第7話 毒婦の影と、鉄の胎動
鳥の死骸がもたらした衝撃は、フロンティアの村に瞬く間に広がった。北の沢が毒に汚染されたという事実は、ハイエナという見えざる脅威が、もはや噂や警告の類ではなく、現実の危機として喉元に突きつけられたことを意味していた。
「なんてこった……奴ら、もうこんな近くまで……」
「北の沢の水が飲めないとなると、井戸が枯れたら俺たちは終わりだぞ」
村人たちの顔に、再び恐怖の色が濃く浮かぶ。ついさっきまでいがみ合っていたダントさんやキバたちも、今はただ黙り込んで、深刻な表情で鳥の死骸を見つめていた。共通の、そしてより強大な敵の出現は、皮肉にも彼らの間の小さな対立を吹き飛ばしてしまった。
「ユウキ、どうする? 奴らは間違いなく、次はこの村の井戸を狙ってくる」
ザギが、低い声で俺に問いかけた。その目は、荒野での厳しい生存競争を生き抜いてきた者特有の、鋭い光を宿している。
「井戸の警備を強化する。それしかない」
俺は即答した。「村の男衆と、ザギの仲間たちで合同の警備隊を組む。四六時中、交代で見張りを立てるんだ。井戸の周りには近づかせない。特に、見慣れない人間には絶対に」
「わかった。それはすぐに手配する」とザギが頷く。「だが、それだけじゃ足りねえ。サラのやり方は巧妙だ。警備の目を欺いて、いつの間にか毒を仕込む。直接井戸に近づかなくても、例えば雨水が流れ込む経路に毒を塗るとか、やり方はいくらでもある」
「……わかってる。だから、もう一つの手も打つ」
俺は決意を固め、みんなに向かって言った。
「今日から、井戸の水を飲む前には必ず『検分』を行う。その役は、俺がやる」
「お前が?」
アンナが驚きの声を上げた。「どうやって? 毒見でもするつもり?」
「まさか。そんなことしたら、俺が一番先に死んじまう。もっといい方法があるんだ」
俺は村人たちを、俺の実験農場へと連れて行った。そこには、先日までストーンポテトが植えられていた区画がある。
「見てくれ」
俺はそこから、まだ収穫していなかったストーンポテトを一つ掘り起こした。そして、あらかじめ用意しておいた、北の沢から汲んできた黒く濁った水を、そのポテトの断面に数滴垂らした。
すると、驚くべき変化が起こった。
ポテトの断面が、毒に触れた部分だけ、みるみるうちに紫色に変色していくのだ。
「こ、これは……!?」
ギデオン長老が、目を見開いて息を呑んだ。
「ストーンポテトは、極度の乾燥状態で育ったせいで、特殊な酵素を大量に含んでいる。それが、ハイエナの使う『デビルズオーキッド』の毒の成分と反応して、色を変えるんだ。じいちゃんの日誌に、似たような記述があった。偶然の産物だが、こいつは最高の『毒物検知器』になる」
どよめきが、村人たちの間に広がった。それは、恐怖を打ち消す、科学的な驚きと安堵のどよめきだった。目に見えない毒の恐怖が、「ポテトが変色する」という目に見える現象に変わった。それだけで、人々の心理的な負担は大きく軽減される。
「すごい……ユウキ、お前、本当にすごいよ!」
ダントさんが、心からの感嘆といった様子で俺の肩を叩いた。
「これで、奴らが井戸に毒を盛っても、俺たちはすぐに見抜ける! これなら戦えるぞ!」
村に、再び闘志の火が灯った。俺のポテトが、またしても絶望的な状況に一筋の光を差し込んだのだ。
その日の夕方。
俺は一人、実験農場に戻っていた。鉄鉱石を混ぜた土壌に植えた、特別なポテトの様子を見るためだ。
葉の勢いは悪くない。だが、今のところ、目に見える変化はなかった。本当に、鉄のようなポテトなど生まれるのだろうか。俺の考えは、ただの空想だったのではないか。一瞬、弱気が心をよぎる。
「……ユウキ」
背後から声をかけられ、振り返ると、ザギが立っていた。彼の手には、水筒と、干し肉が一切れ握られている。
「昼から何も食ってねえだろ。これでも食え」
「……ああ、サンキュ」
俺は素直に受け取り、干し肉をかじった。塩辛い味が、疲れた体に染み渡る。
「あんた、大したもんだな」
ザギは、俺が世話をしている畑を見ながら、ぽつりと言った。「イモ一つで、村中の人間をまとめちまうんだから。ボルグの奴は、力と恐怖でしか俺たちをまとめられなかった。だが、あんたは違う。希望を見せることで、人を動かす」
「買いかぶりすぎだ。俺はただ、ポテトのことしか知らないガキだよ」
「その『ポテトのことしか知らない』ってのが、あんたの最大の武器なんだろうな」
ザギは静かに笑うと、真顔に戻った。
「……一つ、気になってることがある。ハイエナのリーダー、サラのことだ。奴は、なぜかポテトを異常に憎んでいる。かつて、ある集落がポテト栽培で豊かになったのを妬んで、一夜にして毒で滅ぼした、なんて話も聞いたことがある」
「ポテトを憎んでる?」
初耳だった。一体、なぜ?
