水辺の女
ホームセンターでバイトしている俺は夜の9時過ぎ、ようやく帰れることになった。
まだ仕事をしている社員さんにおつかれっしたーなんて軽く挨拶して車輪が転がるとキュルキュルと油の枯れた音がする自転車に跨った。
季節は冬、年末になればこの辺りも一度は積もるだろう。数日前、遠くに見える鈴鹿山脈の頂がうっすらと白くなっていた。
ネックウォーマーと手袋を嵌めて、自転車を漕ぎ出す。刺さるような北風を切りながら暗い田舎の道を走り始めた。
バイト先は一級河川の傍に建っている。鈴鹿山脈を水源に大きな流れを作る川で、上流のダムから放流されない限り流れは穏やかだ。「明治の頃に堤が切れた時は本家の1階が水で沈んだんだ」と祖母が言うほど大きな川だった。
自宅はその川に掛かる橋を渡った先だ。店の敷地の前を走る道路はこの時間でも風を切りながら車が走っている。1台1台が走り抜ける度に目が眩むような輝きを持つライトが迫っては川に架かる橋に向かって行った。道路を渡ってその車の端を通り、北風と車の走り抜ける風に遮られながらもようやく橋の欄干の近くまで辿り着いた。
北風と車の走り抜ける風が自転車のタイヤを重くする。橋の上なんて遮るものがない場所はより顕著だ。最近はもう諦めて橋の上は自転車を押すことにしていた。
歩き始めると感じていた風が少し弱まった気がした。刺さるような冷たさが和らいだおかげかカッと顔に熱が戻ってきてネックウォーマーの下で鼻をすする。
川に沿って車道が走っていて、等間隔に並んだ道路灯のおかげか本当にうっすらと川の様子が見ることができた。車の走り抜ける音で水の音は何も聞こえない。土手に近いところはまだ見ることができるが流れがある川の中心は真っ暗闇だ。
川の中心に向かうほど風が強くなり、押すのすら一苦労で冷たい風がビュウビュウと入り込んで耳が痛い。冷えた耳を庇いたくて上流の方向に顔を向けると、河原にぼんやりとした光があった。真っ暗闇の河原にそれはぽっかりと空いた光の空間のように佇んでいた。
人だ。
こんな夜に、冬の夜に河原に人がいる。この川で鮎釣りをしたことはあるが、今はそんな季節ではない。それどころかその光源は女で、胸の前で赤ん坊を抱えていた。
立ち止まって動くことができない。ビュウビュウと吹き付ける風の音と信号待ちで停まった車のエンジン音だけの世界で、その女から目を離すことはできない。それはその女が何かを伝えるようにしきりに腕を動かしていたからだった。
ぼんやりと青白い光の中、目がようやく慣れてきて、女の動きの意図が読み取れた。
おいで――
赤ん坊を片腕に抱いてその女がしきりに手招きをする。青白い光よりも白い顔の口元を歪めて、高い橋の上にいる俺に向かってゆっくりと腕を動かしていた。
真隣から排気ガスを吐き出す大きな音にハッとする。どうやら信号が変わったようで停まったままだった車が動き出した。
呼吸を思い出したように息を吸うと、途端に何故、が生まれ出る。
何故、こんな時間に河原にいる。
何故、こんな寒い時期にそんな場所に、ここは近くに家なんかない。どうやって来た。
何故、こんな真っ暗闇なのにはっきりとその姿を表情を見ることができた。
何故、今行かなければと思った――!
キィッと油の枯れた自転車を押す。そのまま跨ると青が灯る横断歩道に向かってめいいっぱいペダルを踏んだ。
だめだだめだだめだ。川から離れろ。あれが生きてる人間か。
チカチカと点滅を始めた信号に、必死になってペダルを踏み込む。そうしてなんとか変わる寸前に横断歩道に入り、そしてそのまま市街へと向かう下り坂を全力疾走で転がっていく。
川からどんどん離れていき、家の前を通る旧道に入る。無我夢中で自転車を漕いでいき、家に辿り着いた。自転車を納屋にしまうことも億劫で、置き去りにして家に飛んで入ると台所にいた母親が騒がしい帰宅に目を丸くする。
座り込んだ俺に母親は呆れたような声を上げた。
「あんた、水でも被ったようなびしょ濡れだよ」と。




