。
同じ声。
なのに、ひどく遠くに感じた。
「いらっしゃい」
彼は部屋へ入り、テーブルを見て笑った。
「また割ったの?」
私は答えなかった。
代わりに、ずっと聞けなかった言葉が喉まで上がってくる。
席に着く。
湯気の立つミートパイの向こうに彼がいる。
この食事が、やり直すためのものなのか。
それとも終わりのためのものなのか。
まだわからない。
ただ──
昨夜より少しだけ、怖くなかった。
だから私は口を開いた。
「ねえ」
彼が顔を上げた。