「ああ。だから、この村がポテトで息を吹き返したと知れば、サラはどんな手を使ってもここを潰しに来るはずだ。奴にとって、この村は自分の美学に反する、目障りな存在なんだろう」
ポテトへの憎悪。毒婦サラの、不可解な行動原理。その謎が、俺の頭の中で不気味な影を落とした。
ザギが立ち去った後も、俺はその場に残り、ポテトの世話を続けた。
その時だった。
ガッ、という硬い感触が、鍬の先に伝わった。
石か? そう思い、手で土を掘り起こしてみる。
そこにあったのは、石ではなかった。
土の中から現れたのは、一つのポテト。しかし、その姿は異様だった。表面が、鈍い金属光沢を放っているのだ。まるで、鉄の塊のように。
「……まさか」
俺はゴクリと唾を飲み込み、そのポテトを手に取った。ずしりと、ストーンポテトとは比べ物にならない重みが腕に伝わる。
俺は腰に下げていたナイフを取り出し、その表面を削ごうとした。
キィン!
甲高い金属音が響き、ナイフの刃が滑った。ポテトの表面には、傷一つついていない。逆に、俺のナイフの方が、わずかに刃こぼれしていた。
「できた……本当に、できた……!」
アイアンポテト。
じいちゃんの夢想が、俺の手の中で現実になった瞬間だった。
俺は込み上げてくる興奮を抑えきれず、その鉄の塊を強く握りしめた。こいつがあれば、ハイエナの防具など、バターを切るように貫けるだろう。ストーンポテトとは比較にならない、究極の投擲武器になる。
勝利への確かな手応えを感じ、俺の口元に笑みが浮かんだ。
だが、その笑みはすぐに消えた。
遠く、村の方角から、女の悲鳴が聞こえたのだ。
一つではない。いくつもの悲鳴が、夜の静寂を引き裂いて響き渡る。
「しまった!」
俺はアイアンポテトを麻袋に放り込むと、全速力で村へと駆け出した。
ハイエナの襲撃か!? いや、警備隊からの報告はなかった。一体、何が?
村の広場にたどり着いた俺が目にしたのは、信じがたい光景だった。
村人たちが、何かに怯えるように後ずさりをしている。その輪の中心にいたのは、アンナだった。
「アンナ!」
俺が駆け寄ると、彼女は青ざめた顔で、自分の手を見つめていた。
彼女の手には、村の井戸から汲んだ水が入った桶がある。そして、その水面が、不気味に黒く濁っていた。
「どうしたんだ、何があった!」
「ユウキ……! 私が、私が水を汲んだら、急に水が……!」
アンナは、パニックに陥っていた。
その時、村人の一人が、震える指でアンナを指差して叫んだ。
「魔女だ! アンナは魔女だ!」
「そうだ、あいつが井戸に毒を入れたんだ!」
「ザギたちと通じて、俺たちを裏切ったんだ!」
集団心理が生み出した、狂気の非難。
毒への恐怖が、最も身近な人間への疑心暗鬼となって牙を剥いたのだ。
「違う! 私は何もしてない!」
アンナは必死に否定するが、恐怖に支配された村人たちの耳には届かない。
その混乱の最中、俺は見てしまった。
村人たちの輪の外、物陰で、一人の見慣れない女が、蛇のように冷たい笑みを浮かべているのを。その首には、緑色に輝く石のペンダントが下がっていた。
毒婦、サラ。
奴は、たった一人で、すでに村の中に潜入していたのだ。
戦いは、俺たちが気づかぬうちに、内側から始まっていた。